ウォーレン・バフェットは世界を代表する投資家のひとりですが、彼の父ハワード・バフェットもたぐいまれな才能をもった投資家でした。人生の成功のために、バフェットは父ハワードからどんな秘訣を学んだのかを見てみましょう。バフェットという人物をより深く理解できるはずです。

目次

  1. ウォーレン・バフェットは伝説の投資家のなかでもさらに特別な存在
  2. ウォーレン・バフェットの父ハワードもたぐいまれな投資センスを持っていた
  3. ウォーレン・バフェットが父から学んだこと1:投資の世界の魅力
  4. ウォーレン・バフェットが父から学んだこと2:自分自身で考え、行動すること
  5. ウォーレン・バフェットが父から学んだこと3:原則を立て、それを貫くこと
  6. ウォーレン・バフェットが父から学んだこと4:顧客との利害が一致すること
  7. ウォーレン・バフェットが父から学んだこと5:文字を読みまくること
  8. ウォーレン・バフェットのもうひとりの父、ベンジャミン・グレアム
  9. まとめ:ハワードとウォーレン・バフェットの最大の共通点とは?

ウォーレン・バフェットは伝説の投資家のなかでもさらに特別な存在

(画像= Andriy Blokhin/stock.adobe.com)

ウォーレン・バフェットは「オマハの賢人」と呼ばれます。ネブラスカ州のオマハはバフェットの故郷であり、彼が率いる資産運用会社バークシャー・ハサウェイの本拠地でもあります。「伝説の投資家」と呼ばれる人は数多くいますが、投資家で「賢人」といわれる人はそうそういません。

投資の運用成績だけで見ると、バフェットを超える投資家はいます。たとえば、ヘッジファンド「ルネサンス・テクノロジーズ」の創業者ジム・シモンズは約20年の間、年平均40%以上の利益をたたき出しています。この運用成績はバフェットを圧倒しているといわれます。しかし、このジム・シモンズでさえも、賢人という言葉は使われません。

バフェットと数多くの伝説の投資家との間には、大きな違いがあります。それは、大半の伝説の投資家はリスクの高い投機や効率的なアルゴリズムで短期的なリターンを得るのが目立つのに対し、バフェットは自身の原則を貫き通し、長期的なリターンを得てきたことです。そんなバフェットの一貫した姿勢が孤高な雰囲気を感じさせ、「賢人」という言葉がぴったりなイメージをつくり出すのでしょう。

バフェットの原則とは、一般的には「企業価値のある株式を超長期で保有する」というのがよく知られます。ただし、実際にはそこまでシンプルな投資手法ではないようです。日経新聞によると、実際のバフェットは購入した銘柄の3分の2を5年以内に売却。さらに半年以内、1年以内で手放す銘柄も相当数あります。20年以上の保有銘柄はコカ・コーラとアメリカン・エキスプレス、それにウェルズ・ファーゴだけです。

イメージとのズレがあるとはいえ、厳しい投資の世界で長くトッププレイヤーでいるバフェットが賢人であることは変わらないでしょう。そのバフェットは2020年8月30日で90歳を迎えます。高齢のため、リターンが顕在化しない時期があると「バフェットの時代は終わった」といった評価を受けることもありますが、結果を出し続けることで「バフェットの時代は続いている」と証明してきました。

「伝説の投資家」のなかでも特別な存在といえるウォーレン・バフェット。彼は父から多大な影響を受けてきました。その父ハワードはどんな人物だったのでしょうか

ウォーレン・バフェットの父ハワードもたぐいまれな投資センスを持っていた

父ハワードの軌跡をたどると、ウォーレンとの共通点が見えてきます。まずはハワードの人生の軌跡をたどってみましょう。

オマハで代々続く商店に生まれる。大学時代は優秀な生徒だった

バフェット家はオマハの開拓者で、代々、商人の家系でした。ハワードは商店の三男として1903年に生まれました。けっして裕福な家庭ではなく、高校時代から新聞配達などをしていたようです。

ネブラスカ大学に進学したハワードはジャーナリズムを専攻し、政治に熱中しました。非常に優秀な学生だった彼は、大学時代に後の妻(ウォーレンの母)となるリーラと出会っています。リーラは数学に優れた才能を見せる生徒だったようです。2人は若くして結婚しました。

挫折から始まったハワードのビジネス

ハワードは大学卒業後の1927年、ユニオン・ステート銀行の株式ブローカーの職業に就きます。しかし、その2年後、世界大恐慌の影響によって、仕事と資産を失います。

そんななか、ハワードは2人の仲間と証券会社を開業しました。ハワードは安全性の高い資産を中心に運用しリターンを生み出します。世界中の金融市場が停滞するなかで顧客を増やし、会社は成長しました。ハワードもたぐいまれな投資センスの持ち主だったのです。

優秀な営業マンとしての一面も持ち合わせた父

1930年代の世界的な大不況、さらに何年も続く猛暑が干ばつを引き起こし、当時のアメリカは生活の苦しい家庭がほとんどでした。一方、バフェット家はハワードの証券会社の成功によって比較的、生活に余裕のあるミドルクラスとなっていました。

ハワードはこの成功に甘んじることなく、地道にセールスを続けていました。投資センスに加え、優秀な営業マンとしての資質も、父との共通点です。少年期のウォーレンも、チューインガムやコカ・コーラを売るために近所を訪ね歩いています。アメリカンフットボールの試合でピーナッツやポップコーンを売ったり、高校時代には購入したピンボールマシンを床屋に設置するため営業をかけたりしましたが、そのどれもが成功しました。

ハワードとウォーレンの決定的な違い。政治への関心

たぐいまれな投資家だったこと。営業マンとしても優秀だったこと。父子にはこれらの共通点がありましたが、決定的な違いもあります。それは、ウォーレンが生涯を投資家として通しているのに対し、ハワードは投資家と政治家の二足のわらじを履いたことです。

ハワードは証券会社のビジネスだけでなく、政治活動にも注力しました。もともと熱心な共和党員だった彼は、ネブラスカ州の下院議員選挙に立候補。「絶対的不利」という前評判を覆して当選します。これを機に政治家としての地位を固め、その後3期に渡って議員として活躍しました。

このようにハワードの人生を振り返ってみると、勤めていた銀行が倒産した後の証券会社開業や、前評判を覆しての下院議員当選など、逆境をひっくり返して次の成功をつかむ人生だったといえます。そんな人生を送った父と接するなかで、ウォーレンはなにを学んだのでしょうか。

ウォーレン・バフェットが父から学んだこと1:投資の世界の魅力

ウォーレンが父から学んだことの1つめは、「投資の世界の魅力」です。前に触れたように、ハワードの職業はもともと地元銀行の株式ブローカーでした。銀行が破綻した後に、自ら証券会社を立ち上げています。

ウォーレンは10歳のとき、父親の経営する証券会社に置いてあった投資の専門誌のコラムを毎週欠かさず読んでいました。それだけに飽き足らず、父親の書棚や図書館にあった投資関連の本を読み漁って投資の知識を蓄えていきました。そして、11歳のときにはじめて株式を購入したのです。

ウォーレンがこのように幼少期の頃から投資の世界に魅力を感じたのは、父の存在があったからです。精力的に仕事をする姿、交友する人々、そしてハワードの周囲にあった投資の知識。これらがウォーレンを投資の世界に誘いました。 ウォーレンは高校の卒業アルバムの自分の写真の下に「株式ブローカー志望」と書き残しています。

父が証券会社を経営していたことはウォーレンに多大な影響を与えました。もしハワードが別の職業に就いていたら、「投資の神様」が誕生することはなかったのかもしれません。

ウォーレン・バフェットが父から学んだこと2:自分自身で考え、行動すること

ウォーレンが、父から学んだことで一番大きかったのは「自分自身で考え、行動すること」かもしれません。本人へのインタビューに基づいて執筆された自伝『スノーボール ウォーレン・バフェット伝』でも、ハワードから細かく行動を制約されたようなシーンはほぼ出てきません。

ハワードがウォーレンの行動を見守り、自立性を尊重していた象徴的なエピソードがあります。ウォーレンには幼い頃から商才があり、6歳の頃からチューインガムやコカ・コーラを近所に売って儲けていました。それは微笑ましい子どものお小遣い稼ぎのレベルではなく、家族旅行に行った時でさえも、旅行客にセールスをするほどの入れ込みようでした。

注意したいのは、このようなウォーレンの行動は家計を助けるためではなかったということです。当時、バフェット家はハワードが商売で成功していて生活に困らないミドルクラスでした。それでもハワードは、息子の行動を見守り続けました。

もう1つ、ハワードが「自分自身で考え、行動すること」を重視したことを示すエピソードがあります。

後に「オマハの賢人」となるウォーレンですが、意外にも中学時代は相当な非行少年でした。反社会的な仲間とつるみ、スポーツ用品店で窃盗を繰り返していたのだとか。実際、「万引きし放題だった。(中略)ゴルフボールは何百個も盗んだよ」と自伝で語っています。

成績も低迷し、卒業が危ぶまれるほどでした。それでもハワードは息子を叱りつけることはありませんでした。ただ、あまりにも目にあまる行動だったので、「このままなら一番好きな金儲けをやめさせる」とだけいいました。ウォーレンはこの父の忠告に対し、「これはいけない、あれはいけないと言われるよりもずっと、私にはこたえた」と述べています。

深く反省したかいもあり、高校生になるとウォーレンの行動は大きく変わりました。卒業するときには同窓生350人のうち16位という上位の成績をおさめるようになりました。「投資の神様」であれば最上位の成績をとってもよさそうですが、上の中くらいの成績というのは意外なエピソードかもしれません。

ウォーレン・バフェットが父から学んだこと3:原則を立て、それを貫くこと

バフェットの成功哲学がまとめられている名著『ウォーレン・バフェット 成功の名語録 世界が尊敬する実業家、103の言葉』では、人生で成功するための秘訣として、ウォーレンが父から受け継いだものとして「原則を立て、それを貫く」姿勢を挙げています。

この人生に対する基本姿勢をハワードは、単に表面的な言葉だけでなく、人生そのものを通して体現しました。下院議員に当選し、保守派の政治家としてどんなに少数派になっても、自分の考えを貫き通す姿勢を崩しませんでした。その孤高の父の姿勢について、ウォーレンは次のように評しています。

「私の父は、内なるスコアカードが100パーセントの人だった。つまり、徹底した一匹狼だったんだ。だが、一匹狼であることが目的の一匹狼ではなかった。人にどう思われるかを気にしなかっただけだ。人生をどう生きるべきかということは、父に教わった」
引用:桑原晃弥著『ウォーレン・バフェット 成功の名語録 世界が尊敬する実業家、103の言葉』(PHPビジネス新書)

周囲の目を気にせずに、自分の原則を貫く。これはまさにバフェット自身の投資スタイルそのものといってよいでしょう。

ウォーレン・バフェットが父から学んだこと4:顧客との利害が一致すること

ウォーレンはハワードを反面教師として学んだ教訓もありました。ウォーレンは大学卒業時に師として慕っていたベンジャミン・グレアムの投資会社(グレアム・ニューマン社)への入社を希望しますが断られ、失意のまま父が経営する証券会社で働くことになります。

ウォーレンがハワードの証券会社で働いているとき、納得できないことがありました。証券会社での仕事は顧客に株を売ることであり、その量が増えるほど会社には手数料が入ってきます。それにより、証券会社の目的は顧客を儲けさせることよりも、顧客に株式をたくさん売ることになってしまいがちです。

ウォーレンはこの経験から、顧客の利益と自身の利益が相反する株式ブローカーでなく、顧客との利益が一致するパートナーシップにこだわるようになりました。顧客から資金を集め、それをウォーレンたちが運用するというバークシャー・ハサウェイのビジネスモデルの根底には、まさにパートナーシップの精神があるのです。

ウォーレン・バフェットが父から学んだこと5:文字を読みまくること

ハワードは夕食後に夕刊や雑誌を何時間も熟読することを日課にしていました。また、彼のオフィスの本棚には数多くの書籍があり、少年時代のウォーレンがそれを読むことで、投資の知識を蓄えたことは前述の通りです。この「文字を読みまくる」習慣も父から受け継いだ無形の資産でしょう。

ウォーレン投資の基本は、膨大な財務諸表や各種レポートを読み込んで対象企業を精査することです。ウォーレンはハワードの会社に勤めていた時期から、約1万ページにもおよぶ『ムーディーズ・マニュアル』を繰り返し読んでは情報収集をしていました。まさに文字を読むことこそが、ウォーレンの投資の生命線といえるでしょう。実際には投資家として成功するための条件を問われると、「手当たりしだい、読むことです」と答えています。

このようにウォーレンは父から重要な無形の資産を受け継ぎました。いずれにしても、父を敬愛していたのは間違いありません。そのことはウォーレンが息子に父と同じ名前をつけたことからもわかります。『スノーボール ウォーレン・バフェット伝』の冒頭では、かつて父が使っていた古くてそまつなデスクをバークシャー・ハサウェイ本社で愛用している姿が紹介されます。このエピソードだけでも、いかに父を愛していたかがわかります。

ウォーレン・バフェットのもうひとりの父、ベンジャミン・グレアム

ウォーレン・バフェットには、実の父の他に、“もうひとりの父”がいました。投資家としてのバフェットを育てたベンジャミン・グレアムです。彼は近代的な投資手法を確立した人物のひとりです。

ベンジャミン・グレアムは、コロンビア大学で哲学と数学を学んだ後、証券会社のメッセンジャーとなり、1926年、30代で自身の投資パートナーシップを立ち上げます。しかし、1929年の世界恐慌によって生活が苦しくなり、母校で教鞭をとることでしのぎました。このとき同じ大学の教授だった デビッド・ドッドと共著『証券分析』を書き上げたことで一躍知名度を高めました。その後、グレアムが単独で執筆した『賢明なる投資家』もまた名著として知られています。

このグレアムの著作に感銘を受けたバフェットはコロンビア大学に進学。グレアムから理論や投資手法を学びました。その後、いったんは断られるものの、グレアムが経営する資産運用会社に入社しています。

グレアムの理論は現在、バリュー投資といわれるものです。基本的な考え方は、実際の価値より評価の低い株式を見つけ出し、中長期的にそれを保有すればリターンを得やすいというものでした。一見するとシンプルな考え方ですが、これを実現するには企業価値を正しく分析する手法や考え方が必要になります。このプロセスを理論化したのがグレアムの功績といえるでしょう。

バフェットは、このグレアムの理論に多大な影響を受けています。ただ、企業価値を徹底的に見るという考えは共通ですが、グレアムが分散投資を重視するのに対し、バフェットは集中投資が得意といわれます。「ここぞ!」というときに集中投資を実行してリターンを得る。これにより、バフェットは驚異のリターンを手中におさめてきたのです。

まとめ:ハワードとウォーレン・バフェットの最大の共通点とは?

父ハワードにクローズアップすると、ウォーレンと多くの共通点があることを紹介してきましたが、ハワードとウォーレンには、孤高な人物であるという共通点もあります。ただ、2人は誰も寄せ付けないという意味での孤高ではなく、周囲から愛される孤高である点が特徴的です。

ハワードの葬儀には、大勢の人が集まりました。バフェットは今なお現役の投資家ですが、バークシャー・ハサウェイの株主総会には全米だけでなく、世界中から株主が集まることで有名です。それはバフェットが拠点を置くオマハのホテルがほぼ満室になるほどの盛況ぶりです。

経済界の偉人たちが、高齢になることで輝きを失ったり、判断を見誤ったりするケースは少なくありません。「オマハの賢人」は年齢に関係なく、生涯を通して賢人であり続けるでしょうか。すでに高齢である「賢人」がこの先、経済界にどのような影響を与えるか注目していきましょう。

参考文献:『スノーボール ウォーレン・バフェット伝』アリス・シュローダー著・伏見 威蕃訳(日経ビジネス人文庫)、『株で富を築くバフェットの法則[最新版]不透明なマーケットで40年以上勝ち続ける投資法』ロバート・G・ハグストローム著 小野一郎訳(ダイヤモンド社)、『ウォーレン・バフェット成功の名語録 世界が尊敬する実業家、103の言葉』桑原晃弥著(PHPビジネス新書)

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