(本記事は、スティーヴ・キーン氏の著書『次なる金融危機』岩波書店、2018年5月26日刊の中から一部を抜粋・編集しています)

危機の引き金は過大な投機

次なる金融危
(画像=kuruneko/Shutterstock.com)

日本は、経済大国から経済破綻国へ突然転落した。この事実を、経済学者たちが読みそこねてしまう。

それはなぜか。読者は首をかしげるだろう。その原因は、答を求めるとき、彼らはそうしたデータを見ようとさえしないことにある。

探偵としての彼らのやり口は、アーサー・コナン・ドイルやシャーロック・ホームズよりも、ピーター・セラーズや彼が生み出した喜劇的人物のどじなクルーゾー警部とのほうが、共通点が多い。

もっともらしいが、間違った言い草をつらねて、自明なことを不明にする。

そもそもの間違った前提が、一年生のときに経済学部の学生に叩きこまれる。

その前提とは、マネー(金銭)が「交換をおおうベール」に過ぎず、金銭の額の大きさの変化が「実物」の量――経済のなかで生産され消費される商品の物理的な量――の変化をもたらすと信ずる者たちは、「金銭幻想」に惑わされるというものだ。

主流派のマクロ経済学の教科書は、駆け出しの経済学者にたいして、自信たっぷりにつぎのように保証する。

絶対的価格は問題ではない。だから金銭も問題ではない。 実際に問題となるのは相対的価格なのだと。

新人の経済探偵たちは、そうした考えを説き聞かされるが、その際にはつぎのような場合を考えろと言われる。

一人の消費者が一定量の商品を買うとする。もし価格と彼女の所得がともに瞬間的に2倍になったとしよう。

どんな変化が起こるだろうかと問われるならば、正しい答は「変化なしで、彼女は同じ量の商品を買うだろう」だ。

それにたいし屁理屈をこねると、「金銭幻想」にひっかかっていると嘲笑される。

それ以後は、主流派の経済モデルは、現実の金銭ではなく、相対的価格の上につくられ、分析から金銭そのものは消えてしまう。

ロバート・ルーカスのような生粋の信奉者の手にかかれば、「企業や消費者においては金銭幻想がない」ので、インフレを起こす以外に金銭には役割なし、とするつぎのようなマクロ経済学のアプローチが出てくる。

比較的安定した、右肩上がりの供給曲線を導き出す、変動する総需要の明細に、実産出と価格との間の循環的相関関係を見るのは、(経済学者として)当然だ。

だが、ここから出発すると、ひとつの逆説に行き着く。というのは、企業や消費者において金銭幻想がないことは、垂直な総需要の明細を意味し、そのことは、純粋に名目的な性質の総需要の変動が価格変動しか起こさないことを意味するからだ。

経済殺人ミステリーで有力な解決の糸口として、金銭を除外してしまえば、主流派経済学の探偵マニュアルのつぎの段階は、銀行も筋書きから消すことだ。

主流派経済学の主張によれば、銀行は、預金者と借入者の間の単なる「仲介者」であるに過ぎない。つまり、貸付や金銭創出(マネー・メイキング)で、銀行が積極的な役を果たさないのだ。

主要命題はこうなる。

市場での貸付とマネーの量との間にはつながりがなく、負債のレベルとマネーは2つの独立の事柄だということになる。

「つぎのように考えてみよ。負債が増大するとき、より多くのマネーを借りるのは、経済全体ではない。耐え切れない人たちが――理由はともかく、早くマネーを使いたい人たちが――辛抱強い人たちから借金する」。

同じような立場をとるのがバーナンキだ。

大恐慌についてのフィッシャーの負債デフレ論をしりぞけるに際して、貸出しと総需要の変化とはリンクしないというのだ。

貸付は、銀行によるものであっても、単なる支払い能力の移転に過ぎないというわけだ。クルーグマンが、2012年の私とのブログでの論争で、この考えを強引に押し付けてきた。

銀行が仲介者以上のものだと主張する者は「銀行神秘主義者」だと、つぎのように責め立ててきた。

銀行は左と右が出会うところだ。

――オーストラリア人とミンスキー派は、銀行を、経済に当てはまるルールの外にある機関だと見る。善かれ悪しかれ独特の力を持つと......私はそうは思わないと主張するが。

誰もより多く消費しようとして、虚空から需要を引き出したりしないように、銀行も虚空から需要を生み出したりしない。銀行は貸し手と借り手をつなぐひとつのチャンネルなのだ。

だが、この主張は、主流派のマネーに関するモデルの第三の柱――マネー創出における「マネー乗数」モデル――と折り合いが悪い。それでも、ひどく混乱した探偵――主流派経済学者は、2つの矛盾する考えを同時に持つことができる。

マネー乗数モデルでは、銀行は貸付によってマネーを創出するが、そうすることで、そのすべての行為は、政府の統御に受動的に対応していると主張する。

モデルでは、政府は銀行のため準備を創出し、ついで銀行がその一部――いわゆる法定準備率(RRR)――を保有し、残りを貸し出す。借り手はこの新しく創出されたマネーを他の銀行に預ける。

そうした過程を繰り返し、新しく創出されたマネーの量は、最初に創出された準備をRRRで割った値と最終的に等しくなる。

RRRは1よりもかなり低いから――アメリカの場合は0.1だから――このモデルによれば、銀行の貸し出しによって創出されたマネーの量は、政府によって創出された準備の量の乗数になる。

だから、実際に銀行がマネーを創出するが、創出されるマネーが多すぎても、少なすぎても、政府の誤りとなる。

というのは、政府が紐をひくからだ。大恐慌が連銀によって引き起こされたとするバーナンキの主張の基礎はこれだ。またそれは、2009年にオバマ大統領が受け容れた助言の基礎でもあった。

その中身は、GFC(世界金融危機)から経済を救う最善の方法は、国民にマネーを直接与えるのではなく、銀行に与えるというものだった。

主流派の経済学者がこれらの命題を妥当視すればするほど、どちらもますます間違っているのだ。

最初の命題、すなわちすべての価格と所得を2倍にしても、「実」規模――経済学者には経済で生産され消費される商品とサービスを意味する――が変わらないという命題は、負債の存在という否定できない事実を受け容れるならば、ありきたりの吟味にさえも耐えられない。

負債が存在すれば、ある「行為者」は借り手で、他は貸し手だろう(それに銀行の負債なり非銀行の行為者の間の負債が含まれようが、問題ではない)。

「すべての所得とすべての価格を2倍にする」とき、マネーの価格――金利にたいする影響は何か。借り手にはそれはマネーのコストだが、貸し手には所得源だ。

もしあなたがそれを2倍にすれば、借り手を貧しく、貸し手を豊かにする。それにともなって所得の配分が変わり、需要に変化が生じ、産出にも変化が起こる。

つまり、経済の実規模が変わる。だから、マネーの価格とマネーの所得の変化は、「実効果」を持つことが可能で、事実持っているのだ。したがって、マネーの変化が実効果を持つと主張する者は、「金銭幻想」に患わされているわけではないのだ。逆に、主流派経済学者が「バーター幻想」――マネーを考慮しなくても資本主義は分析できるとする誤った信念――にとりつかれているのだ。

銀行は貯蓄者と借り手の間の「単なる仲介者」で、銀行貸付とマネー供給の間につながりはなく、単に銀行は中央銀行のマネーに「乗数をかけて」新しい貸付と預金を生むだけ、といった主張は、イングランド銀行(イギリスの中央銀行)によって、「現代経済におけるマネー創出」という論文のなかで、つぎのようにすべて誤りだと指摘された。

現代経済では、ほとんどのマネーは、銀行預金の形をとる。だが、どのようにして銀行預金がつくられるかについて、誤解が多い。主な方法は、商業銀行経由で融資される。銀行が融資するとき、必ず同時にそれに対応する預金が借り手の口座に創出される。このようにして新しいマネーがつくられる。

現在のマネー創出の実態は、いくつかの経済学教科書に見られる記述と異なる(つぎが正しい)。

・家計が貯蓄すると、銀行がそれを預金として受け取り、ついでそれを貸し出すのではなく、銀行の貸付が預金をつくる。

・通常、中央銀行は、流通するマネーの量を定めない。中央銀行のマネーに“乗数がかけられ”、より多くの貸付と預金がつくられることはない。

イングランド銀行の事実に基づく記述――銀行が貸し付けるとき、同時に借り手の口座に対応する預金が創出され、新しいマネーがつくられる――は、重要な推論を導く。

つまり、マネーは借りられて存在するようになり――商品なり、サービスなり、資産なりに――支出され、既存のマネーの総額によって融資された額の上に加えられ、総需要を構成する。このように経済の総需要は、既存のマネーの合計と貸付の総和なのだ。

総支出を正確に計測するには、既存のマネーの合計を貸付に加えねばならない。貸付に関するデータは存在するが、既存のマネーの合計に関するデータは存在しない。記録されているのはGDP――商品とサービスを売って得た所得と総支出――であって、一部は既存のマネーによって、また一部は貸付によって融資されたものだ。

だが、現在では貸付のほとんどは資産購入のための(GDPのなかに記録されない)融資だから、GDPと貸付の合計が、経済における総支出をほぼ示す。

このことが、民間負債のレベルとその変化率が問題になるのを説明してくれる。アメリカの慈善家リチャード・ヴェイグが、重要な経験的規則性を発見した。

それによると、過去50年間のいずれの経済危機でも、つぎのようなことを示していた。GDPに占める民間負債の率が150%以上、そしてその5年間の伸び率が17%という組み合わせだ。この経験的規則性は、負債の伸び率の低下の影響が、そのレベルと変化率に依存するためだ。

その意義を理解するために、つぎのような経済を想像しよう。

民間負債がGDPの2倍の速度で伸び――負債が名目年20%で伸び、GDPが年10%で伸び――そして貸付が、商品やサービスではなく、資産購入のために用いられるとしよう。

またとりあえず貸付とGDPの伸びとの間のフィードバックも無視する。もし負債の伸び率が遅くなり、GDPの伸び率と同じになれば、商品とサービスと資産にたいする総支出はどうなるだろうか。

もしGDPが年1兆ドルで、負債率が50%ならば、負債は5000億ドルで、その年の貸付は1000億ドル(5000億ドルの20%)になる。

総支出は1.1兆ドルだ。1兆ドルは既存のマネーから、1000億ドルは貸付からだ。つぎの年、もしGDPの伸びが10%で、負債の伸びが年20%から10%へ低下したとすると、総需要は1.16兆ドルになる。

1.1兆ドルがGDPから、600億ドルが貸付から(6000億ドルの10%)だ。前年にくらべて、貸付にたいする需要が400億ドル減少している。

だが、総需要は前年よりも600億ドル高くなる。それはGDPが増大したからだ。

だが、もし負債率がGDPの200%から始まるならば、1年目の総支出が1.4兆ドル――既存のマネーの総計から1兆ドル、貸付から4000億ドル(2兆ドルの20%)――になる。

つぎの年に貸付の伸びが10%へ低下すれば、総需要は1.34兆ドルになる。GDPからが1.1兆ドル、貸付からが2400億ドル(2.4兆ドルの10%)だ。前年よりも支出が600億ドル減少している。GDPも負債も増加を続けているにも拘わらず、そうなのだ。

中央銀行の何人かの経済学者たちが表明する――経済に悪い影響を及ぼさずに、GDPに占める負債のレベルが安定可能だという――希望は、単純に誤りなのだ。

ひとたび経済において、GDPに占める負債のレベルがかなりの域に達すると、そしてその比率がGDPよりも速く伸びるならば、その比率の安定は深刻な不況を引き起こすだろう。GDPの成長率が低下しなくても、それを引き起こすだろう。

そして、もちろん現実に、GDPの伸びは低下する。というのは、ヴェイグが見出した経験的規則性が、ここでの仮説的な例よりも低いレベルで起こり得るためだ。

だから、貸付はグローバル経済のブームとスランプの両方の原因なのだ。その引き金は、いずれの経済危機においても、スペインやギリシアのように、ユーロ圏の自殺的な政策が経済失敗の主因だった場合においても、見ることができる。

南欧の最近の失業率の低下は、緊縮政策の成功のしるしだとEUが持ち上げるが、実は貸付の増大の結果に他ならない。貸付はマイナスだが、低下率がゆるやかなため、総需要の増大になっている結果だ。

貸付は経済をつぎつぎに「ゾンビ化」してきた(ゾンビは死体を生体のように動かす魔神)。かつて生き生きしていた経済を、刺激的だが、長続きしないブームのあと、「借金の生ける屍」にしてしまう。

そうした「負債ゾンビ化」は、非常に高いレベルの民間負債(GDPの150%以上)、危機前の貸付による需要(GDPの約15%に相当)、危機後の高い負債比率、低いかマイナスの貸付による需要などを特徴とする。危機の前にくらべて大幅に低い貸付による需要、しつこく高止まりする民間負債などのため、需要はより低く、経済の成長率も低く、経済は民間部門の負債削減への復帰の影響を受けやすい。

これこそが2008年の世界金融危機(GFC)後の経済停滞の真の原因だ。それをラリー・サマーズが、彼より前のアルヴィン・ハンセンもそうだったが、誤って「セキュラー・スタグネーション(長期停滞)」と呼んだ。主流派経済学者として、彼は誤った考えを共有する。金融危機は過渡的現象で、それは解決済みで、今のはっきりしない成長数値は金融危機では説明できないというわけだ。

金融組織のリスクの証拠が......ゆきわたってから......5年あまりが経った。だが、まだアメリカ経済の成長率のこの5年間の平均は、ひどく落ち込んだ状態から戻り始めたにしても、僅か2%だ......。

振り返ると、こうしたパターンは驚くべきものだ。もし金融危機が一種の権力の失墜を表すとすれば、それが解決したあとは、成長が加速するのを期待するだろう。貸付が得られないため需要を表明できなかった者が、需要を表明できるようになるからだ。

現在の経済停滞は「貸付による過大民間負債」が原因だと説明されるのに目をつぶって、サマーズは、第一の原因として、「ゼロ金利制約(金利がゼロ以下にならないため金融政策が効かなくなること)」が、市場による完全雇用の回復を妨げていると主張する。

大きな金融問題がないにも拘わらず、なぜ停滞が続くのか、その原因を人々はどう理解するか。

つぎのように想定するとしよう。

大きなショックが、民間の貯蓄性向を高め、投資性向を低め......完全雇用下の産出レベルで貯蓄と投資が等しくなるまで......人々は金利が低下すると期待するだろうと。だが、それには金利の完全な柔軟性が前提となる。......したがって、実現可能な金利では、完全雇用下での貯蓄と投資の均衡を達成できない可能性が存在する。

そして第二の原因としてサマーズは、人口増加と技術革新の低下が、経済のより低い成長を説明するとして、つぎのように推量する。

「人口とおそらく技術の成長の低下は、より生産性の高い、新しい労働者に、新しい資本商品を与えるための、需要の低減を意味する」。確かに人口増加は減速し、それが産出の最大潜在成長率を低下させた。技術成長それ自体が低下したとの主張は、1934年にハンセンが主張したときと同じように確かだと思える。だが、ハンセンの主張のあと、ジェット機、コンピュータ、原子力が発明された。

技術変化の低下の真因は、経済成長の低下の真因と同じだ。貸付需要が蒸発し、それとともに民間部門による革新のための主要な金融源も衰えたのだ。

サマーズの主張とは逆であって、アメリカの金融危機はまだ終わっていない。というのは、民間負債のレベルが高いままだからだ。

GDPにたいする民間負債の大きさは、2009年初めの170%を絶頂として、21%の減少を見せたが、依然として150%と突出している。まさにそのレベルは、リチャード・ヴェイグが過去のすべての経済危機の2つの要素の1方と同定したものに他ならない。

それとは対照的だが、大恐慌と第二次大戦のあと、民間負債がかなり減少した。戦後が始まった頃はGDPの37%――大恐慌時の最大値の4分の1だった。

民間負債が高止まりしているため、貸付による需要は劇的に減少した。対GDP比で、世界金融危機(GFC)前の5年間の12%から、2011年から現在までの平均3%へと低下した。この点でアメリカは、18年前の日本の誤りを繰り返した。民間負債を狂奔させ、資産バブルを無視し、しかも危機のあと民間負債を大幅に減らすのに失敗したのだ。

日本は、1990年にバブル経済が崩壊し、最初の負債ゾンビになった。民間負債はGDPの208%に達した。対GDP比で貸付が、危機前の5年間は平均17.5%だったが、危機のあとは0.5%以下だ。民間負債は最高値からかなり減少した。

対GDP比で、1995年の221%から、現在は167%へと低下した。だが、それでも日本のバブル経済前のレベルよりもはるかに高く、10年間にわたって対GDP比170%のあたりで固まってしまっている。

アメリカに加えて、数ヵ国が日本のあとを追ってゾンビ化国になった。疑わしい経済政策に従ったからだ。

対GDP比で、過去5年間、民間負債が150%を超え、貸付が10%以上だった。この状況に落ち込んだ国が脱出するには、2つしか方法がない(ここでは的を射た政策という第三の選択肢を除く)。さらに負債を増して危機を遅らせ、より危険な域に入っていくか、それとも貸付需要を大幅に削減する危機を経て危険域を脱しても、崩壊してしまうか、そのどちらかだ。

2008年にアメリカについで負債ゾンビになった国は、アルファベット順では、デンマーク、アイルランド、オランダ、ニュージーランド、ポルトガル、スペイン、イギリスだ。世界金融危機(GFC)当時、これら7ヵ国の平均負債レベルは、対GDP比207%だった。

また、危機の5年前の貸付は平均で18%だった。危機以降では、平均負債レベルの低下は僅かで、204%にとどまった。危機以後5年間の平均負債の減少幅は1%に終わった。

貸付の崩壊がそれら諸国の経済停滞の真因だったが、それぞれの国での政治物語では、違う犯人が指示された。危機の主要な原因として、政府支出の膨張を挙げるのが標準的だった。

その種のそらし戦術で、イギリスほど成功した国はなかった。

次なる金融危機
スティーヴ・キーン
1953年生まれ。ウエスタン・シドニー大学を経てロンドンのキングストン大学の経済学の教授。Debunking Economicsを2001年に刊行し、ベストセラーになった。 ※画像をクリックするとAmazonに飛びます