尻尾をどんどん切って、生え変わらせてゆく
――日本で誰もやっていなかった事業で起業されたということは、苦労も多かったと思います。創業の経緯を詳しくお教えください。
村松 先ほどお話ししたように、僕は映画が好きで、自分で映画を作りたかったというのがスタートです。もとは役者をやっていましたが、当時はトレンディドラマが流行していましたから、事務所はトレンディドラマに出そうとするわけです。でも僕は渋い映画が好きで、ショーン・ペンみたいになりたかった。それで事務所と喧嘩をして、4回も事務所を辞めています。
役者というのは基本的に待つ仕事なのですが、僕が出たいような映画がそもそもあまりありませんでしたから、待っていても声がかかることがない。有名になれば声がかかるのかもしれませんが、有名になることに興味はありませんでした。そうして気がついたら25歳くらいになっていて、「こうなったら自分が良いと思う映画を自分で作って世の中に提示するしかない」と思い、映画の編集所の方に、編集所を作るのにいくらかかるのか聞いてみたのです。そうしたら「3億円」と言われてしまった。
ところが、ちょうどその頃に低価格のデジタルビデオカメラが登場してきて、米国ではコンピュータで映像の編集をしているらしいという話も聞いたんです。「このカメラとコンピュータなら3億円はかからないんじゃないか」と思って、独学で勉強を始めました。30数万円のデジタルビデオカメラでも、当時の僕には大金でしたけれども(笑)。
一人で映像を作れるようになると、興味を持ってくれた3人が集まって、メンバーが4人になりました。映像ディレクターと、CGを作る人と、ライターや誌面のデザインをしていた人です。それから、映像を作るならADがいるということで、仕事は何も決まっていないのに募集をかけました。理念だけを書いて、給料などの条件はすべて「応相談」です。それを見て、「ここしかない!」とやってきたのが、約19年間、アートディレクターとして僕の右腕になってくれている小林恵美。雇用するというより、「考え方とやり方に賛同してくれるなら、ネイキッドというプロジェクトに参加してほしい」という感じですね。
――小林さんが見た募集要項には、どんな理念が書いてあったのですか?
村松 今とほとんど変わっていません。今は「Core Creative」「Total Creation」「Borderless Creativity」の三つを掲げているのですが、当時は「Borderless Creativity(国境やメディアなどの垣根を越える)」はあまり言っていなかったかな。Core(メッセージの核)が大事で、提供するサービスはTotal Creationするというのは同じです。
たとえば、最初にテレビドラマの仕事をさせていただいたときには、まずタイトルのロゴをデザインして、次に台本をデザインしました。それから、タイトルバックの映像を作ったり、本編の中のCGを作ったりした。これらを我々が、一つの世界観のもとで、すべて手がけました。これがTotal Creationということです。それまでは、デザイン、映像、CGなどのそれぞれの担当者が別だったので、プロデューサーの伝えたい世界観が統一感を持って表現できなかったのです。
――テレビ局の仕事が入るようになったのは、何かきっかけがあったのでしょうか?
村松 いきなり電話をかけたんです。すごく泥臭いですよ。会社名の「ネイキッド」そのもので、裸一貫です(笑)。
――社名にはそういう意味が?
村松 何も飾らずに素でやる、ということですね。僕は経営を学んだことがありませんから、人として正しいことをすることしかできません。人として正しいことを基準にしていれば、おかしいことにはならないはずだ、という非常にシンプルな考え方でやっています。
――御社が伸びてくるのを見て、他社が真似をすることはなかったのでしょうか?
村松 それはあります。組織のあり方も、当社のように、いろいろなジャンルのクリエイターをインハウスで抱える会社が珍しくなくなりました。最近はそれが理想形のように言われるようにもなりましたね。
それでも他社と違っている強みは、「変化し続ける」ということでしょうか。当社の最初のロゴマークはトカゲの尻尾だったんです。尻尾を切れる会社でいたい、という想いからです。トカゲの尻尾は、本体さえ変わらなければ、いくら切っても生えてきます。我々も、理念だけは変えず、それを表現する手段や手法は、後生大事に守らずにどんどん変えていこう、ということです。クリエイティブは時代によって変わりますから、それに抵抗なく適応していくことが大切。
当社が変化し続けるわけですから、競合と呼ばれる会社も変わり続けています。当社はさまざまな事業をしていますが、その時々のトレンドによって注目される部分があって、それに対して世の中が「競合」と見なす他社がある。しかし、その中には、トレンドとともに現われて、トレンドとともに消えていく会社が多いんです。また、ある面では競合していても、別の面では共存している会社も多い。ですから、あまり競合を意識することはありません。
――転機となった『TOKYO HIKARI VISION』は、どのような経緯で手がけることになったのでしょうか?
村松 普通にコンペに参加して、いただけた仕事です。完全に通常の仕事の一環でした。
そもそも、最初は駅舎にプロジェクションマッピングをするという企画ではなかったんです。毎年、『東京ミチテラス』という東京駅前の通りで行なわれるイベントがあって、「今年は何をやろうか」というコンペでした。ちょうど駅舎のリニューアルがあったので、あとから駅舎を使う案に変えました。
プロジェクションマッピング自体、一度、ミュージックビデオで実験的に使ったことはありましたが、本格的なものは『TOKYO HIKARI VISION』が初作品です。
――その後も数々のプロジェクションマッピングの作品を発表されていますね。
村松 プロジェクションマッピングのすごいところは、四角い枠の外に出られるということです。映画もモーショングラフィックスも、従来の映像は全部、四角い枠の中で展開されていました。
今は、枠から解放された映像で何ができるのかを、多岐にわたって追求しているところです。2013年には、東京国立博物館で『洛中洛外図屏風』の世界がリアルな空間で躍動するプロジェクションマッピングをしました。
2014年には、ガンダムの立像の3Dプロジェクションマッピングをしたり、バンダイと『ハコビジョン』という食玩を作ったり、新江ノ島水族館の『ナイトアクアリウム』を手がけたりしました。
このようにリアルな空間に世界を作り出すことを「空間演出」と呼んだりしますが、僕の場合は「空間」を物理的な意味でのスペースだとは捉えていません。『TOKYO HIKARI VISION』でも、東京駅はただの投影の対象にはしませんでした。東京駅が持つストーリーや世界観を映像とかけあわせたショーを上演したのです。今では一般化していますが、それ以前のプロジェクションマッピングはただグラフィックが動くだけのものが主流で、ストーリーや世界観を持ったショーは亜流でした。
――御社が制作する作品には、すべて村松代表が関わっているのですか?
村松 すべてではありませんが、総合監修という形で関わることが多いですね。とくに大きな案件については、企画はほぼ僕です。会社が大きくなってくると経営者はマネジメントに専念して社員に任せるというケースが多いですが、当社ではあり得ませんね。僕自身がクリエイターでもあるので。