DXの進み具合や取り組み姿勢は、産業や業界の特性によってさまざまです。比較的、動きが緩やかだった塗料業界において高いシェアを誇る日本ペイントホールディングスグループ(以下、日本ペイント)は近年、既存事業の成長とM&Aの両輪により、飽くなき成長を追求するユニークなグローバル企業です。それと並行して、CIO(最高情報責任者)にリコーでの豊富な経験を持つ石野普之氏を招き、変革を進めています。
業界の再編を積極的に仕掛けていく同社の動きに、デジタルはどのようにかかわっているのでしょうか。Koto Online編集長の田口紀成氏が、特別インタビューとして、常務執行役員 日本グループCIOの石野氏にお話を伺いました。
常務執行役員 日本グループCIO
1984年株式会社リコー入社。R&Dのソフトウェア開発に従事。2000年よりアメリカの統括販社に赴任し、ITガバナンスやERPプロジェクトの責任者を歴任。2009年帰国、2012年よりグローバルITの責任者を7年間務める。その間、リコーITソリューションズ株式会社代表取締役社長執行役員も兼務。2021年日本ペイントホールディングス株式会社 常務執行役員CIO就任。2022年より現職。
2002年、株式会社インクス入社。3D CAD/CAMシステム、自律型エージェントシステムの開発などに従事。
2009年に株式会社コアコンセプト・テクノロジー(CCT)の設立メンバーとして参画後、IoT/AIプラットフォーム「Orizuru」の企画・開発等、DXに関して幅広い開発業務を牽引。2014年より理化学研究所客員研究員に就任、有機ELデバイスの製造システムの開発及び金属加工のIoTについて研究を開始。2015年にCCT取締役CTOに就任。先端システムの企画・開発に従事しつつ、デジタルマーケティング組織の管掌を行う。
2023年にKoto Onlineを立ち上げ編集長に就任。現在は製造業界におけるスマートファクトリー化・エネルギー化を支援する一方で、モノづくりDXにおける日本の社会課題に対して情報価値の提供でアプローチすべくエバンジェリスト活動を開始している。
目次
DXという表現は暫し封印
田口氏(以下、敬称略) まずは、石野さんの現在の業務内容をお聞かせいただけますか。
石野氏(以下、敬称略) 常務CIOとして、ITの戦略全般に責任を持っています。IT部門の部門長も兼務をしておりますので、オペレーションも私の担当です。ERP導入のプロジェクトや生成AIの活用のほか、事業継続型コストの効率化や、会社の大事な経営資産であるドキュメントをマネジメントし活用を推進する仕組みやRPAによる市民開発など社員のデジタルリテラシー向上も推進しています。
田口 リコーで38年勤務された後に、現職に転身されたそうですね。
石野 はい。1984年にリコーに新卒で入社以来38年間、ほとんどIT畑におりました。途中で9年ほど米国現地法人に出向しており、ITガバナンスの責任者やERPによる会社とシステムの統合のプロジェクトリーダーも務めました。帰国後にグローバルのIT責任者として7年、ソフトウェアエンジニアリング子会社の社長を5年。リコーでの自分の役割はひと通り果たしたという思いがあったのと、部下たちが十分育っており自分がいなくても皆がしっかりやっていくだろうと考え、自分は新たなチャレンジをしたいと思ったのがきっかけでした。
ITへの取り組みがまだまだの会社で、自分がどこまで会社に貢献できるのか挑戦してみたくなり、当時のリコーの社長には無理を言って転職しました。日本ペイントには2021年の入社です。そのときにキャッチフレーズを作りました。「ITが変わる。ITが変える」ということを心に持って、入社しました。
田口 ご自身のキャッチフレーズですね。どのような意味が込められているのでしょうか。
石野 DXについては昨今、耳にしない日はありませんが、社員のデジタルリテラシーが高くないと、IT部門がいくらしゃかりきになっても会社にデジタルで変革を起こすのは非常に難しいのです。ITはあくまでイネーブラーであり、まず何を変革したいかという想いがなければ上手くいきません。ましてや「ITに任せておけばいいや」という発想では変革は起きません。
そのため、いかにして会社全体のデジタルリテラシーを高めて、最終的にDXを発現させることができるのかが、私の転職の究極のテーマです。そのためにもまずは、IT部門を変えビジネスのパートナーとなって信頼され頼りにされる実力を付けることを目指しました。それが「ITが変わる」という意味です。IT部門そのもののバリューやミッション定義を、全くゼロから作り直しました。そして次の段階においてITを活用して会社を変えていこうということが、キャッチフレーズで示している考え方です。
田口 御社に現時点で2年半いらっしゃるということですが、組織をこれまでご覧になってきて、現在地はどのあたりにあるとお考えでしょうか。2023年版の統合報告書を拝見しましたが、デジタルに関連する表現があまり出ていないという印象を受けました。DXについて、あえて意図して使っていないのでは?
石野 田口さんのおっしゃる通りです。実は入社後デジタルトランスフォーメーションという言葉を封印したのです。弊社はデジタルレディネス*においてまだまだの状態でした。一般的に見ても、DXという言葉が間違って使われたり、誤って理解されたりしていることがとても多いですよね。DXはあくまでも「トランスフォーメーション」(変革)をデジタルで実現することなのに、ITツールを使えばDXなのだという勘違いが非常に多いと感じていました。そこでまずは、DXという言葉を封印して、デジタルレディネスをしっかり高めていこうと決めて、結果、事業戦略からもその文字が消えました。
* デジタルレディネス:デジタルに関する知識や技術を身につけるなどして、DXに取り組みながら環境の変化に対応していく準備ができていること。
今は、IT部門のパフォーマンスも部下たちが頑張ってくれたおかげで、他社様と比べてもまずまずの及第点がつくレベルになりました。私は入社した時に、「1年で『普通の』会社のIT部門になります。3年でベストインクラス(その分野で最高)になります」と、かなりの大風呂敷を広げましたが、とりあえず今はまあまあ悪くないかなという状態までは、行っているのではないかと思っています。
プロパー社員とキャリア採用の融合で、「三方よし」のシステムを実現
田口 では、いい感じで進んでいるのですね。
石野 まずは、ほぼ想定通りということかと思っています。一般社員に対してもRPAによるシチズンデベロッパープログラム(市民開発)を推進していますが、徐々に使いこなせるメンバーが増えてきており、四半期ごとの事例発表会が開催できるまでになりました。また、生成AIについても思った以上に食いつきが良く、ユニークユーザー数も使用回数も昨年のリリース以来右肩上がりで、これまたプロンプトエンジニアリング勉強会とか、事例共有会、ボランティアによるコミュニティなど今までと全く違ったムーブメントが起きています。これらを通して、一般社員のデジタルリテラシーが徐々に高まっていきつつあるという手ごたえを感じています。
田口 IT組織では、もとから中にいた方たちを変えていったのか、それともキャリア採用をされたのでしょうか。
石野 半分くらいはキャリア採用です。私も含めて。ただ、キャリア採用の人は一般的に技術を持ってプライドとキャリアイメージを持って入社してくるので、その人たちだけでは組織を作るのは容易ではないと思っています。むしろ、プロパー社員のレベルアップと、キャリアの人たちの技術領域をうまく組み合わせ、融合させた組織を作っていくのが、私の基本的なポリシーです。
田口 御社は最近、業界初のオンライン発注システム「GOOD JOB システム」を構築されました。実現にあたり、どのような工夫をされたのでしょうか。
石野 弊社製品には、大きく分けて汎用塗料と工業用塗料があります。工業用塗料は船舶向けや自動車用など、それぞれの用途に応じた特殊な技術を用いた製品です。これに対して汎用塗料は、最終的には施工店さんや車の修理をするオートリペアショップさんなどに卸しています。従って最終ユーザーの数は数万に上るのですが、我々の取引は基本的にディーラーさん、問屋さんを経て販売しており、日本のトラディショナルなフローで、最終ユーザーとは弊社は直接つながっていませんでした。
GOOD JOBシステムは、最終ユーザーに直接つながるシステムです。オンライン上でさまざまな情報が提供されたり、在庫や発注が実施できますので効率が大幅に向上します。ただし、あくまでも商流は問屋さんに残したままの仕組みとすることで、問屋さんにも安心いただくように工夫しました。これは、ビジネスのプロセスやモデルを変える業界初の試みですが、最終ユーザーさんにも問屋さんにもメリットがある形を工夫しプロモーションをしています。もちろん、施工店さんの中には「俺はシステム難しくて使えないんだよ」という方もいらっしゃるので、一気に広がっているわけではないのですが、ユーザーの声に耳を傾けながらシステムの操作性の改善と価値向上を日々行うことで、ご理解をいただきながら広げている最中です。
田口 在庫を見ながら注文ができて、手入力が無くなるなど、関係者の皆さんにとっても利益があるということですね。
石野 そうですね。「三方よし」のシステムとして企画しています。それまでのビジネスの仕方を変えるときには、どこかのバランスを崩して一方を良くするというのは、絶対受け入れられませんよね。誤解がもとで納得されないだけなら、何度も何度も丁寧に説明することで乗り越えられますが、バランスを崩すようでは影響を受ける人たちがいます。三方よし、もしくはWin-Winな状態をどうやって作るのかは常に、我々としては考えなければならないことだと思っています。そういったことを弊社のビジネス担当のメンバーが中心になって一生懸命考えてくれて、ユーザーの声を聞きながらシステム構築も進められるようになっています。
活発なM&Aで業界再編が急速に進行中 システム統合は「割り切り」で
田口 現在、御社が活発にM&Aを進めている背景について、お聞かせ願えますか。
石野 塗料の業界は伝統的に、「地産地消」と言われています。その国ごとに原材料を購入してその国で生産をし、販売をするという非常にシンプルなビジネスモデルで成り立っていたので、グローバル規模でサプライチェーンをガリガリに構築する必要はないのですね。一方でこの数年間は、急激に資本を持ったグローバル企業を中心に業界再編が起きています。
各国に地場のメーカーさんがおり、その上位企業はその国のマーケットを安定的に押えていました。しかし弊社を含めたグローバルの資金力を持ったベンダーが世界でどんどん自分の領域を広げようと、M&Aを積極的に進めるようになりました。弊社の経営モデル「アセット・アセンブラー」はグループ各社が「自律・分散型経営」のもと、既存事業の成長とM&Aの両輪により、飽くなき成長を追求するモデルです。対象の市場のトップシェアをとりドミナントになっていくことで、価格コントロールもしやすくなりますので、非常に明解な戦略です。したがってスピードは大切であり、この業界の一番難しいところであり、一番ダイナミックなところでもありますね。
さらに弊社の取締役の約半分は海外の方で占められています。とにかく我々は本当のグローバル企業に成りたいし、成らないといけないわけですが、グローバル企業としてのスピードや価値観は従来の日本的経営とは大分趣が違うので、戸惑う人も少なからずいるのは事実だと思います。
田口 M&Aがどんどん進むとなると、システムとしては一つの巨大なものを作り上げるという感じになりますから、IT面で付いていくのは相当難しくなりそうですが。
石野 M&Aを最優先させているので、システムの統合は後でいいとの割り切りがトップにあります。システムを統合して最適化するというのはある意味、成熟してきて効率化を上げるためなのですね。今はそれよりも、パイを増やすというところに焦点を絞っています。人材もお金もまずそこに投資をしていき、素早く事業を展開したほうが有利だとの考え方です。新しく買った会社の中には、ネットワークさえつながなくていいというケースもあります。経営の割り切りは学ぶべきことが多いです。
田口 今はパートナー企業とプロジェクトを進めている状態だと思いますが、プロパーの方の役割や仕事の進め方は、どうのようになっているのでしょうか。
石野 実は今まで、基幹システムは手組みのシステムで動いていたのですが、本当に真っさらな状態からERPプロジェクトを始動しました。IT部門メンバーもその中にキーメンバーとして入っていますが、ERPプロジェクトの主役はあくまでビジネスであり、ITはそれを支える役であると認識しています。 田口 ERP導入に関わる方たちが、現場の業務をどう変えていくかという部分を担うことになると思います。きっと大変なのだろうと想像しますが、現時点で難しさは現れているのでしょうか。
石野 自分たちの慣れ親しんだ仕事の仕方やルールを変えてでもERPの標準に合わせるということは、口で言うほど容易いことではありませんが、皆それにチャレンジしてくれています。Fit to Standard*と言われる考え方ですが、これは日本人にとって大変な苦痛なのですね。何故なら日本では現場がしっかりと日々改善を考えて、現場が使いやすいようにシステムのカスタマイズを重ねるということをずっとやってきているからです。ところが現場の人は自分の目の前の仕事は最適化できるのですが、全社的なプロセス最適化は難しい。本来はプロセス全体を最適化することのほうが、大きな効果が出るわけですが、日本の場合は、現場の強さがそもそも企業の強みだったので、個別最適が進んでいる状態です。したがって、ERPの標準に合わせようとするとどうしても軋轢が起きるわけです。
* Fit to Standard:製品が提供する標準の機能を最大限活用すべく、プロセスに合わせて自社の業務を変更するという考え方。ERP導入において重視される。
ERPは現場の小さい効率化を目指すのではなくて全体最適を目指し、経営のための情報を提供するツールなのです。
デジタルのスキル・経験と共に、「プロフェッショナルCIO/CDO」に求められることは?
田口 仕事をドラスティックに変えていく段階では、現場の方にとっては受入れがたいことも多いでのではないですか。
石野 このように弊社のメンバーにとってはパラダイムシフトが起きるわけですが、弊社の共同社長ウィー・シューキムが、「Standardize(標準化)」「Simplified(簡素化)」といつも強調してくれていますので、ブレはないですね。トップダウンでこの発想は全体に展開されていますが、一方でトップダウンが強すぎると現場は委縮しがちです。したがって、現場のアカウンタビリティーを維持するのも、もう一つの私の重要な仕事だと思っています。
田口 ITのあり方で、参考にしている企業の例があれば教えていただけますか。
石野 非常に難しいところですね。私はまったく対極にあるリコーでITを長くやった後だけに、違いを興味深く感じていますが、そのまま参考になる例も少なくて困っています。お陰様で、多くのCIO仲間がおり、彼らの誰かに会わない週はほとんどないぐらいなので、彼らに良くベンチマークさせてもらっています。会社ごとにシチュエーションが違うので、悩みのことも含めて勉強になりますし、刺激も受けています。「えっ? おたくはそんなことをされているんですか」みたいな会話をしながらですね。 自社にこもっていたらタコ壺状態になってしまいますが、ITの革新スピードは加速していますので、外での情報収集は常に怠るわけにはいきません。
CIO仲間でよく話題になるのは、日本のモデルを海外にそのまま展開するのは難しいということ。どう見ても、オーバースペックなのです。日本のお客様の要求は非常に高いので、現場の人がいろいろと工夫をしてくれて、その分だけいろいろ細かいシステムやオペレーションがあるという状態。でも、日本の良さの一面がここにあるとも言えるので、非常に悩むところですね。実は弊社でもそれが足かせになって、利益の出方が日本だけあまり良くないという指摘を受けていますので、命題としては日本の利益率をどう上げるのか。このことはおそらく、ほとんどの日本企業において言えることかと思います。
田口 CIO仲間の皆さんとの集まりが、御社でのシステム構築を通して業務を変えていくことに生きているのですね。
石野 いわば、「プロフェッショナルCIO/CDO」ですかね。多くの「プロフェッショナルCIO/CDO」は会社を変えていくために請われて来ていますから、皆がそれぞれに悩み苦しみ、チャレンジしているので、勉強になりますし勇気を貰えます。CIOやCDOさえやって来れば会社がトランスフォームされるかというとそんなことはなく、会社の幹部が会社に従来からある根本的な悩みがあって、しかしこれを解決したいのだということを認識して、初めて動き出すのだと思うのです。さまざまな経営課題に直面する中で、デジタルでトランスフォームを進められるスキルを持った人が仲間に入って化学反応を起こすということであり、その役割を担っているのだと思います。
それから、長らくオペレーションをやってきた組織では、守りの姿勢になりがちです。この場合、CDOが何と言おうがやはり動かしづらく、かといってトランスフォーメーションに関わる人材を全部外から集めてきても、プロパー社員との間に乖離が生じるでしょう。外からやって来た人だけではできないし、中の人だけでもできない。これを融合させるのも、リーダーとしての役割ではないかと考えています。
田口 組織と人を動かすこととコミュニケーションですね。
石野 そうだと思います。
田口 そうしますと、そろそろ「DX」という表現は御社でも解禁になるのでしょうか。
石野 それは秘密です。次の統合報告書をご覧いただければ(笑)。
田口 同じようにキャリアを積まれている方に、メッセージをいただけませんか。
石野 常に若い頃から思っていることがあります。「常にチャンスだと思え」ということです。常に自分の背中のスイッチを押し続けること。プロフェッショナルCIO/CDOは、これからもっと増えるのではないでしょうか。経営の一部でもあるので、経験を複数社で積んでいくのが有利だと思います。私はようやく2社目ですけれど。
成功するときは、自分の周りの人たちがいてくれて初めて成功するのですが、人はついつい、成功は自分がやったからうまくいったのだという風に勘違いしがちです。しかし知った部下もまったくいない違った環境で、果たしてゼロから自分がどこまでできるかというチャレンジをしてみたい。私が今、ここにいる理由です。なかなか苦労はしていますけれど、楽しい苦労です。
田口 貴重なお話をありがとうございました。
【関連リンク】
日本ペイントホールディングス株式会社 https://www.nipponpaint-holdings.com/
株式会社コアコンセプト・テクノロジー https://www.cct-inc.co.jp/
(提供:Koto Online)