イトーヨーカ堂アパレル事業撤退を伊藤雅俊は聞いていたのだろうか?
(画像=「セブツー」より引用)

3月10日にイトーヨーカ堂創業者の伊藤雅俊が98歳で亡くなった。北千住で2坪の洋品店「羊華堂」を母や兄と始めたのがその始まりだ。その後兄の譲が1956年に死去し、伊藤が社長になった。その後の快進撃についての説明は不要だろう。1960年、1970年代は、ダイエーの中内功(1922.8.2~2005.9.19)、ジャスコ(現イオン)の岡田卓也(1925.9.19~)とともに「スーパー(GMS)の時代」を日本に現出させた。ダイエーは消滅してしまったが、ジャスコはイオンとなって年商8兆7159億円(2022年2月連結決算)の巨大流通になり、イトーヨーカ堂は、その後セブン-イレブン・ジャパン、デニーズ・ジャパンなどを生み出す年商8兆7497億円(2022年2月連結決算)のセブン&アイ・ホールディングスになった。伊藤はまさに日本の流通業界の巨人と言っていい存在だった。

しかし、因縁と言うのだろうか。セブン&アイ・ホールディングスは、先週の3月9日に、イトーヨーカ堂の店舗を2023年2月期末の126店から33店舗撤退し26年2月期末までに首都圏中心の93店に絞ると同時に、アパレル事業から撤退して「食」を軸にコンビニ事業とSM(食品スーパー事業)、スーパーストア事業と連携させる事業再構築を発表した。この翌日逝った伊藤は、このことを知っていたのだろうか。

前述したように伊藤によるイトーヨーカ堂創業は「羊華堂」という小さな洋品店である。アパレル事業に対する伊藤の思いは人一倍だったはずだ。

2005年頃だったと思うが、「いよいよH&Mが日本上陸する。日本ではどんな展開になるのだろう。100%出資のH&Mジャパン設立なのか?それとも有力な日本のパートナーがいるのか?」ということが業界の大きな話題になっていたことがある。そんな時に「イトーヨーカ堂の伊藤会長がストックホルムに現れた!」という情報が流れたのだ。これは一大事と私はそのウラを取るのに必死だった記憶がある。結局100%出資のH&Mジャパンが設立されたのだが、伊藤が表敬訪問なのか提携交渉なのかストックホルムのH&M本社を訪ねたのは間違いないようだった。ファストファッションをイトーヨーカ堂で扱ってみたいという強い気持ちが伊藤をストックホルムに向かわせたのだろう。

私は伊藤と一度だけ言葉を交わしたことがある。1990年4月のイトーヨーカ堂によるロビンソン百貨店宇都宮店のオープニング(2013年閉店)の時だった。挨拶程度の会話だった。しかしその後驚いたことがある。テープカットなどで隣同士に並ぶことが多かった鈴木敏文社長と伊藤会長が私の見る限り全く会話をせずに、顔も合わせなかったことだ。この年の6月には国内出店4000店を突破するなどセブン-イレブンがすでにグループの中核事業になっており、この事業を立ち上げた鈴木敏文社長と創業者の伊藤との不仲説がまことしやかに語られていたのだが、私はそのことをまさにその日目の当たりにしていたのだった。このロビンソン百貨店でもそうだったが、アパレル事業に対する伊藤の執着は強く、大手アパレルメーカーがイトーヨーカ堂のPBへの協力を伊藤から直々に懇願されて、断るに断れず困っている「泣き」を実際にトップから聞いたこともある。

創業者の伊藤と確執のあった鈴木敏文もワンマン経営が行き過ぎて、取締役会でのトップ人事をめぐる意見対立から、2016年に辞任に至っている。

イトーヨーカ堂の大量閉店とアパレル事業撤退と同時に3月9日には4月1日就任の新任代表取締役が発表されている。それは伊藤順朗現取締役常務執行役員経営推進本部長の代表取締役専務執行役員最高サステナビリティ責任者(CSuO)兼ESG推進本部長兼スーパーストア事業管掌への昇格人事だ。この伊藤順朗こそ翌日死去した伊藤雅敏の次男(1958年6月14日生まれ)である。