1929年創業の西田精麦は、精米・飼料事業から食品事業へと多角化を進め、2029年の創業100周年、そして2049年には「世界のNISHIDA」となることを目指す老舗企業。四代目社長の西田啓吾氏は、若くして事業を承継し、旧来の経営理念や組織体制に疑問を抱きながらも、ティール組織の概念を取り入れた大胆な改革を断行した。創業家に生まれた葛藤、若くして社長になった苦労、未来を切り拓くための挑戦について聞いた。
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創業から食品事業への多角化
── もうすぐ100周年とのことですが、これまでの歴史について教えてください。
西田氏(以下、敬称略) 当社は1929年に私の曽祖父が創業しました。創業当時から精米と肥料の販売を行っていて、農家さんから米を引き取り、自宅の精米機で精米して農家さんへ渡すという、いわゆるコイン精米機のような事業をしていました。肥料も販売していました。
その後、大麦の加工も始めました。大麦は当時、焼酎や味噌の原料として使われ、特に九州では味噌用が主でした。戦前戦後、米が不足していた時期には、ご飯に混ぜて炊飯する用途で大麦が広く食べられていました。
事業は徐々に拡大し、戦後、私の祖父が二代目社長に就任しました。高度経済成長期には、その波に乗って工場を増設。1965年頃には牛専用の飼料事業を始め、大きな投資をして製造できるようになりました。米の加工も、食品用精米だけでなく、焼酎や味噌などの加工用米の加工も手掛けるようになりました。
最も大きな変化は、工場移転です。もともと熊本県八代市の田舎で創業しましたが、1975年頃に八代港沿いに工場を移転しました。当時の売上が5億円程度の時に、8億円もの投資をして移転したと聞いています。
港沿いに移転したことで、海外の大麦を大量に輸入し、加工・販売できるようになりました。米や芋が主流だった焼酎に、麦焼酎が加わり、特に「いいちこ」や「二階堂」といった銘柄が人気を博し、当社も麦焼酎向けの原料供給で共に成長していったのが1975年以降のことです。
私が2009年に入社したころには、1975年から拡大を続けていた麦焼酎市場がピークアウトし、縮小傾向にありました。長らく右肩上がりの事業が縮小していくという環境下での入社でした。
当時は牛専用の飼料製造と、焼酎や味噌の原料となる醸造用精麦製造という二本柱でした。特に焼酎・味噌の原料供給が主力でしたが、それだけではいけないという危機感がありました。
私が入社したタイミングで、食品事業に力を入れようという話になり、細々と行っていた麦ご飯事業に集中的に取り組むことになりました。このころから食品部門に注力し始めました。
当初は押し麦が主力商品でしたが、不十分と考え、グラノーラを開発したり、スーパー大麦「バーリーマックス」のような特殊な大麦の加工を始めたりしました。最近ではオーツ麦(オートミール)など、大麦以外のさまざまな種類の雑穀を加工し、食品や食品原材料としてお客様に販売しています。
父の言葉で決意した事業承継
── 事業を承継された経緯と、そのときの気持ちを教えてください。
西田 当社は曽祖父が初代、祖父が二代目、父が三代目、私が四代目です。私が生まれたときには曽祖父は他界しており、祖父と父がいました。
祖父からは「お前は長男だから会社を継げ」とずっと言われていましたが、父は「お前はお前の人生、自分の好きなように生きろ」というタイプでした。父自身が自分のやりたいことがあったにもかかわらず、祖父から強く言われて入社したという経緯があったためでしょう。
父の言葉のほうが都合が良かったので、「自分は自分で好きに会社を継ぐかどうか考えずに選んでいいんだな」と受け止め、大学院まで行かせてもらい、大学院の就職活動も面白そうだと思ったベンチャーキャピタルのJAFCOから内定をもらっていました。
内定をもらった後、父と2人で飲みに行って初めて「お前、帰ってくるんだろうな」と言われました。今まで「好きにしていい」と言ってきた父がそう言ったので、驚きました。そこで初めて、承継を意識しました。姉と弟、3人兄弟で相談したのですが、「兄ちゃんが継ぐんでしょ?」という感じでした。それで、承継する前提でいずれ入社することを決めました。
── そのときのお気持ちはいかがでしたか。
西田 そのときは責任感だけでした。JAFCOには入社したのですが、2009年はリーマンショック直後で金融危機がひどい状況でした。そこで学ぶこともあったでしょうが、早く帰って会社のことをやったほうが良いと感じたので、3ヵ月ほどで退職し、帰ってきました。
東京駅のすぐ近くで働いていたのですが、そこから地方の会社に入るということで、すごく“置いていかれた感”があり、「本当にこれで良いのか」という焦りがありました。自分は後継者候補とはいえ若輩者で、中小企業の製造業の中で現場の作業をしたりして、何年かは焦りや置いていかれている感覚が強くありました。
── 社長就任は7年後ですね。
西田 そうです。2009年に(西田精麦に)入社して、社長になったのは2016年です。父は少し変わった人間で、とにかく早く継がせたいと思っていました。私が入社した2009年頃には「あと何年かで俺は社長を辞める。お前の前に一人挟むから、その後お前は継げ」という感覚でした。
私は「間に挟まなくても、しっかり成長するからもう少し待ってほしい」と父に頼み、2016年まで粘ってもらいました。本当は父は2011年ごろには継がせようとしていたのですが、何とか5年間引き止めました。
父は60歳になった年に社長を退任しました。ものづくりが好きで、今でも70歳で個人事業として造船をしています。ずっと自分で船を作りながら会社の経営もする、いわゆるダブルワークのようなことをやっていました。造船を早く本業としてやりたいという思いがあったようです。
「ティール組織」から着想を得た組織改革
── 代替わりされてからはどんな苦労がありましたか?
西田 代替わりした人すべてがぶつかることでしょうが、幹部は年上ばかり、全員が私より社歴も長く、私なりに会社をもっと良くしたいという思いでさまざまなことを発信しても、なかなか幹部を巻き込めなかったですね。先輩幹部と一緒になってやれる力も人間性も、そのころの私にはありませんでした。
その幹部育成、どうやって会社をみんなで一致団結してより良くするかというところで苦労しました。承継して3年ほどはもがき続け、なかなかうまくいかない時期でした。
自分自身も、会社の将来像、経営理念が見えていませんでした。以前の経営理念は「地球的視野に立ち、良いものを安く、創造工夫をし、社会に貢献する」というものでした。この経営理念にも私の中で違和感が芽生えていました。特に「良いものを安く」というのが合言葉のようになっていましたが、良いものを安くという時代ではないと感じていました。
良いものを安く追求した結果、会社の中は効率やコストダウンに意識が行き、無理をする人が出ていたし、みんな一生懸命働いているのに、どこか常に疲弊しているような組織になっていました。この「良いものを安く」という経営理念を変えたいけれど、自分なりに変えるとして、どんな経営理念にするべきなのかという、自分としての新しい理念が見えていなかったのです。
そうした中で、「こういう組織を作りたいな、こういうことを実現したいんだ」というものを見つけて、2019年に経営理念を変えました。自分が「この会社を通じてこういうことを実現したいんだ」というのを明文化し、それを基に会社の経営理念を変えました。
新しい経営理念は「穀物を磨き 未来を創る」、ミッションは「笑顔をあなたの食卓に」です。この経営理念とミッションを2019年に変え、それに沿って社内のルールから組織までガラッと、本当にすべて変えました。
しかし、そこから先も簡単にはいかず、2019年から2022年ぐらいまで、つまり本当に最近まで大変でした。コロナ禍のころまでが、自分の中では一番「変えたはいいものの、本当にこれで良いのだろうか」と自問自答しながら、自分自身の決断したこの理念とミッションを実現するために邁進してきた時期です。それがようやく形というか、成果につながってきたのは2022年以降、ここ3、4年です。
── 役職廃止という思い切った組織改革をされたそうですね。
西田 そうです。2019年に役職の廃止もしました。役職ごとのばらつきをなくし、役職ではなく「役割」に変えたということです。役職には権限や責任のばらつきがありますが、意思決定権と責任の範囲をみんな同じにしたのが、ルールの変更点です。
社長である私も新入社員も同じルールに沿って意思決定をするというルールを決め、全員がこのルールに沿って意思決定をします。責任はその意思決定をしたことによる結果に対して説明をする責任しかありません。説明責任と意思決定権を全員が平等に持つような組織にしました。誰々さんだから決められるとか、社長にうかがいを立てないと決められないということをなくしたんです。
── それは独自のものなのでしょうか、それともアドバイスを受けて作ったのですか。
西田 そのときに『ティール組織──マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(フレデリック・ラルー著、英治出版)という本を読んで、「これが、自分が作りたい組織だ」と思ったんです。最初はそれをイメージして仕組みを考えました。そこから変わってもいるので、今ティール組織と呼べるかどうか分かりませんが、最初のきっかけはその本です。
「世界のNISHIDA」を目指して
── 今後の事業展開や新規投資についての構想はいかがですか?
西田 当社の会社は穀物を加工して食卓につなげるということをしており、「笑顔をあなたの食卓に」というミッションを掲げています。
2029年が創業100周年なので、まず2029年には「日本の西田精麦になろう」ということをみんなに言っています。
「日本の西田精麦」というのは、日本一、当社で言うと大麦という穀物をメインでやっていますが、まず日本でダントツで大麦を加工している会社になろうということ。今が国産大麦の調達量で3番手ぐらいなのですが、それを増やし、もち麦という商品が伸びている中で、国産大麦だったらダントツ日本一の西田精麦だ、という状態を作ります。具体的な目標は、売上100億円、経常利益10億円を2029年に達成することです。
そして、2039年には「アジアのNISHIDA」、2049年には「世界のNISHIDA」になろうというビジョンを掲げています。日本の食卓につながっているという実感を社員が持てるような会社になるのが2029年ですが、その次のステップはアジアの食卓です。
2049年の目標は、世界中の食卓につながっている、世界中の全大陸にパートナーがたくさんいて、みんなで一緒になって食卓の笑顔を作っているチームになっていることです。
今やっているのはその仲間探しです。採用もそうですし、顧客開拓もそうです。内外問わずさまざまな仲間を探しながら、一緒にそういう未来を実現できる会社・チームをつくろうとしています。
中小企業や100年近い企業というのは、積み重なった歴史も分厚く、お客様とのつながりもあって、凝り固まった部分もあるのですが、そんな会社でも本当に変えようと思えば変えられると、実感しています。
自分が変われた一番の要因は、自分自身の働く意味や仕事をする意味において、ぶれない自分の軸ができたことです。そうすると「変えたい」という気持ちをずっと持ち続けることができます。自分自身が「なぜこの仕事をやっているのか、何のためにやっているのか」ということを、自分に深く問いかけることがすごく大事です。
自分自身と対話する時間を大切にして欲しいと強く思っています。
- 氏名
- 西田啓吾(にしだ けいご)
- 社名
- 西田精麦株式会社
- 役職
- 代表取締役社長