故ジャニー喜多川氏の性加害事件で、かつて沈黙を守っていた国内の大手マスコミが一斉に報道を始めた。まるで手のひらを返したような仕打ちに、ネット上では「水に落ちた犬を叩くのか」との批判もある。だが、大手マスコミが長年にわたってこの事件を取り上げなかった背景には、芸能界を支配するジャニーズ事務所への「忖度」だけではない理由があった。

ジャニー氏事件が「スキャンダル」から「人権問題」に

ジャニーズ事務所は1980年代にシブがき隊や少年隊、光GENJIといったアイドルグループのヒットで存在感を高めてはいたが、芸能界に強い影響力を持つようになったのはSMAPが国民的アイドルになった1990年代半ば以降のことだという。

1988年に元フォーリーブスの北公次氏がジャニー氏による性加害を自著の「光GENJIへ」で実名告発したが、大手マスコミは大きく取り上げていない。この時点ではジャニーズ事務所のポジションは「大手芸能事務所の一つ」であり、報道で「忖度」される存在ではなかった。

それにもかかわらず大きく報じられなかった理由は、ジャニー氏の性加害が「芸能スキャンダル(醜聞)」と見られていたことにある。被害者が警察に性加害を訴えて事件が立件されていれば、ニュースとして取り扱われただろうが、それもなかった。「芸能事務所と所属タレントの内輪もめ」と捉えられ、大手新聞やテレビが取り上げるネタではないと判断されたのである。

状況を一変させたのは、2023年3月に英公共放送BBCが制作した「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」だった。同番組でBBCがジャニー氏の性加害事件を「芸能スキャンダル」ではなく、未成年に対する性的虐待という「人権問題」と定義したことが大きい。「人権問題」となれば、大手新聞やテレビ局にとっては優先的に報道すべきテーマとなる。それで大手マスコミが一斉にこの事件を取り上げ始めたわけだ。


「アジェンダ設定」で社会の反応は一気に変わる

こうした現象を「アジェンダ設定(セッティング)」と呼ぶ。社会学者のマクスウェル・マコームズ氏とドナルド・ショー氏によって1972年に提唱された概念で、大衆や政治家の注目する議題(アジェンダ)を設定する影響力がマスコミにあるという考え方だ。

今回の事件では、BBCの番組が日本社会で「人権問題」というアジェンダを設定し、その結果として国内マスコミが一斉に取り上げることになった。これは何もマスコミだけの現象ではない。ジャニー氏の性加害問題は、ジャニーズファンの間でも「噂」として広く知られていた。

しかし、それを理由にした事務所への大規模な抗議活動や、ファンクラブからの大量退会があったわけではない。BBCによる「アジェンダ設定」以前は、ほとんどのファンにとっても「芸能界にありがちなスキャンダルの一つ」に過ぎなかったのだ。

このような「アジェンダ設定」により、一般に広く知られていたスキャンダルが社会的大事件に転換した事例は芸能界に限らない。「星の貸し借り」としてファンの間では周知の事実だった大相撲の八百長問題が、全くの別件だった野球賭博事件の捜査で押収された携帯電話のデータから発覚して一斉に報道。2011年春場所の開催が中止に追い込まれた。

企業でも、かつては当たり前のように横行していたセクシャルハラスメントやパワーハラスメントが、マスコミによる「アジェンダ設定」により社会的に厳しく批判されるようになっている。これまでは問題にならなかったことが、「アジェンダ設定」により突然にして企業を揺るがす大事件に発展しかねない状況も十分にありうる。

危機管理対策の一つとしてアンテナを高くし、「アジェンダ設定」される前に社内で起こっている問題の「火種を消す」必要があるだろう。いつまでも「そんなものだから」と大目に見てもらえるわけではない。社会の見る目は「アジェンダ設定」で一変する。一般企業にとっても、ジャニーズ事件は決して「対岸の火事」ではない。

文:M&A Online