(本記事は、呉 暁波の著書『テンセント 知られざる中国デジタル革命トップランナーの全貌』プレジデント社の中から一部を抜粋・編集しています)

MSNがやってきた

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2004年8月、マイクロソフト本社に9年勤務していた熊明華が異動で中国に戻り、MSN中国研究開発センターを開設した。熊が同センターの建設地を上海に決定した。それとほぼ同時にマイクロソフトは北京にもMSN中国マーケティングセンターを開設した。責任者は中国エリアの従業員として10年勤務した経歴を持つ羅川だった。このことは、テンセント史上最強クラスの敵の登場を意味した。

MSNの中国進出は、それまでの2年ほど盛んに取り沙汰されていた。大がかりな動きを見せたネットイース(網易)や新浪などと異なり、マイクロソフトは一貫して専門のMSN中国運営チームを置いていなかったが、ユーザー数はネットイースの3倍だった。調査会社・易観国際のデータによると、何の宣伝もローカライズサポートもない中、中国リアルタイム通信市場における2005年のMSNのシェアは10.58%だった。QQのシェア77.8%にはほど遠い数字だが、当時の中国ではすでに第二のリアルタイム通信ソフトだった。

より重要な点として、ビジネスユーザー約2000万人については、テンセントのユーザーが約950万人で47%だったの対し、MSNユーザーは約1075万人で53%を占めていた。それまでの2年間におけるMSNの新規ユーザーのうち、95%はテンセントQQから移行したユーザーだった。こうしたデータがマイクロソフト本社に報告された際、アメリカ人は非常に驚いた。羅川ら中国エリアの従業員が全力で主導する中、マイクロソフトMSN事業を独立させて現地化運営に踏み切る決断をした。

1965年生まれの熊明華は、マイクロソフトMSN事業部門で最もキャリアが長い華人プロダクトマネージャーだ。かつては台湾人が設立したソフトウエア会社でウィンドウズ漢字化技術の開発に携わっていた。実戦経験を持つデバイスドライバーの専門家であり、世間一般の言い方をするとウイルスソフト開発のプロだった。アメリカに渡ってからはまずIBMに就職し、1996年にマイクロソフトに入社した。ちょうどビル・ゲイツがネットスケープへの攻撃を発動した時期だった。熊明華はIEブラウザー部門のプロダクトマネージャーとしてIE3.5からIE5.0までの開発に加わった。「マイクロソフトがネットスケープを『絞殺する』までの全過程を目の当たりにした」。1999年にはウィンドウズ部門に移ってウィンドウズ2000とMSNの開発に携わった。「2001年以降に自分のストックオプションの期限が来るので、退職するか中国に帰って起業するかのどちらかを考えていた」。その後は頻繁に帰国してレノボ、方正などの企業を訪れて話をしたり、浙江大学の客員教授に就任したりした。また『ソフトウエア開発の科学と芸術』『ソフトウエア開発のプロセスとケース』という2冊の専門書も出版した。熊の講義を聞いた学生たちの中には、任宇昕と呉宵光もいた。

熊明華が上海に戻ってから2週間後、張志東が友人を通じてコンタクトしてきた。二人はたそがれ時に東平路と衡山路の角にあるイタリアンレストラン蔵瓏坊で会った。張志東は赤ワイン2本を持参した。二人で4〜5時間ほど話してみて、張志東は技術に大変詳しい熊明華に感銘を受けた。別れ際、熊明華にずばり聞いた。「テンセントに来ないか?」

これは両軍開戦前の小さなエピソードにすぎなかった。熊明華は張志東の誘いを笑顔で受け流した。「当時、MSNの眼中に仮想敵は存在しなかった。我々はQQを大した存在とは思っていなかった。インターフェースデザインがひどかったし、ソフトウエア開発のレベルも高くなかったからだ」。熊明華は、すぐさま数名からなる研究開発チームを結成した。

熊明華とともにシアトルから帰国し、のちにテンセントに入社した鄭志昊はあるエピソードを明かした。「大学に求人活動に行った際、どの会場でもすごい数の学生に取り囲まれた。黒山の人だかりで、履歴書が山積みになった。学生たちは、神を見るような感じでマイクロソフトの人間を見ていたので、とにかく驚いた」。1年余り後にテンセントに移った鄭志昊が再びキャンパスへ学生募集に行ったところ「トップの学生でテンセントに来たがる者はほとんどおらず、最も優秀な人材はとても確保できなかった。この時、テンセントは『二流』ないし『三流』の人材でマイクロソフトと戦っていたのだなあ、とふと気づいた」

張小竜を「買収」

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21世紀最初の年、IT業界各企業のマイクロソフトに対する恐怖感は本能的なものと言ってよかった。1984年に全米でトップとなったパソコンソフト企業の中で、マイクロソフトは第2位だった。2001年には第1位となったが、その一方で前回ランキング入りした残り9社はすべて圏外だった。マイクロソフトは世界の90%のコンピュータインターフェースを支配し、オペレーティングシステムのウィンドウズ、業務用ソフトのオフィス、ブラウザーのIE、そして買収で獲得したホットメール、IP電話のスカイプが恐るべき巨大プラットフォームを形成した。ビル・ゲイツがバンドル戦略でネットスケープを叩き潰した出来事は、各社にとって眼前の戒めであった。

中国市場において、ゲイツは海賊版を放任する戦略を採った。1998年には『フォーチュン』誌で「中国人が海賊版を作るのであれば、マイクロソフトの海賊版にしてほしいと我々は願っている。彼らが海賊版に魅了されたら、その後の10年で何とかして海賊版を回収する」と述べている。その後の事実はまさにそのとおりとなり、マイクロソフトは2008年にようやく中国市場の海賊版取り締まりに着手したのだった。マイクロソフトがMSNの現地化戦略を発表した後、資本市場からインターネット業界までの多くの者がテンセントはそのうち終末を迎えるだろうと思っていた。広報や政府との意思疎通を担当する許晨曄はこう振り返る。あるインターネットフォーラムに許が出席した際、少なくとも2人が近づいてきて小声で確認を求めた。「テンセントがMSNに買収されると聞いたが本当か」。当時のネットには、ビル・ゲイツの口調をまねた馬化騰(ポニー・マー)宛ての手紙なるものも出回っており、そこにはこう書かれていた。「QQグループはソーシャルネットワークではない。QQが中国の子どもたちにリアルタイム通信の概念を普及してくれたことに感謝する。子どもたちが大きくなり、働いて収入を得るようになったら、少しずつシームレスにMSNに移行していくだろう」。テンセント社内には次第に張り詰めた重苦しい空気が流れるようになったものの、馬化騰と張志東の見立てでは、MSNがQQの基盤をぐらつかせることは決して容易なことではなかった。まさにトインビーが提示したとおり「レベルの高い文明体は常に、非常に恵まれた環境ではなく非常に困難な中で誕生してきた。挑む相手が大きいほど、受ける刺激が強くなる」であった。

2004年9月9日、テンセントは2004年QQ正式版をリリースした。テンセント上場後に初めて公開したQQの大型改訂版だった。このバージョンは、2002年8月のバージョン以来の代表的なバージョンでもあった。技術的には三つの特徴がある。第一に、ネット送信機能を強化したこと。ファイル送信速度が大きく改善されたほか、レジュームがサポートされた。第二に、「QQネットハードディスク(QQ網絡硬盤)」と「インタラクティブゾーン(互動空間)」をリリースしたこと。第三に、QQグループの組織構造を改善した上でグループチャットを踏まえた「グループイングループ」を搭載したこと。こうした改善は、リアルタイム通信を使う者にとっての「硬直的需要」と言ってよく、大絶賛された。馬化騰にとって特に喜ばしかったのは、ネットディスクと送信速度の上昇はともにツール性の向上であり、ビジネスユーザーにとっての魅力が非常に大きい点だった。

ある上級職の会議で、呉宵光は自分が耳にした実話を披露した。マイクロソフトが市場調査員を北京のオフィスに派遣してユーザー調査を実施した。アンケートの「月収」に関する質問に対し、5000元と記入された回答用紙があった。調査員は「すみませんが、あなた様は当社のターゲットユーザーでありません」とすぐにその用紙を抜き取ってしまったという。テンセントの幹部たちは皆、腹を抱えて笑った。

馬化騰は、新バージョンでさまざまな改善を施したにもかかわらず、QQのビジネス市場での評価がさっぱり上がらないことを何よりも心配していた。当時の中心都市のオフィスでは、QQをパソコンの画面に立ち上げていると嘲笑された。また多くの企業が勤務時間中のQQ使用禁止を明文で定めていた。企業にとって、QQは単なるチャットやナンパのツールでしかなく、MSNこそがオフィス情報化の必需品であった。「この難しい問題を短期間で解決する能力は我々にはないが、攻撃を阻止できるプロダクトがもし何か見つかれば、状況は多少よくなるだろう」。皆でこの思考に沿って進み、討論の末に行き着いたのは、プラットフォーム級プロダクトである電子メールだった。「ビジネスパーソンにとって、リアルタイム通信ツールはメールと最も密接な関連性がある。テンセントのQQメールはいまひとつだった。QQユーザー1億人余りのうちQQメールの利用者は1%に満たなかった。一方、マイクロソフトのホットメールは強力だったので、我々は自身の弱点を補強しなければならなかった」

補強の最善方法は、ホットメールの中国における最強のライバルを買収することだった。こうしてFoxmailがテンセントの視界に捉えられた。Foxmailの開発者は、華南地域の伝説のソフトウエアプログラマー、張小竜だ。張小竜は華中科技大学の電気通信学部で学び、1994年の大学院修了後に京粤電脳に入社した。Fox-mailは、1996年前後に張が一人で開発した。「Foxmailは何かを模倣したものではなく、アウトルックよりも早くリリースされたメールクライアントだ。私がFoxmailのプログラムを作成していた頃、丁磊もWebmailを作成していたと記憶している。両者の違いは、丁磊のメールはウェブベースだが、私のものはクライアントベースである点だ。当時の中国のネット接続速度は大変遅かったが、クライアントなら比較的速く動いた」。Foxmailのリリース後、中国語版の利用者は1年で400万を超えた。英語版のユーザーは数カ国に分布しており、「十大国産ソフトウエア」に挙げられた。

このため張小竜は業界で求伯君に続く第二世代ソフトウエアプログラマーの代表的人物と見なされた。張小竜は内向的で、大勢で戯れるのは好きでない。趣味のテニスは結構な腕前だ。

ビジネスにあまり関心がなかったため、Foxmailの人気がピークに達したときも会社を設立してビジネスとして運営する考えはなかった。やがて広東科学院傘下の霊通公司に入社し、1998年にはFoxmailを1200万元で深圳博大に売却した。その後まもなくインターネットバブルがはじけたので、博大はFoxmailを収益化する方法が見いだせない状態が続いた。張小竜は仕方なくエンジニア十数名を引き連れて企業のメールサーバーの仕事に転じたが、マーケットが小さいため食いつなぐのがやっとだった。

2005年2月、劉熾平はテンセントを代表してFoxmailの買収交渉に訪れた。曽李青も同行した。テンセントと張小竜が交渉した際、両者の気質が似ておりインターネットに対する理解も同じだったので、当初から意気投合した。交渉は順調に進み、テンセントがFoxmailのソフトウエアおよび関連の知的財産権を買収する契約を正式に締結した旨を3月16日に公表した。テンセント史上初めての買収案件だった。なお正確な買収価格は現在も公表されていない。張小竜は深圳勤務を望まなかったので、馬化騰が譲歩する形で広州に研究開発センターを開設し、張小竜がゼネラルマネージャーに就任した。

同じく2005年2月、国際事案を統括していた網大為の努力のもと、テンセントとアメリカのグーグルが業務提携を発表した。テンセントは国内ユーザー向けにグーグルのウェブ検索サービスをすでに開始していた。またテンセントは、検索結果に応じたグーグルの広告サービスAdSenseも提供することになった。グーグルのウェブ検索バーがQQリアルタイム通信のクライアント、ウェブサイト、TIブラウザー、テンセントTM、騰訊通RTXなどテンセントの各主要インターネットサービスに組み込まれた。

Foxmailの買収とグーグルとの提携は、テンセントがMSN現地化に向けて実施した二つの外的な防衛策と見なされた。

羅川の三重攻撃

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テンセントは十分な準備をしておいたものの、マイクロソフト中国のMSN上でのさまざまな大胆な行動に対抗するのは、やはりかなり大変だった。

テンセントがFoxmailを買収して20数日後の4月11日、マイクロソフトと聯和投資有限公司は合弁で上海微創軟件有限公司を設立したと上海で発表した。マイクロソフト(中国)有限公司の総裁に就任したばかりの唐駿が合弁企業のCEOとなった。上海市長とマイクロソフト最高技術責任者クレイグ・マンディが調印式に出席した。1カ月後、上海微創軟件有限公司の設立を踏まえて上海美斯恩網絡通訊技術有限公司が設立された。マイクロソフトが500万ドル、聯和が300万ドルをそれぞれ投じ、羅川が総裁に就任した。聯和投資は上海国有資産監督管理委員会が所管する投資会社であり、この合弁の背景についてはさまざまな臆測を呼んだ。

会社設立の日から羅川の目指すところは、速やかな収益化の実現だった。このためMSNは事業開拓において最もオープンな下請け方式を採用した。

アメリカのインターネット企業がエリアマーケットに進出する場合、通常2種類の方式がある。一つはヤフーモデルだ。すなわち完全に現地のパートナーに経営を任せ、本社はブランドと技術サポートを提供しつつ、最終的には利益共有のみを行う。もう一つはグーグルモデルで、大規模なエンジニアとマーケティングの部隊を結成して完全にローカライズされたオペレーション体制を採用する。マイクロソフトは、MSNの主導権を失いたくなかった。聯和投資との提携において、マイクロソフトの株式比率は相手方より少なかったが、契約書に強気の規定を設けて、マイクロソフト側が会社の全経営権を握った。だがその一方でマイクロソフトは戦略的な戦いをする決意が十分に持てなかったため、上海美斯恩の登録資本金はわずか800万ドルにとどまり、マイクロソフトの投入額は500万ドルに届かなかった。このため羅川は新しい方法を採ることに決め、それをチャンネルコンテンツ提携のビジネスモデルと称した。

MSN中国はサイト「MSN中文網」を立ち上げることにより、ポータル型のプラットフォームを構築した。羅川は各チャンネルについて、運営請負の形で一般入札を実施した。MSNのネームバリューに引かれて、特定事業を専門とするビジネスパートナーが多数集まった。第1弾の顔ぶれは、淘宝網、上海文広、賽迪網、人来車網、英語村、猫撲網、聯衆世界、指雲時代、北青網の九つの大型ウェブサイトに決まった。羅川が合従連衡式で一夜の間に結成したこの「連合縦隊」を「反QQ連盟」と呼ぶ者もいた。メディアは「MSN中国のこの提携モデルは、外資合弁企業がコンテンツや政策上のリスクを回避しつつ、MSN Messengerのトラフィックをウェブサイトに誘導して迅速に収益化することも可能だ」と論評した。

羅川が使った第二の収益化方法は、電気通信付加価値サービス事業への迅速な切り込みだった。中国市場に10年どっぷりつかってきた羅は、携帯電話のショートメッセージで得られる暴利をよく承知していた。MSN中国は、電気通信付加価値サービスを手がける深圳の企業、清華深迅を買収し、MSNユーザー向けに月額固定料金元のショートメッセージサービスを提供し始めた。この論争や道徳的リスクだらけのグレーゾーンに果敢に参入した国際インターネット企業は、それまで存在しなかった。

2005年10月13日、羅川は3枚目の攻撃的な好カードを手に入れた。ヤフーとマイクロソフトはこの日、ある「マイルストーン的な合意」に達したと発表した。全世界の両社リアルタイム通信ユーザー間の相互接続を実現するというのだ。世界の二大リアルタイム通信サービスプロバイダー間で実現した業界初の相互接続合意によって、MSN Messengerとヤフーメッセンジャーのユーザー間相互接続が可能となる。これにより世界最大のリアルタイム通信コミュニティが形成される見通しが出てきた。両社を合わせると世界シェアが44%を超えるため、世界の半数近いインスタントメッセンジャーユーザー、人数にして2億7500万人超の相互接続が初めて実現することになった。

羅川はこの動きに即座に反応した。メディアに対し、セキュリティーさえ確保されれば、MSNはテンセントQQを含むさらに多くのインスタントメッセンジャーとの相互接続を望むと表明した。

ヤフーとマイクロソフトの相互接続合意を受け、テンセントはこの年の秋、世論の渦の中で守勢に回る形となった。ほぼすべてのメディアや識者が相互接続に歓喜の声を上げ、多くの者が「MSNとヤフーメッセンジャーの中国市場における急速な拡大に伴い、特にビジネス層において両者の実力はもはやテンセントにまったく劣らない状態となった。相互接続実施後はさらに実力が高まるだろう。ビジネス層においてQQを急速に弱小インスタントメッセンジャー化させる可能性すらある」という見解を示した。MSN中国の広報部は記者に対し、羅川総裁はいつでもどこでも馬化騰氏と相互接続の件を協議する意向があると馬氏にお伝え願いたい、と述べた。

テンセント 知られざる中国デジタル革命トップランナーの全貌
呉 暁波(ウー・シァオボー)
著名ビジネス作家。「呉暁波チャンネル」主催。「藍獅子出版」創業者。中国企業史執筆や企業のケーススタディに取り組む。著書に『大敗局』(I・II)、『激蕩三十年』、『跌蕩一百年』、『浩蕩両千年』、『歴代経済改革の得失』など。著作は『亜洲周刊』のベスト図書に二度選ばれる。
箭子喜美江(やこ・きみえ)
中国語翻訳者。ビジネス全般、時事経済、学術研究論文・資料等の実務翻訳および訳文校閲、連続ドラマやドキュメンタリー等の映像字幕翻訳など、幅広い分野の翻訳に従事。サイマル・アカデミー東京校中国語翻訳者養成コース非常勤講師として後進の育成にも携わる。東京外国語大学中国語学科卒。訳書に『謝罪を越えて』(文春文庫)。

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