(本記事は、呉 暁波の著書『テンセント 知られざる中国デジタル革命トップランナーの全貌』プレジデント社の中から一部を抜粋・編集しています)

オープン化の能力――資本とトラフィック

オープン化
(画像=Elena Schweitzer/ Shutterstock.com)

成熟したビジネス従事者なら、揺るぎなく鮮明で、相矛盾する二つの信条を持っているべきだ。まず、既存の秩序と倫理的ルールを破壊しなければならない。その一方で、秩序とルールの再構築にも尽力しなければならない。その従事者は、破壊した結果の引き受け手であり「遺産相続者」だ。相互に矛盾する願望を心の底から感じ取らなければならないが、落ち着いた心持ちで仕事を続けなければならない。それがビジネスの技法である。

2011年の馬化騰はそうした能力を身につけ始めた。診断会ではこんな発言をした。「オープン化とシェアは宣伝文句ではなく、単なるコンセプトでもない。オープン化は一つの姿勢であると見られることが非常に多いが、私は一つの能力だと理解している。シェアはビジョンではなく、どうやって実行可能な制度を打ち立ててシェアや共有を実施するかが大事だ」

ではテンセントの「オープン化の能力」は何か。社内方針決定者たちの理解はそれぞれ違っていた。馬化騰はある総弁会において、上級管理職者16人に自身の考える「テンセントのコアコンピタンス」について紙に書いてもらい、回答が計21件集まった。何度も議論した結果、「コンピタンス」は以下の二つに絞られ、そこから迅速に行動を取っていった。

第一のコンピタンスは資本だ。劉熾平がこの主張の提起者だった。以前ゴールドマン・サックスに勤務していた劉の考えでは、テンセントがあらゆるインターネットプロダクト、特にコンテンツ分野を手がけるのは不可能なのだから、資本参加こそが唯一の実行可能な道である。出資によってアライアンス関係を築けば、オープン化という目的だけでなく、テンセントの巨大なトラフィック資源の資本的な意味での放出も同時に実現できる。

過去10年余りにおいて、テンセントもM&Aの経験はあったが、それらはほぼすべて株式支配や完全子会社化だった。対象企業はいずれもテンセントの現存事業と強い関連性があり、大部分はオンラインゲーム分野だった。この業界におけるテンセントの行動は情け容赦ないものだったため、依然として閉鎖的または内部成長のモデルであった。今後の資本運用は参加型となり、所有ではなく共生のみを求めていく。

劉熾平のこの資本オープン化戦略は、その後数年間のテンセントに決定的な戦略的意義があった。劉は、資本の面からテンセントの新たな戦場を切り開いた。テンセントは2011年1月24日、テンセント産業ウィンウィンファンドを設立すること、投資規模は人民元50億元の見込みで、インターネットおよび関連業界の優秀なイノベーション企業に資本サポートを提供することを発表した。QQショーのアイデアを出した許良など、テンセントのベテラン社員がファンド事業の管理者を務めることになった。ウィンウィンファンド投資の最初の重要プロダクトは、オンライン旅行事業を扱う芸竜網だった。テンセントは5月16日に8400万ドルを出資して芸竜網の株式16%を取得し、同社第二の大株主となった。6月初めには、創新工場(Sinovation Ventures)発展ファンドの人民元ファンドへの投資に参加し、創新工場がインキュベートしている企業、あるいは他のアーリーステージ・ミドルステージの優良インターネットテクノロジー企業を支援すると発表した。同ファンドの総額は7億元で、テンセント産業ウィンウィンファンドの一部分である。

第二のコンピタンスはトラフィックだ。5億人超の月間アクティブユーザーを擁するQゾーンが最善の試験場として選ばれた。

「実は、オープンプラットフォームを作る必要があるかどうかについて議論し出したのは2008年だった。だがずっともめていて、真に決断したのは3Q大戦の後だった」。インターネット付加価値サービス事業を統括する湯道生は取材の際、社内の論争についてそう語った。「SNS分野では、オープン化戦略をどう実施するかが国際的な課題の一つだ。我々は少なくとも3点でもめていた。第一に、オープン化はアプリケーションとコンテンツのどちらを主体とするか。第二に、ソーシャルネットワークは広告資源のオープン化が必要かどうか。我々は、ブランド広告部門と検索部門からの圧力を受けた。第三に、オープン化はプラットフォームと川上・川下産業チェーンのどちらを対象とするか、だ」

実際、大型のプラットフォーム級インターネット企業のほぼすべてが、オープン化が不十分だと鋭く批判された経験がある。マイクロソフトからフェイスブックまで、ひいてはアップルのようなハードウエア企業さえも、アプリケーションプラットフォーム提供を開始した当初は直ちに「オープン化の敵」と見なされた。

オープン化というのは以前からある意味で相対的な概念であり、国の境界と同じようなものだ。人に対する開放には認証が、他国に対する開放には互恵が必要であり、貿易の開放には法規が必要だ。原理主義的な開放は人類の文明史上一度も発生したことがない。この点に関して、ジョブズは最も徹底した閉鎖主義者だった。ウォルター・アイザックソンは著書『スティーブ・ジョブズ』に「デジタル世界の最も基本的な意見対立はオープン性とクローズ性である。システムの統一性を本能的に強く好んだジョブズは、クローズの立場を断固として変えなかった」と書いている。

昔のテンセントも、その後のテンセントも、事業のオープン化措置においてはずっとビクビクしていた。やや保守的であったとさえ言える。

馬化騰が「半年間の戦略転換準備期間」を宣言してから6カ月後の2011年6月15日、テンセントは北京で千人クラスのビジネスパートナー会議を初めて開催した。芒果網、蝦米網、ユニコム、金蝶、同城などの提携企業がステージに勢ぞろいし、馬化騰は「みなさんにテンセントの戦略転換を見届けていただきたい」と発言した。

テンセントは、それまではクローズだった社内のリソースを外部の提携サードパーティーには無償で開放すると発表した。その中にはAPIオープン化、ソーシャル構築、マーケティングツールおよびQQログインなどが含まれていた。公表されたデータを見ると、2万弱のビジネスパートナーがテンセントのオープンプラットフォームにアクセス済みまたはアクセス待ちという状況だ。2010年のテンセント社全体の収入は200億元だったが、チャネル費用を除外して、サードパーティーのビジネスパートナーに分配される金額は40億元にも上る。うち単一のアプリケーション、すなわちあるオンラインゲームプロダクトが得た単月の最高レベニューシェアは、1000万元を突破していた。

テンセントがこのビジネスパートナー会議を開催したのとほぼ同時期の6月29日、ラリー・ペイジはグーグルがソーシャルネットワークサービス「グーグル+」を開始し、グーグルの多様な基礎的機能をユーザーに開放すると発表した。湯道生は「グーグルのやり方は我々にとって新たな励みとなった。テンセント社内でもすぐに似たような決定を出した」と語る。

7月16日、テンセントはQQクライアントのオープン化を発表するとともに、アップルのアプリケーションストア式のQ+オープンプラットフォームを始動させた。QQクライアントのアプリケーションボタンを押すとQ+が立ち上がり、そこからQ+デスクトップクライアント、ウェブ版Q+、Q+壁紙などの各種拡張機能をインストールできる。

2011年上半期にテンセントが見せた積極的なオープン化の姿勢や実際に起こした行動は、人々にインターネット企業の新たな成長モデルを示すものだった。さらには世界のインターネット業界においても一定のメルクマール的な意義があった。

もちろん、テンセントのオープン化の行動はずっと慎重だったのだが、それは商業的な考慮による部分がより大きかった。ちょうど2011年9月のあるニュースがその考え方を証明した。藍港というオンラインゲーム会社が開発した3Dオンラインゲーム「傭兵天下」のオープンベータテスト当日、テンセントはこのゲームはテンセントの競合プロダクトだと表明し、そのため藍港の広告出稿を凍結したのだった。

マイクロブログ――モバイル時代の新たなライバル

ブログ
(画像=Song_about_summer/Shutterstock.com)

2011年初めの馬化騰は、自身のビジネスキャリアにおいて最も焦りが強まった危機的な状況にあった。

3Q大戦により精も根も尽き果て、自身の「プロダクト信仰」にすら懐疑的になり始めた。だがのちに振り返ると、これは意外にもPC時代最後の一戦だった。別の言い方をすれば、引き継ぐ者がいない旧時代の争いだ。以前よりもさらに広がったインターネット世界において、予測不可能な新しい時代が急速に幕を開け、より強大なライバルがすでにもう一つの地平線上に出現していた。

2010年1月27日に天才ジョブズがシリコンバレーで世界最初のiPadを発表し、6月には背面に500万画素のカメラを搭載したiPhone4も発表されて、モバイルインターネットの時代が突然やってきた。その後1年の間に、タブレットコンピュータとスマートフォンが爆発的に売れ出し、当年度の中国地域の出荷台数は2300万台に達して、ユーザーが急速にシフトしていった。

当時の戦局を振り返ると、中国市場においてテンセントを体半分ほどリードしていた企業が2社あった。

1社目はもちろん通信事業者である。特にチャイナモバイルは、最も早くオープンプラットフォームのモバイルサービスプロバイダーとなる可能性が最も高かった。当時の多くのウオッチャーが「通信事業者は独占的地位にあるので、将来的に通信事業者はモバイルリアルタイム通信市場を支配することになるだろう」と言っていた。

チャイナモバイルには、かつて大人気を誇った「モンターネット」というプロダクトがあった。しかしそのプロダクトは非スマートフォン時代には料金のための手段でしかなく、人とアプリケーションの交流を真に支配していたわけではなかった。しかも2G環境では、インタラクティブ性はショートメッセージの通知という形にしかなり得なかった。ショートメッセージは、スマートフォンが突如誕生してすぐに時代遅れとなった。さらにまずいことに、チャイナモバイルは過去の何年かで事業の枠組みが完成したと思い込み、計画的にサードパーティーを駆逐し始めた。あるメディアはこんな手厳しい論評を書いた。「ある地主が大変肥よくな土地を囲い込み、まずは小作農たちを募集した。小作農は土地を耕す牛と農具を持ち込んで開拓を進めた。土地の耕うんが終わると、実った物を独り占めしたい地主はあの手この手で小作農を追い出し、自分で大量の牛と農具を買い込み、自分の収穫物を得た。やがてある変化が起こった。突然トラクターが出現したのだ。追い出された小作農たちは新しい機械と道具でより多くの土地を開拓し、より多くの果実を実らせた」

もう1社は新浪(と同社が運営する新浪微博)だ。2006年以降、テンセント、アリババ、バイドゥなどが台頭してニュースポータルモデルは非主流と化し、かつて三強だった新浪、捜狐、ネットイース(網易)は相次いで成長の低迷期に入った。ネットイースの丁磊は戦略上正面戦場を放棄してオンラインゲーム事業に特化した。捜狐の張朝陽は多角化展開を進め、IME、オンラインゲームから動画にまで出撃したが、最終的に勝負できる事業は見つからないままだった。

かつてポータルランキングで1位を取った新浪は、明らかに最も苦しい状態であり、自身の存在価値を証明できるような偉大なプロダクトがどうしても必要だった。

2009年9月、新浪微博がひそかにスタートした。その模倣対象は、ジャック・ドーシーが2006年3月に創業したツイッターだった。ツイッターはその手軽な140字という仕様で、3年の間にまるで軽騎兵のようにフェイスブックにとっての最大の脅威となった。

新浪をつかさどる曹国偉と陳彤は、彼らが得意とするメディア運営の手法を駆使して有名人効果を創出した。これにより、新浪微博は驚くべきスピードでネットユーザーの注目を集めた。2010年前後にはスマートフォンの普及に伴い、先天的にモバイル属性を持つ新浪微博は空前のブーム期に入り、国民現象レベルのプロダクトとなった。

ちょうど馬化騰と周鴻禕が取っ組み合いをしていたのと同時期の2010年11月5日、新浪微博のグループ機能プロダクトである新浪微群がクローズドベータテストを開始した。新浪微群は通信とメディア配信の二つの機能を備えており、ウェブページ版の「QQグループ」と見なされた。

11月16日、新浪が初の微博開発者会議を開催した。曹国偉は、新浪微博はユーザーが1億人に達したこと、1日当たりの投稿数は2500万件を超え、うち38%がモバイル端末から投稿されたものであること、すでに国内で最大の影響力があり、最も注目されているマイクロブログ運営業者となったことを発表した。元グーグル上級管理職で台湾出身のインターネット業界人・李開復は、マイクロブログにおいて一夜で知名度を上げたことから、自身のアカウント開設以降のヒストリーをまとめた『マイクロブログがすべてを変える』という著書を出版した。李によると「マイクロブログができたから、ネット伝達のソーシャル化時代が到来した。マイクロブログができたから、一人ひとりがニューメディアの創設者になれる可能性が生じたのであり、皆がそれに参加するべきである」

ソーシャルネットワークには「勝者が一人勝ちする」と「環境が一人勝ちする」という特徴がある。新浪微博の人気が意外にも急上昇したことで、テンセントはユーザー基盤における未曽有の戦いを挑まれることになった。周鴻禕と比べて曹国偉や陳彤のほうが明らかに手ごわくて強大な相手だった。馬化騰は、慌てふためきながらマイクロブログ大戦に加わった。

テンセントマイクロブログは2010年5月にスタートした。新浪微博に遅れることちょうど8カ月で、戦略的プロダクトとして相手に追いつくのは時間的にほぼ不可能だった。

テンセントは、各界の有名人やオピニオンリーダーたちにテンセントマイクロブログに移ってもらうため、アップルのスマホ贈呈から高額の「創作料」支払いに至るまで、会社全体でありとあらゆる技を駆使した。馬化騰自身がいやいやながら知り合いに声をかけてテンセントマイクロブログのユーザーになってほしいと頼んだこともあった。内向的な馬にとっては、大変な苦痛を伴う行動だった。こうしてテンセントは早くも2011年2月にテンセントマイクロブログのユーザー数1億人達成を宣言することができた。劉翔など有名アスリートのフォロワー数は1000万を超えるまでになったが、これがQQからのトラフィック誘導とお金で買った偽フォロワーによるものだということは、誰もが承知だった。

白熱化するマイクロブログ戦争において、テンセントが新浪に勝つ見通しはほとんど立たない、と大半のウオッチャーが考えていた。「マイクロブログに勝てるのは、絶対に別のマイクロブログではない」。マイケル・ポーターは「挑戦者が成功を手にするには、先行者とは異なる新たな競争方法を探し出さなければならない」と指摘した。まさにそのように、もし新たな戦略級プロダクトの誕生がなければ、モバイルインターネット時代におけるテンセントの将来は、間違いなく暗いだろう。

この先行き不透明で業界の決定的な転換期において、既存の優位性は日なたの氷のようにいつのまにか溶けていた。どの競争者も、新たな戦略的高みと攻撃ポイントを不安にかられながら探していた。そんなとき、ある天才が現れてダイヤモンドのようにキラリと光る仕事をすることになる。

テンセント 知られざる中国デジタル革命トップランナーの全貌
呉 暁波(ウー・シァオボー)
著名ビジネス作家。「呉暁波チャンネル」主催。「藍獅子出版」創業者。中国企業史執筆や企業のケーススタディに取り組む。著書に『大敗局』(I・II)、『激蕩三十年』、『跌蕩一百年』、『浩蕩両千年』、『歴代経済改革の得失』など。著作は『亜洲周刊』のベスト図書に二度選ばれる。
箭子喜美江(やこ・きみえ)
中国語翻訳者。ビジネス全般、時事経済、学術研究論文・資料等の実務翻訳および訳文校閲、連続ドラマやドキュメンタリー等の映像字幕翻訳など、幅広い分野の翻訳に従事。サイマル・アカデミー東京校中国語翻訳者養成コース非常勤講師として後進の育成にも携わる。東京外国語大学中国語学科卒。訳書に『謝罪を越えて』(文春文庫)。

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