(本記事は、呉 暁波の著書『テンセント 知られざる中国デジタル革命トップランナーの全貌』プレジデント社の中から一部を抜粋・編集しています)

ハレー彗星を見た少年

ハレー彗星
(画像=Brian Donovan/Shutterstock.com)

1986年4月11日、ハレー彗星が76年ぶりに神秘的な尾をきらめかせながら、予定時刻どおり地球上空に再び姿を見せた。早春のその夜、世界各地の数えきれないほどの少年が星空を仰ぎ見ていた。

中国南部の新興海浜都市、深圳。馬化騰(ポニー・マー)という15歳、中学3年生の少年は、自分が校内で最初にハレー彗星を見たと宣言した。「北斗七星の南西に現れたが、思ったほど明るくはなく、肉眼では簡単に見つけられなかった」。長い年月がたってから、馬は筆者にそう語った。馬化騰は当時深圳中学天文クラブのメンバーで、彼が唯一参加していた課外クラブだった。

馬少年がハレー彗星を見つけられたのは、根っからの天文好きだったことのほかにもう一つ理由があった。他の生徒よりも高度な「兵器」を持っていたのだ。馬は歳の誕生日が近づいた頃、家族にセミプロ級の80ミリ口径の天体望遠鏡をねだった。父親の給料4カ月分に近い値段だった。「息子はどうしても欲しいと言った。700元以上もして高いのでダメだと言ったら、科学者の夢を親につぶされた、と日記に書いてあった。ある日、母親が息子のカバンをひっくり返してその日記を見つけたんだ。夫婦で話し合って、結局買い与えた」。父親の馬陳術はそう振り返る。

ハレー彗星を見つけた馬化騰は写真に撮り、わくわくしながら観測レポートを書いて北京に郵送した。結果、観測コンクールの3等となり賞金40元を手にした。馬化騰が初めて自分で稼いだお金だった。天文好きはその後も変わらない。「中学時代からずっと購読している唯一の雑誌は『天文愛好者』」だそうだ。2004年には、誕生日プレゼントとして精巧な望遠鏡の模型を董事会の同僚からもらった。

彗星は俗に「ほうき星」と呼ばれる奇怪な物である。早くも紀元前613年、『春秋』に「星孛有り、北斗に入る」という記述がある。これはハレー彗星に関する人類初の確かな記録だ。漢族や他のさまざまな民族の予言によると、ハレー彗星が現れるのは秩序を再構築する時期がまもなくやってくるという予兆だという。

馬化騰の世代の中国人は、緊迫して変化の激しい時代に育った。

1971年10月29日、馬は海南島の東方市八所港に生まれた。両親は八所港港務局の職員だった。戸籍の原籍の欄は、父親が慣例に従って「広東省潮陽県(旧称)」と記入した。馬には4歳上の姉が1人いる。

馬化騰が生まれる1カ月ほど前の1971年9月13日、国を裏切る行為を働いた林彪とその妻は国外に逃れようとしたが、搭乗した飛行機がモンゴルで墜落して死亡した。このスキャンダルは中国の現代政治史におけるターニングポイント的な出来事であり、一つの閉鎖的な時代の終わりが近いことを暗示していた。1年後、中華人民共和国とアメリカ合衆国の外交関係が正常化に向かい始める。古い東洋と新しい西洋を代表するこの二つの超大国は、22年にも及ぶ長い敵対状態を終わらせた。馬化騰が5歳だった1976年9月9日、毛沢東がこの世を去った。その2年後に74歳の鄧小平が実質的な指導権を手に入れ、このときに改革開放のとばりが開いた。

実務的な鄧小平は外資導入のため、北京から遠く離れており開放的な伝統を持つ広東省を対外開放の最先端窓口に選んだ。1979年1月、宝安県(旧称)南頭半島の最南端、海を隔てて香港と向き合う1000ムー(訳注「畝」。中国の面積の単位。1ムー(畝)は15分の1ヘクタール)余りの荒れ地が、企業誘致と外資導入を実施してもよい最初の工業区に選ばれた。これがのちに名をはせる蛇口工業区である。宝安県は同年3月に深圳市と名を改めた。1980年8月、深圳、珠海、スワトウ、アモイが国務院に四大経済特区として指定され、各種優遇政策によって巨額の国家投資や国際資本が南方のこれらの地域に導入された。経済回復のエンジンがこうして強制的に起動され、社会全体が遠慮するそぶりを見せながらも開放へと進んでいった。

馬化騰は幼年時代を八所港で過ごした。海南島の最西端にあり、住民は苗族が多かった。馬化騰は、小さな町には顔に入れ墨を入れた苗族の人がたくさんいて、大きな竹かごを背負ったまま雨がしたたる軒下でじっとしゃがんでいたのを今も覚えている。独りでいるときの子どもは、手の届かない神秘に最も引きつけられやすい。南シナ海の港の澄みわたる深い夜空に無数の星が輝けば、皆無限の好奇心と想像をかき立てられ、自分がちっぽけな存在だと思い知る。

息子が科学に興味を持つようにと、馬家では『科学大好き』などのポピュラーサイエンス雑誌を購読していた。馬化騰は小学4年のとき、さまざまなレンズを使って天体望遠鏡を作る方法が書いてある記事を読んだ。母親にせがんでレンズセットを買ってもらい、単純な望遠鏡を自分で作った。これが馬の人生初の作品だったかもしれない。

望遠鏡は、焦点距離が長いほど視野が狭くなり、遠くまで見えるようになるという特徴がある。人は遠くにある未知の深い霧のようなものに向き合うと、近視眼的なかく乱を逃れられなくなる。焦点距離を伸ばし、焦点を合わせて見つめることでようやく、真相の一部分が少しずつはっきりしてくる。馬は雑談中、久しぶりに自分の趣味の話になると不意にこう言った。 「インターネットはまるで、爆発中で形が定まっていない銀河みたいじゃないか?」

馬化騰と中学の同級生3人

同級生
(画像=hxdbzxy/Shutterstock.com)

馬化騰の一家は潮汕人で、中国の商幇(商人集団)の系統の中では非常に特別な一派だ。潮汕は中国南東部に位置し、中原からは遠く離れ、土地が狭く畑も少ない。民衆は漁業と農業をなりわいとし、昔から遠洋航海で生計を立てる伝統を持つ数少ない海洋系民族だ。唐・宋の時代、潮汕人は南洋一帯で最も活発な貿易集団であり、最も早くにキリスト教を受け入れた漢族の一つでもあった。明・清時代は朝廷が航海禁止政策を実施したが、潮汕人は生計を立てる必要から危険を覚悟で航海に出た。歴史書『清稗類鈔(しんはいるいしよう)』(訳注 中華民国時代、1917年に発行された、清の順治帝から宣統帝までの歴史書)には「潮人は商いにたけている。貧しい家の子は独り海に出るしかなく、毛皮、枕、毛氈、布団以外にまともな物はない。何年か雇われて働くと少しずつ独立開業し、その後何年かたつとほぼ全員が大商人になっている」という内容が記されている。中原に位置する山西省や徽州の商人と比べると、潮汕商幇は官府の商いをしているという意識が薄く、「商売を重んじて学問を軽んじ、男尊女卑」という鮮明な個性があった。近代になると、潮汕人は香港や東南アジア一帯で一大商業勢力を形成し、潮汕籍の富豪が多数誕生した。うち最も有名なのは、華人ナンバーワン長者の李嘉誠(リー・カシン)だろう。

1984年、13歳の馬化騰は両親とともに海南島から深圳に引っ越した。当時の深圳はすでに中国で最も注目されており、最も賛否両論の多いモデル都市でもあった。この年の初めには鄧小平が隠密に深圳を視察して「深圳の発展と経験は、経済特区を設置した我々の政策が正しかったことを証明した」と揮毫した。10月には北京で中華人民共和国建国35周年の盛大な閲兵式が執り行われ、装飾を施した各省・自治区・直轄市の車両が式に参加した。

深圳市の車がゆっくりと天安門広場を通過したとき、上部に2行で大きく書かれていた文字は、多くの中国人に強い違和感と理解不能の感覚を抱かせた。「時間は金銭、効率は生命」。このフレーズは蛇口工業区政府の入り口に掲げられていた標語であり、のちに深圳という都市の精神と定義された。中国人の歴史上初めて、時間と金銭がかくもあからさまにイコールで結ばれたのだった。2000年来の儒家の伝統に背くばかりか、改革開放前のイデオロギーとも正反対である。その標語がセレモニーの中で華々しく全国人民の前に提示された。このことは、初めて目にする新鮮な時代、物質ですべてを数値化できる時代の本格的な到来を示していた。

馬化騰少年にとっては、中国の経済復興、深圳の台頭、潮汕人の商人の系譜はいずれも自分の外側にある記憶だ。それらは徐々に馬の肉体と魂の中にしみこんで、またとない運命体を最終的に築いていく。

馬化騰は中学2年のときに深圳中学に転校した。当時の馬は、身長141センチで13歳にしては小柄だったので、教室では一番前の列に座っていた。同じく最前列だったクラスメートの1人が許晨曄だ。許も教育関係の仕事をしていた両親とともに、天津から引っ越してきたばかりだった。

その年は、鄧小平の南方談話に感銘を受けて全国各地から深圳に移り住んだ者が大勢いた。深圳中学の中学1年はもともと8クラスだったが、2クラス増やさざるを得なくなった。この2クラスの生徒は大半が標準中国語を話していたが、元からの8クラスは広東語(生徒たちは「白話」と呼んでいた)だった。その中にテンセントの創業者がもう2人いた。張志東と陳一丹だ。張志東は深圳生まれの深圳育ち、陳一丹は1981年に一家で深圳にやってきた。父親は広東省スワトウ市田心鎮の人で、のちにある銀行の支店長となった。

馬化騰の中学時代の成績はずっと上位3名以内だった。許晨曄、張志東、陳一丹は「国際数学オリンピック」の勉強をしており、馬化騰だけが天文クラブに入っていた。高校に上がると、馬化騰、許晨曄、陳一丹は同じクラスになった。高二のクラス替えでは、馬化騰と許晨曄、陳一丹と張志東がそれぞれ同じクラスになった。

陳一丹は馬化騰との思い出をこう語る。高校時代は円周率を暗記する競争をした。休み時間になると廊下で向かい合わせに立って、交代で暗唱する。今日は相手が2桁多く暗唱したから、明日は自分が2桁多く暗唱する、というやり方で小数点以下100桁まで言えるようになった。また、一緒に切手収集をしていた時期もあり、互いに相手の分も買ったりしていたという。

数学教師で馬化騰の高校時代の担任だった高佳玲によると、馬化騰はとても真面目に勉強するよい生徒だった。「他の生徒ともうまくやっていて協調性があり、授業を欠席したことは一度もなく、宿題ノートの書き方もいつもきれいだった。ただ、それ以上の印象はない」

馬化騰は高校生になってから身長が急に伸びた。何十年も前の話なのに、許晨曄は今もちょっと悔しがっている。「最初は自分と同じ列だったのに、身長がどんどん伸びて、席も次第に後ろになった」。隣のクラスにいた張志東もがっちりとした青年に成長し、同級生に「冬瓜」というあだ名をつけられた。

馬化騰やその同年齢の者たちは、不安に支配されてきた世代だ。彼らは自身の国と同じく、ずっと一つの巨大な「不確実な繁栄」の中で育った。馬が中学にいた頃、校内で最もはやっていた言葉は「時は人を待たず」だった。教師たちは若者に、これ以上ない切実な口調でこう忠告した。今は100年に一度の大時代だ。チャンスは川の中のドジョウのようにあちこちに見えているが、捕まえるのは容易ではない。

大学コンピュータ室のウイルスの名手

コンピュータウイルス
(画像=Pixel 4 Images/Shutterstock.com)

馬化騰が大学を受験したのは、1989年だ。その年の6月、中国ではある政治的事件が発生した。大学入試の全国統一試験は予定どおり7月7日から9日に実施されたが、焦燥や不安感が立ちこめていた。ほとんどの保護者は子どもが親元から離れるのを望まなかったため、その年の深圳の統一試験受験生は、第一志望を深圳大学とした者が多かった。馬化騰の統一試験の点数は739点(900点満点)で、全国上位大学の合格ラインを100点以上も上回った。本来なら、北京の清華大学や上海の復旦大学にも入れる成績だ。

深圳大学には馬化騰が最も興味があった天文学科はなかったため、その次の志望として電子工学科のコンピュータ専攻に入学した。許晨曄と張志東も馬と同じ専攻に進学した。許晨曄とは寮も同室だった。クラスの学生は計36名で、推薦入学生1名を除くと張志東が試験成績トップで、馬化騰は3番だった。

コンピュータアセンブリ言語の講義を担当していた胡慶彬先生はこう振り返る。「馬化騰の年度の入学生は深圳大学史上最も優秀で、志願者のレベルが非常に高かった。彼らのクラスには、単位を落とした者が1人もいなかった。深圳大学では、それ以前にもそれ以降にもそうしたことは起こっていない。馬化騰たちはとても優秀で、基礎がしっかりしていた。のちにあれだけのことを成し遂げたが、私は少しも驚いていない。テンセントを設立していなかったとしても、彼らは優秀な人材となったことだろう」

黄順珍は馬化騰の大学のクラス担任で、コンピュータのオペレーティングシステムの講義を担当していた。今も残っている成績表によると、馬化騰のその科目の試験成績は86点だったが、黄先生は総合評価として88点をつけた。張志東の総合評価はクラス最高の92点だった。先生は二つのエピソードを話してくれた。「クラス担任として、毎週寮に見回りに行っていた。馬化騰は毎回、本を読むかコンピュータを操作しているかのどちらかだった。馬や張志東など一部の学生は家にゆとりがあったので、自分でパソコンを組んでいた。他の学生は集まって雑談をするなどしていた。あるとき、馬化騰がマシン操作の実験報告を提出したのだが、名前の書き方をちょっと工夫していた。ソフトウエアを使って名字の『馬』という字を馬が疾走するデザインにしていて、なかなか格好よかった。それに続けて、手書きで『化騰』と書いてあった。こういうクリエイティブなことをする学生は理系には少なかったので、今でもよく覚えている」

馬化騰と寮で同室だった許晨曄は「あの頃はよく一緒に英単語を暗記していた。朝は一緒にキャンパスの周りを1周走る。あと、馬が突然気功に興味を持った時期もあった」

深圳大学は1983年に設立された大学で、伝統のようなものはほとんどない。南山半島に位置し、キャンパスにライチの木が多数植えられていることから「茘園」と呼ばれている。当時、キャンパスの周囲は畑と数戸の農家だけだった。馬化騰と許晨曄がランニングをしていた頃は、まさか数年後にキャンパスの北側に39階建ての自社ビルを建てて、最上階のオフィスから日々キャンパスを眺めては過ぎ去りし青春を懐かしむことになるとは思いも寄らなかっただろう。

彼らのもう1人の同級生、陳一丹は化学科に進んだ。大学時代の陳一丹は非常に活発なタイプに変わり、化学科学生会の主席に選出され、大学学生会委員会の副主任も務めた。卒業式では総代に選ばれてスピーチした。馬化騰によると「卒業して前線に出ていくかのように、感極まった話し方だった」

大学2年になってから、馬化騰はC言語の勉強に力を入れるようになった。C言語は、1972年にアメリカのデニス・リッチーが開発した高級プログラミング言語だ。高い描画力、優れた移植性などの強みがあり、データ処理能力も高いので世界的に最も流行し、最も広く使用されるプログラミング言語の一つである。オペレーティングシステム、システム使用プログラムやハードウエアへの操作が必要な場合、C言語は他の高級言語に大きく勝る。馬化騰はのちに「我々はCに頼って最終的に天下を取った」と筆者に語った。「自分は、アルゴリズムはあまり得意ではない。数学が得意な人でないとできない。だが自分は技術の応用は得意だ。つまり、技術をどうプロダクトに落とし込むかを知っている」。馬と比べて、クラスメートの「冬瓜」こと張志東のほうがアルゴリズムにたけていた。

馬化騰のコンピュータの才能は、すぐにはっきり現れた。

大学でプログラミングを学ぶあらゆる若者にとって、公共コンピュータ室は技術力の勝負にうってつけの競技場だ。彼らはよくコンピュータを使ってウイルスプログラムを書き、ハードディスクをフリーズさせて、他人は起動できないが自分は自由に開けるようにする。あるいは他人が設計したプログラムを解読できる強者もいて、これは間違いなく格好いいことだ。同級生たちの記憶では、馬化騰はウイルスプログラム作成の名手だった。「しょっちゅうコンピュータ室のマシンのハードディスクをフリーズさせていて、アドミニストレーターでも開けなかった。やがて、そういう状況が発生したら、必ず最初に馬が『容疑者』として呼び出された」

C言語プログラミングのほかに、馬化騰が技術的に得意だったもう一つの分野はGUI(グラフィカルユーザインターフェース)のプログラム作成だった。

当時のコンピュータはDOSプログラムを採用しており、マイクロソフトのウィンドウズはまだ中国に入っていなかった。馬化騰はDOSシステム下でウィンドウズに似たGUIを作成することができた。「当時はまだ、そういうことに挑戦する者が国内にほとんどいなかった。私は本で基本エレメントを見つけてから、その上に積み上げていく形で自分のGUI技術を増やしていった」

大学4年になると、学生たちは企業でインターンシップに参加する。馬化騰は深圳の黎明電脳網絡有限公司へ行った。当時、中国の南部で技術レベルが最も高いコンピュータ会社だった。1990年の設立で、中国で初めて「電脳網絡(コンピュータネットワーク)」という語を社名に入れた企業だ。中国のネット発展史上、同社は、最も古いコンピュータネットワーク通信システムインテグレーション企業、最も早くデジタルデータネットワークとフレームリレー技術を応用した企業、最も早く非同期通信ネットワーク上で画像、音声とデータの統合通信活用を実現した企業、そして中国の証券用コンピュータネットワークの創始者という輝かしい記録を四つも持っている。かつてはコンピュータネットワークの設計と主要な構築において中国最大の事業者だった。上海・深圳の両証券取引所のコンピュータ自動マッチング式ネットトレーディングシステムは、同社が設計して完成させたものだ。1990年代半ばの中国株式市場は猛烈に勢いづいており、富が核融合する巨大なゲームセンターだった。このため黎明網絡公司も莫大な稼ぎを得たのだった。

この会社で、22歳の馬化騰は本当の意味でのプロダクトを初めて生み出した。

GUIの株式相場の分析システムだ。馬化騰はテクニカル分析、関数アルゴリズムのほか、漢字入力ソフトも自ら追加した。自身が持つC言語とGUIの優れたスキルをいかんなく発揮した。株式の売り手と買い手双方の心理ゲームの過程を分析するために、ニューロンについても勉強し、株式の今後の行方を予想できるよう努めた。見たところ非常に実用的な株式分析ソフトだった。ユーザーは、株式相場の変動状況をイメージで理解してチャート分析を行える。

当時の株式ブームの中で、全国で数えきれないほどの株式投資ソフトが登場した。どのソフトも未来を見通せる「水晶球」だと謳っていて、馬化騰のプロダクトもまさにその一つだった。しかし、他のプロダクトにはないグラフィカルなデザインを採用していたため、プログラマーが多数集まる黎明網絡公司の中であっても、キラリと光るものがあった。会社はインターンだった馬に、このソフトを買い取りたいと持ちかけた。馬はびくびくしつつも、思い切って5万元の価格を提示した。当時の大卒者の給料3年分に相当する金額だったが、意外にも会社は言い値で応じてくれた。

こうして馬化騰の大学生活は、ソフトの取引をして終わった。この4年間、馬は大学で何かの役職を務めた実績はまったくなく、協会などの役員選挙に出たこともなかった。大勢の学生の中で、見た目がよくてもの静かで、たまにコンピュータ室でちょっとした騒ぎを起こすのが好きな一人の理系の優等生にすぎなかった。マネジメント、広報や政府との意思疎通の優れた才能を持つことを示す形跡も、何一つなかった。

テンセント 知られざる中国デジタル革命トップランナーの全貌
呉 暁波(ウー・シァオボー)
著名ビジネス作家。「呉暁波チャンネル」主催。「藍獅子出版」創業者。中国企業史執筆や企業のケーススタディに取り組む。著書に『大敗局』(I・II)、『激蕩三十年』、『跌蕩一百年』、『浩蕩両千年』、『歴代経済改革の得失』など。著作は『亜洲周刊』のベスト図書に二度選ばれる。
箭子喜美江(やこ・きみえ)
中国語翻訳者。ビジネス全般、時事経済、学術研究論文・資料等の実務翻訳および訳文校閲、連続ドラマやドキュメンタリー等の映像字幕翻訳など、幅広い分野の翻訳に従事。サイマル・アカデミー東京校中国語翻訳者養成コース非常勤講師として後進の育成にも携わる。東京外国語大学中国語学科卒。訳書に『謝罪を越えて』(文春文庫)。

※画像をクリックするとAmazonに飛びます