徳川家康、豊臣秀吉、伊達政宗、上杉景勝……。戦国の世を駆け抜けた武将たちを支えたのは「名軍師」。いわゆる参謀だ。優れた将の成功には、優れた参謀の影あり。戦国武将を支えた名参謀から、ビジネスという乱世を生き抜く術を学んでいこう。

天下人を支えた名参謀、黒田官兵衛

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(写真=Keith Tarrier/Shutterstock.com)

豊臣秀吉の天下統一を支えた名参謀といえば、黒田官兵衛だ。数年前には大河ドラマの主役となったので、その活躍ぶりをご存知の方も多いだろう。

官兵衛は当初、播磨の御着城主、小寺政職(まさもと)の家老として仕えていた。当時、播磨は西の毛利と東の織田に挟まれ、どちらに付くか決断を迫られていた。ビジネスの世界で言うならば、オンリーワンの技術をもつ中小企業が、大手企業2社から引き合いを受けているような状態だ。

小寺家では、毛利方に付くよう進言する家臣が多い中、官兵衛はあえて「織田に付いたほうが得策だ」と進言する。西国に隠然たる力を持つ大大名の毛利よりも、東海地方の大盟主、今川家を破って勢いのある織田方に付いた方が得策だというのだ。後年、織田信長が天下人となったことを思えば、その勢いと成長性を見込んだ官兵衛の鋭い洞察力が光る。

その後、官兵衛は信長の命で秀吉に従うことなり、毛利攻めに向かう秀吉に自身の姫路城を「どうぞご自由にお使いください」と差し出す。こうした言動から秀吉の信を得た官兵衛は、懐刀として名をはせていく。とくに、秀吉が天下をとる直接のきっかけを作った「中国大返し」は有名だ。

秀吉の天下統一も、名参謀として活躍した官兵衛の時代を見通す目があったから成し得たといえるだろう。

地方発!天下人にも一目置かれた知将・直江兼続

もうひとり、大河ドラマの題材になった名参謀といえば、米沢藩初代藩主上杉景勝を支えた直江兼続だ。

兼続は、上杉謙信の後継者となった景勝の信を得て上杉家の執政となり、若くして内政・外交・軍事を統括する立場となる。信濃川の支流、中之口川の開削によって越後平野発展の基礎を作ったほか、景勝に従い佐渡征伐や小田原征伐などの戦に出陣した。外交面では、徳川家康から景勝にかけられた謀反の嫌疑を晴らし、上杉家を守り抜いた。兼続による反論をしたためた書状が、世に知られた「直江状」だ。

こうして、東北の知将として天下人にも一目置かれた兼続が読んだとされる漢詩が、「春雁我に似たり 我雁に似たり洛陽城裏花に背いて帰る」というものだ。

「春の空を渡る雁のように、私も華やかな都に世を向けて、あるべきところに帰ろう」という意味のこの漢詩は、京都や江戸などの華やかな大都市ではなく、主君が治める越後や会津を本拠地とし、その興隆に尽くした兼続の姿をよく現している。現代のビジネスマンでいえば、キラリと光る技術を持った地方の優良企業、もしくは、テクノロジーの発展を武器に、華やかな都会の生活から地方に移住してビジネスを興した起業家、といった風情ではないだろうか。

ビジネス界でも光る「名参謀」の存在

このように、歴史に名を残した戦国武将の影には、戦略・戦術面だけでなく内政や外交面でも支えとなった名参謀の存在があった。

ビジネス面でもしばしば、著名な企業家のかたわらに参謀の存在が光る。とくに、日本の長寿企業には、昔からあるじの支えとなる「番頭」の存在があり、経営のかじとりを指南する参謀役を担った。

例えば、ホンダ <7267>の創業者、本田宗一郎を陰日なたに支えた藤沢武夫だ。本田宗一郎は技術開発に専念し、経営は藤沢武夫が受け持つことで、ホンダは小さな町工場から世界に飛躍したといわれる。名参謀がいたからこそ、カリスマ的な経営者が輝いたという一例だろう。

21世紀に生き残る企業・組織を考える際に、戦国武将を支えた名参謀たちの名言や生き方を再び見直してみるのもよいかもしれない。(提供:百計オンライン


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