(本記事は、真山知幸氏の著書『独裁者たちの人を動かす技術』すばる舎、2018年8月15日刊の中から一部を抜粋・編集しています)

織田信長の「許す力」(1)柴田勝家

独裁者たちの人を動かす技術
(画像=tera.ken / Shutterstock.com)

逆らったら最後、すぐに処刑されてしまうイメージが強い織田信長だが、自分の命を狙った相手にも、寛大な処置をとることがあった。

その勇猛さから「鬼柴田」と恐れられた柴田勝家。

織田家中で筆頭家老にまで上り詰めた人物だが、もともとは信長と敵対関係にあった。

家督争いの際、当初は信長ではなく、弟の信勝に付いており、むしろ、信長は邪魔な存在だったのだ。

信勝を擁立するため、勝家は信長の宿老の林秀貞や、その弟の美作守と組んで、信長を暗殺しようとさえした。

3人の足並みがそろわず、未遂に終わったものの、勝家は林と組んで、1700の軍勢を率いて、稲生原の地で信長らと衝突。

700と数的不利だった信長の軍を追い詰めたこともあった(結局、信長が自ら美作守の首をとったことで、形勢逆転されて、勝家らは破れている)。

そんな勝家だが、自分のところに降ってくると、信長は迎え入れた。勝家から信勝の挙兵計画を聞いた信長は一計を案じる。

病を装って清州城に籠もると、信勝に見舞うよう、勝家にアドバイスさせたのだ。勝家の投降を知らない信勝はまんまとおびき寄せられ、信長に殺されてしまった。

その後、信長は勝家を重宝し、戦功に応じて出世させた。

しかし、勝家は一度は敵となり、しかも自分の弟を売ったような男である。

疑り深いだけのリーダーならば、「今度は自分を裏切るのでは」と疑心暗鬼になるのが普通だろう。

それでも信長は勝家を信頼し、最後まで重臣として大軍を任せた。過去を水に流す寛容さがなければ、できないことだ。

織田信長の「許す力」(2)松永久秀

信長がさらに広い心を発揮したケースもある。

勝家の場合は「敵対していた相手が寝返ったので受け入れ、重宝した」ということだが、こちらでは裏切った味方を許している。

信長を裏切った、恐れを知らぬ男の名は、松永久秀である。

彼については、少し説明が必要だろう。

久秀は、畿内などを支配した三好長慶に仕え、重臣として活躍。

長慶の死後は、三好氏の一族、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と手を組み、室町幕府将軍・足利義輝を殺害した。

その後、久秀は三人衆と対立するが、これに勝利し余勢を駆って大仏を焼き討ちしている。

権威をものともしない久秀について、信長は「この老人は、常人にはできない、天下の大罪を3つも犯した」と言って高く評価した。

3つの大罪とは、主君である三好長慶を死に追いやり、将軍・足利義輝を殺し、大仏殿を焼失させたこと、である。

そんな久秀は、1566年に信長と同盟を結んだ。実質上、信長の臣下になると、その後ろ盾を利用して大和(現在の奈良県)で勢力を拡大していった。

ところが6年後、久秀は信長に反旗を翻すと、三好義継や三人衆とともに、信長に一戦を挑んだのだ。

結果は、信長の勝利。

同盟を結んでおきながら、好機とみるや裏切るなど、あってはならないことだ。

すぐさま処刑されてもおかしくないが、久秀が刀などを献上すると、信長は裏切りを許している。久秀の能力を買ってのことだろうが、異様な甘さである。

しかし、それが仇となってしまった。

1577年、信長が石山本願寺攻めをしている最中に、久秀はいきなり戦線を離脱。居城の信貴山城に立てこもり、またもや、信長を裏切った。

これには信長も激怒し、4万の兵を久秀に差し向け、8000の兵しか持たない久秀を圧倒した。

今度こそは処刑―と思いきや、信長は久秀所有の名器「古天明平蜘蛛」を差し出せば許す、と言い出した。

またもや、許そうとしたのである。

しかし、久秀は「我々の首と平蜘蛛は、信長公にお目にかけぬ。鉄砲の薬で粉々にしよう」と言うと、平蜘蛛を叩き割って天守に火を放ち、自害した。

久秀のケースでは、信長は許す力=ブレーキが強過ぎたと言える。

久秀は信長にベタ褒めされた段階で、「信長、御しやすし」と見てしまったのだろう。

独裁者たちには常に恐怖政治と寛容さのバランスが求められていたのである。

臣下の妻に手紙を出した信長

「人を思いやる」。

独裁者たちには似つかわしくない言葉かもしれないが、結局のところ、人が意気に感じるのは、リーダーが自分と向き合い、思いやってくれているかどうかに尽きる。

ありきたりなスキルだと馬鹿にせず、「独裁者ですら、ここまでやっていたのか」という視点で読んで頂ければ幸いだ。

さて、戦国武将の手紙をテーマにした本は数多いが、その中で必ずといっていいほど紹介されるのが、織田信長が家臣の豊臣秀吉の妻・ねねに宛てたものである。

「どこをたずねまわっても、そなたほどの女房は、また再びあのはげねずみには求め難いので、これからあとは立ち振る舞いに注意し、いかにも上様らしく重々しくして、嫉妬などに陥ってはならない。ただし、女の役目でもあるので夫の女遊びを非難してもよいが、言うべきことをすべて言わないようにして、もてなすのがよいだろう」

秀吉の妻を「そなたほどの女房は、あのハゲネズミには二度と求められないだろう」と、持ち上げつつ、秀吉の女遊びについては「正妻らしく堂々としながら、むやみに嫉妬しないこと。非難はしてもよいが、ほとほどにすべし」と説いている。

おそらく、女癖の悪い秀吉のことを、ねねが誰かに愚痴って、それが信長の耳に入ったのだろう。

この手紙はさらに、こう続く。

「なお、この書状をそのまま羽柴藤吉郎秀吉に見せるようお願いする」

ということは、これは信長から秀吉への「妻への思いやりを持て」というメッセージにほかならない。

しかも、この手紙には、朱印が押してあることから、秀吉への指示書であったとも解釈できる。

天下統一に邁進する独裁者・信長が、家臣の夫婦円満に心を砕いている様子は、なんともおかしい。

厳しい能力主義に晒されていた織田家家臣団だが、当主にこのような細かい気遣いがあったからこそ、一丸となって数々の難局を乗り越え、天下統一まであと一歩のところまで迫ることができたのではないだろうか。

優しすぎる男、清盛

そんな信長やナポレオン以上に、家臣を気遣った男がいる。

日本の平安時代末期に絶大な権力をふるった、平清盛である。

鎌倉中期の教訓説話集『十訓抄』には、次のような逸話が取り上げられている。

「折悪しく、にがにがしきことなれども、その主のたはぶれと思ひて、しつるをば、かれがとぶらひに、をかしからぬゑをも笑ひ、いかなる誤りをし、物をうち散らし、あさましきわざをしたれども、いひがひなしとて、荒き声をも立てず」

つまり、清盛は、たとえ相手の発言が、いかにも間が悪くて苦々しい内容でも、「冗談で言っているのだろう」と思うようにしていた。

また、愛想を言われれば、おかしくなくても笑った。

そして、過ちを犯したり、物を壊されたり、酷いことをされても「どうしようもない奴だ!」と声を荒げることはなかったという。

そんなことで家臣に見くびられないのかと思わず心配になってしまうが、さらに、こんな話が続く。

「冬寒きころは、小侍どもわが衣の裾の下に臥せて、つとめては、かれらが朝寝したれば、やをらぬき出でて、思ふばかり寝させけり」

冬の寒い頃は、自分の衣の近くに、仕えている者たちを寝させたばかりか、朝に彼らが寝坊したならば、起こさないようにそっと出て、思う存分寝かしてあげたというのだ。

思いやりを通り越して、甘やかしの域に達している。

だが、清盛がこれだけ家臣を気遣ったのには、自分自身が、家督を継ぐまでに苦労したり、出自について噂を立てられるなど苦労が耐えなかった経緯がある。

また、都では田舎武士でも、郷里では大軍団を束ねている武士も珍しくない。丁重に扱えばいざというときに役に立つという思惑もあったに違いない。

また、清盛は、たとえ最下級の家臣であっても、その家族が訪ねて来れば、上級の家臣の家族と同じように丁重に接した。

そればかりが、最下級の家臣がいかにも自分の側近であるかのように振る舞ったというから、家臣も嬉しかったに違いない。

また、清盛は自分が官位を得て朝廷での発言権を大きくしていったことから、ほかの武家出身者も出世できるように計らっていた。

年上で、官位の昇進が遅れていた源頼政を気の毒に思って、昇進を後押ししたこともあった。

ちなみに「平氏にあらずんば人にあらず」という有名な発言は、清盛ではなく、彼の義弟・時忠のものである。

独裁者たちの人を動かす技術
真山知幸(まやま・ともゆき)
著述家。著作に『ざんねんな偉人伝』『ざんねんな歴史人物』(共に学研)、『ざんねんな名言集』(彩図社)、『君の歳にあの偉人は何を語ったか』(星海社新書)、『不安な心をしずめる名言』(PHP研究所)、『大富豪破天荒伝説Best100』(東京書籍)、監修に『恋する文豪(日本文学編、海外文学編)』(東京書籍)、『文豪聖地さんぽ』(一迅社)など。共著に『歴史感動物語 全12巻』(学研)。 ※画像をクリックするとAmazonに飛びます