この記事は2024年6月9日に「第一生命経済研究所」で公開された「再考トラスショック」を一部編集し、転載したものです。

はじめに
2022年9月、英国ではトラス新政権誕生に伴い大規模な財政出動方針が打ち出されたことをきっかけに、金利上昇(国債価格下落)、通貨安、株安のトリプル安が同時に進行するいわゆる英国売りにより、金融市場が混乱した。
一方、日本では7月の参院選に向けて減税議論が盛り上がったことをきっかけに、日本も大規模な財政出動を打ち出せば、トリプル安を招く懸念があると一部の識者の間で指摘されている。
そこで本稿では、当時の英国経済を振り返り、日本でもトラスショック的な状況になる可能性が高いのかを検証する。
最大の違いはインフレ率とGDPギャップ
そもそも、財務省HPにある「外国格付け会社宛意見書要旨」に基づけば「日・米など先進国の自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない」とされている。背景には、日本や英米の政府は家計や企業と違って中央銀行が通貨発行権を持ち、自国通貨を発行することで債務を返済できることがある。ただし、政府が支出を野放図に拡大すると、いずれ需要超過となって高インフレとなる。そうなると、政府はインフレ率が行きすぎないようにするために財政支出を抑制しなければならず、中央銀行も金融を引き締めなければならない。つまり、政府の財政支出の制約となるのはインフレ率である。
そこで、トラスショック時における主要先進国のCPI伸び率を振り返ると、2022年9月時点で英国のインフレ率は前年比+10.1%に到達していたことがわかる(図表1)。このため、当時の英国のように、インフレ率が目標の+2%の5倍を超えてしまっていた状況では、財政出動が限界にきていたといえよう。

一方、現状の日本の場合はインフレ率が+3%台とそこまで上がっていない。インフレ率の半分以上を食料品価格上昇で説明できるコストプッシュ型のインフレにより物価目標+2%を超えているが、足元のペースで食料品のインフレが続く可能性が低いことからすれば、持続性は低い。
このように、トラスショック時の英国と現状の日本におけるインフレ率格差の一因として、当時の英国では需要超過の経済になっていたのに対し、日本は依然として需要不足の経済状況になっていることがある。このため、財政の予算制約を考える上では、表面上のインフレ率に加えて、GDPギャップの動向も重要になってこよう。というのも、実際のインフレが行き過ぎているかどうかを見る上で、コストプッシュ型のインフレが捨象される上、実際のインフレ率よりも先行して動く性質があるためである。
事実、国際比較可能なIMFのGDPギャップで比較すると、トラスショックが起きた英国では2022年時点で需要超過によりインフレ率が加速していた一方、日本では2025年見通しで需要不足となっている(図表2)。

相対的に財政リスクが低い日本
以上みた通り、当時の英国と現状の日本で財政リスクが大きく異なることは、市場も織り込み済みである。というのも、直近のクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)でみたG7国債の5年以内のデフォルト確率を比較すると、日本は0.3%台とG7諸国中ドイツ・イギリスに次いで低いのに対し、トラスショック時の英国では0.7%台と当時の日本の2倍以上の水準に達して、イタリアに次いで二番目に高かったことからも明らかである(図表3)。

このように日本のデフォルト確率が低いのは、日本国債に対する信認が高いからといえよう。これは、各国国債の信認を左右するとされる4つの指標について国際比較をするとその理由がわかる。具体的には、G7におけるトラスショック前の2021年時点での「政府純債務/GDP」「経常収支/GDP」「対外純資産/GDP」「政府対外債務比率(=政府対外債務/政府債務)」の四指標をリスクの度合いで比較した。 結果は、当時の英国は、政府純債務/GDPと政府対外債務比率はG7中3番目に低かったものの、基軸通貨国米国に次ぐ経常赤字/GDPが大きい国であった上、米国とフランスに次ぐ対外純債務/GDPが高い国であった。 一方の日本は政府純債務/GDPでは最もリスクが高かったが、それ以外の3指標で見れば、対外純資産/GDPと政府対外債務比率が断トツ一位、経常収支がドイツに次いで2位と圧倒的にリスクが低く、相対的に財政リスクが高い国ではなかったということになる。 なお2024年時点の日本を振り返ると、政府純債務/GDPは大幅に低下しており、対外純資産はドイツに抜かれたものの、経常収支/GDPも過去最高を更新している。 このように総合的に考えれば、そもそもトラスショック時の英国のように基軸通貨国でもなく対外純債務・経常赤字国が需給ひっ迫でインフレ率が加速する中で財政支出を拡大しすぎれば、財政リスクが高まるのは当然の帰結といえよう。

日本の財政健全化に必要なこと
こうした中、日本政府はこれまで財政健全化目標として、2025年プライマリー・バランス(以下、PB)の黒字化と債務残高対GDP比の安定的引き下げを掲げてきた。しかし、コロナショック前までは財政リスクが最も高いイタリアがPB黒字だったことや、海外の主流派経済学者や米財務省が財政健全性を図る指標の重要性を『政府債務残高/GDP』から『政府純利払い費(*1)/GDP』にシフトしつつあること等からすれば、日本の財政健全化目標も国際標準に近づけていくことが必要だろう。 なお、G7諸国の『政府純利払い費/GDP』を比較すると、OECDの2024年見通しベースで日本は最低水準である。一方、トラスショックが起きた2022年時点の英国は最高水準にあり、先日国債の格下げがあった米国では2024年時点で最高水準にある(図表5)。
*1:政府の財政支出の中で国債等の借入金に対する利息支払い額から、利息収入や中央銀行保有分の還付金を差し引いた実質的な利払い費用

ただ、単純に財政健全化目標を緩めすぎることで、今回の米国のように国債の格下げが起きれば影響は無視できないだろう。しかしながら、ガラパゴス化した日本の財政健全化目標が、財政金融政策や経済の正常化を進める上での支障となってはならない。 実は、PBとGDPギャップの連動性は高く、経済が正常化すれば自ずと財政も健全化するといった関係がある(図表6)。実際、1990年代後半以降のPB(対GDP比)と内閣府版GDPギャップの関係を見ると、非常に連動性が高いことがわかる。しかし、2022年以降はGDPギャップ対比でPBが改善しすぎている。この背景には、ロシアのウクライナ侵攻に伴う40年ぶりの世界的なインフレが影響していることが推察される。つまり、日本ではインフレに伴う税収調整が不十分であり、GDPギャップ対比で財政を引き締めすぎている可能性が示唆される。 このため、PB黒字化目標の達成を見据える上では、当面GDPギャップの改善ペースにも十分配慮し、財政健全化目標を柔軟化することも検討に値しよう。トラスショック時の英国を振り返れば、GDPギャップが大幅プラスになる中で、インフレが行き過ぎる状態での財政出動が不健全な運営に繋がるため、国内需給に関係ない食料エネルギーを除く米国型CPI+2%で安定化させるインフレ目標は「健全化」の意味も含んでいるといえよう。

また、そもそもPB黒字化の最終目標は「政府債務残高/GDP」の安定的引き下げである。そして、ドーマー条件的にはPB以外に、名目経済成長率と国債利回りの関係にも大きく左右されるため、現状のように名目経済成長率が長期金利を大きく上回る局面でPBを無理やり黒字化すると、政府債務が過度に減ることを通じて民間資産を過度に減らすことにもなりかねない。 とはいえ、いくら財政支出を増やしても、需要が増えなければGDPギャップの改善につながらないため、「財政支出の有益性」も重要になってこよう。そして、GDPギャップが大幅需要超過となる局面を迎えれば、財政はまず歳出削減、それでも需要超過であれば増税と、財政健全化への歩を進めればいいだろう。そうなれば自然と金融政策も正常化が見えてくるだろう。