(本記事は、真山知幸氏の著書『独裁者たちの人を動かす技術』すばる舎、2018年8月15日刊の中から一部を抜粋・編集しています)

失業者問題を4年で解決したヒトラー

(画像=360b / Shutterstock.com)

弱い立場にある者たちを踏みつけ、自分の意のままに動かす―。

独裁者には、そんなイメージがつきまとう。

もちろん、独裁者は、しばしば民衆に無理難題を押し付け、気に食わない人間を失脚させることもある。

そうした態度は、彼らが独裁者であるためのテクニックのひとつなのだが、それについては後述するとして、独裁者が常に弱者の敵だったかというと、まったくそんなことはない。

彼らの事績を追うと、独裁者と呼ばれた者たちの多くが、実は“弱者救済”のための政策に取り組んでいるのだ。

独裁者の代名詞ともいうべき、ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーの場合もそうだった。世界を戦禍に巻き込み、ユダヤ人に対し組織的な大量虐殺を行った恐るべき暴君として記憶されているヒトラーだが、意外にも失業者問題に関心が高かった。

彼のナチ党が政権を握った当時、ドイツは世界恐慌などの影響で失業率が40%にも達していた。

1933年、ヒトラーは抜本的な失業者対策として「ラインハルト計画」を発表する。

自動車高速道路「アウトバーン」の建設など、半奉仕活動的な雇用によって失業者の数を抑制した。

さらに、租税軽減法や自動車税の廃止など、失業者の立場に立った政策を次々に打ち出していく。

「4年以内に、失業を最終的に克服しなければならない」

そう語っていたヒトラーは、なんとその言葉通りに、1937年にほぼ完全雇用を達成した。

「第一次世界大戦」に敗北し、ベルサイユ条約で過酷な賠償金を押しつけられて絶望のただ中にいたドイツ国民が、より熱狂的にヒトラーを支持したことは想像に難くない。

とかくヒトラーは政策の残虐性や演説の巧みさ、歪んだ性格などがクローズアップされがちだが、このように国民の気持ちに寄り添う姿勢も併せ持っていたのだ。

もちろん、「ユダヤ人排斥」という悪行もまた、富裕層が多かったユダヤ人へのドイツ国民の嫉妬に“寄り添って”なされた側面があることを忘れてはならない。

心優しきヒトラー?

話し方や見た目で、民衆の間に自分のイメージを確立すれば、思い通りに事が運びやすくなる。

だが、それでは不十分である。

大衆は、飽きやすく、忘れっぽい。いつしかイメージに慣れてしまい、刺激が不足してしまうのだ。

さらに人間的な魅力を演出するには、キャラクターに「奥行き」を持たせる必要がある。言い換えれば、「意外な一面を見せて、自分で作ったイメージを壊す」ということである。

アドルフ・ヒトラーの場合、1936年にこんな珍妙な法案を提出している。

「甲殻類を調理するときは、熱湯に入れて早く殺すべきで、必ず一匹ずつ殺さなければならない」

甲殻類、つまり、カニやロブスターなどを調理するときに、できるだけ残酷ではない方法で殺すように、とヒトラーは言っているのだ。

ユダヤ人に対し、数々の残忍な政策を実行に移しておきながら、甲殻類の気持ちになってものを考えることができるというのは、かなり意外である。

また、ヒトラーは、室内で花を飾ることを禁止したこともある。

これは「花が枯れるのを見るのが嫌だから」という、なんとも詩的な感覚から生まれたものだったというが、これもヒトラーのイメージとはかけ離れていて驚かされる。

さらに、こんな話がある。

ヒトラーが自ら運転する車で、ある村に立ち寄ったときのことだ。村の少女と知り合い、偶然その日が少女の誕生日だと知ると、ヒトラーは他の村まで車で、オモチャやケーキなどを買い込んできて少女を喜ばせたという。

その他にも、ヒトラーは秘書にプレゼントを欠かさなかったり、側近に気を遣ったりと「意外に優しい」と語られるようなエピソードを数多く持つ。

ヒトラーがどこまで計算していたかは不明だが、人は自分のイメージとは違う一面を見せられると、そちらが本質なのだと誤解しやすい。

普段の尋常ではない攻撃性が印象深いからこそ、こうしたちょっとした振る舞いが大きな効力を発揮するのだ。

演説の力で頭角を現したヒトラー

言葉は武器になる―。

それを誰よりもわかっていたのが独裁者たちだろう。

ヒトラーがナチス党の前身である、ドイツ労働者党に入党したのは、1919年のこと。

党員はたった数十人の小さな政党だった。そのなかで活動していくうちに、ヒトラーは自分のある才能に気づく。

「私は30分の演説をした。そして、以前から根拠なくただ内心だけで感じていたことが、現実のこととして証明された。私には演説する力があったのだ」

この小さな成功体験が、のちに世界史を揺るがす独裁者を生むとは、党員たちも思ってもいなかったことだろう。

やがてヒトラーの演説によって、党には寄付金が集まるようになり、党勢を拡大することにも成功した。

その後も、演説の力で頭角を現し、国家主席にまで上り詰めたヒトラー。自身の演説の力をこう誇っている。

「大勢の民衆はなによりもまず、つねに演説の力のみが土台となっている。そして偉大な運動はすべて大衆運動であり、人間的情熱と精神的感受性の火山の爆発であり、困窮の残忍な女神によって扇動されたか、大衆のもとに投げこまれたことばの放火用たいまつによってかきたてられたからであり、美を論ずる文士やサロンの英雄のレモン水のような心情吐露によってではないのである」

ヒトラーは、クーデターを試みて失敗した「ミュンヘン一揆」によって、反逆罪で逮捕されるが、国民法廷の最終弁論で、次のように語って拍手喝采を浴びた。

「何千回でも有罪判決をくだすがいい。歴史という永遠の法廷をつかさどる女神が、起訴状と判決とを笑って破り捨ててくださるだろう」

自身を裁く法廷すらも、ヒトラーは自分の演説を活かす機会に利用したのである。この演説の影響で、刑務所内でも英雄となったヒトラー。

5年と軽く済んだ禁固期間に、獄中で著したのが、『我が闘争』である。

聴衆の反応を待ちながら話す

ヒトラーの演説の特徴としては、まずは、演壇についてもなかなか話を始めなかった。

聴衆が聴く準備ができるまでじっと待ったのである。

これは言うは易しで、なかなかできることではない。人前が苦手な人ほど、焦って口火を切りがちである。

だが、相手に聞く準備ができていないために、思ったような反応が得られずに、なおさら、しどろもどろになり……という悪循環に陥ってしまう。

焦らしに焦らしたヒトラーは会場が静まるのを待って、ようやく、ゆっくりと話し始める。あくまでもゆっくりと、である。

やがて中盤に差し掛かるころから、身振り手振りが加わって、動きに激しさが増していく。

聴衆がのめり込むのを確認すると、ときには聴衆に語りかけて興味を持続させ、さらにボルテージを上げていく。

そして、両手を大きく動かしながら、クライマックスを迎える―。

こう書いていくと、演説というよりアーティストによるコンサートである。

ヒトラーの宿敵、ソ連のヨシフ・スターリンは、ヒトラーほどの演説の才能はなかったものの、彼なりに話し方を研究していた形跡が見られる。

スターリンの片腕、ラーザリ・カガノーヴィチは、党書記長になった頃のスターリンについて、次のように語っている。

「彼は鉄のようで、不屈で、落ち着いていて、私に言わせれば、冷静沈着で、いつも何かに集中している人物であった。彼はあらかじめ考えることなく、言葉を口にすることはけっしてなかった」

手練手管で人を惹きつける演説術がなくても、意図的に言葉数を少なくし、一言あたりの重みを出すことでカバーできるのだ。これはこれでひとつの戦術といえるだろう。

それぞれが自分の性格をわきまえたうえで、どのように言葉を使うべきかを研究し、独自のスタイルを作り上げていったのである。

挫折や葛藤を自伝で強調したヒトラー

自分を魅せるテクニックは、どちらかというと人の目を意識して、水面下の白鳥の如く、人知れず努力を重ねて自己を演出するものだが、その努力をあえて見せることで支持を集めるという技術もある。

ヒトラーは、もともと画家志望だった。

税関事務官だった父からは、自分と同じ職に就くことを強要されたが、ヒトラーはそれに反発して実科学校(職業教育学校)での授業を欠席するようになり、最終的には、肺の病気を理由に中退している。

ヒトラーは、些細なことで暴力を振るう父のことが好きではなかった。

だが、そんな父との確執は、ヒトラーが『我が闘争』で書いていることであり、本当のところは分からない。

もし、父がヒトラーに本当に税関事務官になって欲しかったなら、もっと違う学校に進学させたはずだという指摘もある。

重要なのは真実ではなく、ヒトラーがそう語りたがったということだ。

つまり、父との衝突という、およそ「強い指導者」らしくない、ひとりの弱い人間としての自分を印象づけようとしていたのである。

実科学校を退学後、ヒトラーは画家を夢見て、芸術の街ウィーンへと旅立つ。

ウィーン美術アカデミーを2回受験するが、いずれも失敗。

ヒトラーはミュンヘンに移住して、再び画家や建築家を目指すものの、やはり挫折している。ドイツ労働者党に入党するのは、その後のことだ。

芸術家を志望していた頃は、失意のなか、無一文の生活を送ったとさえ、自身は語っているが、これはどうも、本当ではないようだ。

実際は、住んでいたアパートは立派なもので、父や叔母の遺産を相続して、悠々自適な生活を送っていたことが分かっている。ヒトラーが語る自分の過去は、まったくの嘘というわけではない。

父とそりが合わず、実科学校を中退してまで芸術家を目指したが挫折し、ドイツ労働者党という小さな政党から、演説の巧みさで一国の指導者にまで成り上がったことは、事実だ。

だが、自分の来歴のところどころを大げさに語るところがあった。特に、「苦労」や「挫折」を強調しているフシがあるのだ。ヒトラーの苦労話を聞けば、人々はこう思うことだろう。

「あのヒトラーも若い頃は挫折の連続だったのだ!」
「そこから這い上がってきた指導者なのか」

「持たざる者」による一発逆転ストーリーは、民衆が自分たちの姿を重ねてくれるので、共感が広がりやすい。

成功した演説にも修正を入れた

こうしてヒトラーは大勢の民衆たちに向かって、自らの挫折を発信する一方、側近たちには、語るだけではなく、実際に努力する姿を見せつけていた。

ヒトラーが演説で数万人という聴衆に語りかけたあとのことだ。すぐさま反省会が開かれた。

実際に参加したひとりは、ヒトラーの様子についてこう振り返っている。

「ヒトラーは鉛筆で、終わったばかりの演説の原稿に書きこみをしながら、独り言を言っていた。『ここはよかった……ここは効果満点だった……ここは削るべきだな……』。彼が生涯で最も感動的な演説をおえてからまだ1時間とたっていなかった。彼は説教し、懇願し、怒号し、絶叫した。それなのに、そこにいるのは、私が見たこともないほど、冷静で理性的な一人の男だった」

演説だけでのし上がってきたと言ってもいいだけに、ヒトラーがそれにかける情熱は半端なものではなかったのだろう。

人知れず努力していたことを思わせるエピソードである。

同時に、ヒトラーは自分が他人に与える印象をコントロールするために、涙ぐましい努力・工夫をしていた。

ヒトラーが側近たちと昼食をとっていたときに、こんなことがあった。

談笑していると、イギリスの外交官が訪ねてきたという。報告を受けたヒトラーは、こう言った。

「ちょっと待て。彼を入れるな。私はまだ笑っているから」

そして、ヒトラーは怒った表情をわざと作り、目をむき出しにし、呼吸を荒くした。

準備が整ったところで、その外交官と会うと、いきなり大声で怒鳴り始めたという。当時、イギリスとは関係性が良くなかったので、威圧する必要があったのかもしれないが、完全に役者である。

そのあと、側近たちにはこうささやいた。

「おい、俺にお茶を一杯くれ。あのイギリス人のやつ、私がすごく怒っていると思っただろうな」

こんなヒトラーだから、演説後の反省会に出ているメンバーも頭に入っていたはずだ。彼が意味もなく、自分が努力する姿を見せるわけがない。

おそらく、情報をすぐに広めそうな者を呼んで「成功裏に終わった演説にも慢心しないヒトラー」を見せつけたのだろう。

その目論見は見事に成功し、反省会に出たメンバーの一人が、こうしてヒトラーの努力を描写し、時を越えて筆者がそれをさらに紹介しているのだから恐ろしくなってくる。

真山知幸(まやま・ともゆき)
著述家。著作に『ざんねんな偉人伝』『ざんねんな歴史人物』(共に学研)、『ざんねんな名言集』(彩図社)、『君の歳にあの偉人は何を語ったか』(星海社新書)、『不安な心をしずめる名言』(PHP研究所)、『大富豪破天荒伝説Best100』(東京書籍)、監修に『恋する文豪(日本文学編、海外文学編)』(東京書籍)、『文豪聖地さんぽ』(一迅社)など。共著に『歴史感動物語 全12巻』(学研)。 ※画像をクリックするとAmazonに飛びます

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