遠いフィンランドで見た、忘れられない光景とは
1989年、夜空にすっくと浮かび立った東京タワーは日本中を魅了した。その照明デザインを手がけ、人気に陰りが差していた東京タワーを再びランドマーク的存在へ押し上げたのが、世界的照明デザイナーの石井幹子氏だ。戦後、日本の照明デザインの草分けとして道なき道を切り開き、世界各地の人を感動させてきた石井氏に、人生の転機となった出来事についてうかがった。
工業デザイナーに憧れていた私は、芸大卒業後、アルバイト先でもあったデザイン事務所に入社しました。
当時はデザインの勃興期で、インテリアや家電、ブランドロゴなど、新人にも多様な仕事をどんどん任せてもらえ、面白く働いていました。
そんなある日、照明器具をデザインする仕事が回ってきました。試作品が完成し、自分がデザインした照明器具のスイッチを入れ、光が灯るのを見た瞬間、私は光のとりこになったのです。
もっと光の勉強がしたいと、その方法を探していたとき、『スカンジナビアン・ドメスティック・デザイン(北欧家庭のデザイン)』という分厚い本の中に、未来の恩師の名前を見つけました。
遠いフィンランドで活躍されていた照明器具デザイナー、リーサ・ヨハンソン・パッペ氏に、「アシスタントにしてください」と手紙を書き、手製の作品集と一緒に送付。幸運にも返事を得た私は、1965年9月、ヘルシンキの「ストックマン・オルノ社」の門をくぐりました。横浜を出航しモスクワ経由、陸路と海路の旅でした。
単身渡ったフィンランドで初出社したこの日、新しい職場で目にした光景が、その後の私の日々の支えとなるとは、当時は予想もしませんでした。
私はただただ、「たくさんの女性が普通に働く職場」に圧倒されたのです。
そこには、パッペ先生を筆頭に、仕事とプライベートを両立するたくさんの女性たちがいました。
当時の日本では、女性が働くことすら稀で、仮に仕事をするなら独身は確定事項。結婚すれば仕事は引退。そのどちらかでした。そのような日本からやってきた私は、「こんな世界があるのか」と目をみはりつつ、彼女たちと楽しく働きました。
フィンランドで多くの学びを得た私は、今度はドイツへ渡ることを決心。
当時のドイツは日本と同様、男性優位社会でしたが、今では首相も女性です。ドイツのあとは日本に帰国して仕事を続けましたが、私が女性であるがゆえ、いろいろと理不尽な目にも遭いました。
仕事の打ち合わせで企業に電話をかけたり訪問したりすれば、「私用ですか?」と必ず聞かれたものです。私を抜擢してくださった建築家の先生(男性)が、冷やかされるようなこともありました。大阪万博や東京タワーなど、大きな仕事を請け負えど、状況はそうそう変わりません。
それでも私は、自分の国、この日本で、照明デザインをやりたいと思いました。
当時の日本のクラフトマン・シップ溢れるものづくりの環境に夢中だったこともありますが、頭のどこかにいつも、「日本もいつかはフィンランドのようになるはずだ」との思いがあったのです。
「世界には、今いる場所とまったく異なる場所がある」
そのことを知る経験は、勇気を与えてくれます。日本にない価値観や仕事が海外で見つかるという経験は、数知れず。若い人は最低1年間、海外で暮らしてみてほしいと思います。
世界の広さを知ることで、心に希望と余裕を持てたからこそ、私は何があっても理想を捨てず、邁進してこられたのです。
石井幹子(いしい・もとこ)照明デザイナー
東京都生まれ。照明デザイナー。東京芸術大学卒業後、フィンランド、ドイツの照明設計事務所に勤務。帰国後、石井幹子デザイン事務所を設立。東京タワー、東京港レインボーブリッジ、白川郷合掌造り集落をはじめ、国内外で多くの作品を手がけ、受賞多数。2000年、紫綬褒章受章。新しい光素材や自然エネルギーの利用など、常に最先端の技術を駆使し、新たな光の可能性を模索している。(『
The 21 online
』2017年8月号より)
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