村松亮太郎,ネイキッド,クリエイティビティ
(写真=The 21 online/村松亮太郎(ネイキッド代表))

第12回〔株〕ネイキッド代表取締役 村松亮太郎

2012年12月、リニューアルした東京駅の駅舎でプロジェクションマッピングが行なわれ、大きな話題となった。今や各地でプロジェクションマッピングが行なわれ、多くの人たちが楽しんでいるが、そのきっかけとなったイベントと言っていいだろう。

このイベントを手がけたのが、村松亮太郎氏が率いるネイキッドだ。実はプロジェクションマッピングを専門にしているわけではなく、映像制作から地方自治体のコンサルティングまで、幅広い事業を手がけている。俳優出身の異色の起業家である村松氏は、どういう考え方のもとでネイキッドを経営しているのか。お話をうかがった。

できればブレイクはしないほうがいい

――映像やイベントの企画・制作から商品の企画・開発、WEBデザインまで、御社の事業内容は多岐にわたりますが、とくにプロジェクションマッピングが有名です。

村松 2012年に東京駅で『TOKYO HIKARI VISION』というプロジェクションマッピングショーをさせていただきました。それが結果的に、日本でプロジェクションマッピングがブレイクするきっかけになって、当社も世の中から注目されることになりましたから、確かに「プロジェクションマッピングの会社」だと見られることは多いです。

でも実際には、プロジェクションマッピングを手がけるよりもずっと前の1997年に設立した会社で、別に「プロジェクションマッピングの会社」というわけではありません。常に新しいことに取り組んできた中に、たまたまプロジェクションマッピングもあった、ということです。

『TOKYO HIKARI VISION』
『TOKYO HIKARI VISION』

そもそも僕が当社を立ち上げたのは映画を作りたかったからなのですが、最初に手がけたのは、映像をコンピュータで制作して、納品までする、という仕事でした。今では珍しくありませんが、当時は他にやっている会社はありませんでした。「コンピュータで映像を作る」と言うとホラ吹きだと思われた時代です。デスクトップビデオ(コンピュータによる映像編集)を日本で初期にやったのも当社ですし、モーショングラフィックス(グラフィックデザインに動きや音を加えたもの)もいち早く手がけました。

モーショングラフィックスは、映像を自分で作っている中で「面白いな」と思って自然と作るようになったのですが、ちょうどその時期に『セブン』(1995)という米国映画のオープニングをカイル・クーパーという人がモーショングラフィックスを多用して作ったのが注目されていたので、テレビドラマのタイトルバックをモーショングラフィックスで作る仕事が入るようになりました。それでクリエイター向けの雑誌に出たりもしましたから、その頃の業界内では「モーショングラフィックスの会社」として知られていましたね。

会社のスタッフや機材が増えてくると、いよいよ映画を撮り始めました。いきなり長編映画は難しいのでショートフィルムから始めたのですが、当時の日本には『ショートショートフィルムフェスティバル』もなく、ショートフィルムの市場自体がなかった。だから、撮ったものは海外の映画祭に出品していました。それで賞をいただいたりもして、気がつけば日本におけるショートフィルムの先駆けになっていた。

そのあと、フルデジタルで長編映画を撮ることになります。ソニーの技術者と話しあいながら、『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』(2002)にも使われた『CineAlta』というカメラを使いました。これを映画撮影で使ったのも日本で一番早かったんじゃないでしょうか。撮影も編集も仕上げもフルデジタルでやったのも、多分、我々が最初だと思います。

こういった具合で、世の中のトレンドが変化する中で、我々は常に新しいことをしてきました。その一つがプロジェクションマッピングだった、というだけのことです。

ただ、『TOKYO HIKARI VISION』で注目を浴びたことは、当社にとって大きな転機ではありました。それまでは「サブマリン戦法」だったと冗談で言っているのですが、これによって世の中に見つかってしまったからです(笑)。

当社はずっとブレイクしないようにしてきたんです。会社が有名になるメリットは、仕事が来るようになることですよね。ということは、仕事が来ているならブレイクする必要はない。確実な技術で、常に新しいものを提供していれば、仕事は来ます。

むしろ、ブレイクすることのデメリットのほうが大きいと思います。僕は役者としてキャリアを始めたのですが、役者でブレイクできる人はごくわずか。朝ドラのオーディションなら、選ばれるのは1万人に1人だったりする。そのすごい競争率を勝ち抜いてブレイクしても、20~30年後も活躍し続けられている役者がどれだけいるか。割合からすれば、ほとんど皆無と言っていいくらいですよ。クリエイターも、表現者という意味では役者と同じです。僕も、そして社員たちも、20~30年後もクリエイターとして続けていくためには、緩やかな成長軌道に乗りながらも、ブレイクしないほうがいいんです。ブレイクすると、下手をすると一発屋だと思われてしまいかねない。

『TOKYO HIKARI VISION』で注目されたことは、いきなりNHK大河ドラマの主役に抜擢されたようなものです。このままでは「プロジェクションマッピングの一発屋」だと思われてしまうので、これまでの「サブマリン戦法」からフェイズを変えて、広報活動に力を入れ、我々の活動をきちんと伝えるようにしています。