1885年に創業し、日本で初めて渦巻型の蚊取り線香の大量生産を実現したライオンケミカル株式会社。同社はかつて外資系企業の傘下に入り、事業存続の危機に直面した歴史を持つ。その苦境から会社を救い、再び独立系メーカーとして再建を果たしたのが、代表取締役社長の田中源悟氏だ。
同社は「とにかくやってみる」という挑戦の精神を原動力に、設備の内製化や柔軟な発想で数々のヒット商品を生み出した。現在ではプライベートブランドやOEMを中心に1500を超えるアイテム数を誇り、売上高120億円規模へと急成長を遂げている。
どん底の状態からいかにして組織を立て直し、躍進を遂げたのか。老舗メーカーが大切にするモノづくりへの思いや経営手法、そして今後の展望について田中氏に聞いた。
企業サイト:https://www.lionchemical.jp/
目次
一時は外資傘下となるも再び独立系メーカーに
── 長い歴史があると思いますが、具体的な沿革を教えてください。
田中氏(以下、敬称略) 弊社は1885年に創業し、今年で141年目を迎えます。もともとは殺虫剤事業を生業としてスタートした会社です。また、和歌山県の地元企業の合併によって誕生した経緯があります。
大きな特徴は、現在主流となっている「巴型渦巻」の蚊取り線香の製造機を、日本で最初に開発したことです。二枚一組になっているあの形状を世に送り出したのが、弊社のルーツといえます。
──蚊取り線香のスタンダードなカタチを定着させたメーカーとしての誇りがあるのですね。その後、どのような変遷があったのでしょうか?
田中 殺虫剤事業を軸に成長し、かつては東証二部にも上場していました。しかし、その後の歴史は紆余曲折の連続です。上場廃止後、ライオン株式会社の子会社となり、さらにその後、世界的な殺虫剤メーカーであるジョンソン(S.C.ジョンソン)の子会社となりました。
ジョンソンは世界ナンバーワンの殺虫剤メーカーですが、当時の日本市場への参入にあたり、国内メーカーの買収を検討していました。そこで、当時ライオンの子会社であったライオンかとり(ライオンケミカルの旧社名)が買収されたという経緯です。
── 外資系企業の傘下に入ったことで、事業内容は大きく変わったのでしょうか。
田中 はい。ジョンソンは日本での戦略を殺虫剤から日用雑貨へと切り替えました。「ジャバ」や「固めるテンプル」といった製品が中心となり、ジョンソン製品の製造受託に特化する会社となりました。しかし、約10年が経過したころ、ジョンソンの米国本社が「日本に製造拠点を持たない」という方針を打ち出したのです。
── それは、会社としての存続が危ぶまれる事態ですね。
田中 売却先がなければ会社を畳むという話まで出ました。そのとき、創業者の孫にあたる方が、蚊取り線香発祥の地であるこの歴史ある会社を潰すわけにはいかないと動かれました。
たまたま、和歌山県の地場企業グループである三和グループのオーナーだった私の父が、その思いに応える形で業務を引き継ぐことを決意したという経緯です。1999年のことです。こうして、弊社は再び独立した歩みを始めることになりました。
グループ会社の再生とジョンソンとの決別
── 田中社長ご自身は、どのようなタイミングで入社されたのでしょうか。
田中 私は大学卒業後、バブル期の就職状況が良い時期に、縁あってアメリカの会社に就職しました。ニューヨークで3年間、まったく別の事業に携わっています。
そのころ、弊社の母体は蚊取り線香のOEM専門メーカーとして、国内シェアの約40%を製造していました。しかし、流通の動向を把握する必要があると考えた当時のオーナーが、大阪に「リベロ」という販売会社を設立したのです。そこに、私が参画しました。
── アメリカから呼び戻される形で、その販売会社に携わることになったのですね。
田中 強制的に行かされ、強制的に戻されたようなものです。リベロという社名には「守りを固めつつチャレンジする」という意味が込められていましたが、私が入社して半年も経たないうちに、経営陣が去り、多額の負債が発覚するという悲惨な状態でした。
親会社からは会社を清算するよう指示されましたが、私は納得がいきませんでした。呼び戻されてこの状況はあんまりだと反発し、一人で借金を背負ってリベロを立て直す決意をしたのです。
── 20代という若さで、非常に過酷な状況からのスタートだったのですね。
田中 親会社の意向に逆らったため、当初は一切の援助がありませんでした。昼間は営業に回り、夕方からは和歌山に戻って製造の段取りをするという生活を1、2年ほど続けました。
資金がないため在庫も持てず、良い商品を持ちながら販路がない企業の製品を預かり、売れた分だけ手数料をもらうという「物売り」から始めています。その必死な姿が業界誌に取り上げられたこともあります。
── その後の成長のきっかけは、何だったのでしょうか?
田中 ちょうどドラッグストアが台頭し始めた時期でした。メーカーと直接取引をしてプライベートブランド(PB)をつくりたいというニーズが生まれます。
幸い、弊社はOEM専門で国内流通のしがらみがなく、私自身も業界の常識を知らなかったため、その提案に迷わず乗ることができました。これが実績となり、売り上げが数十億円規模まで成長したころ、親会社のライオンケミカルの再生という話が舞い込んできたのです。
── ライオンケミカルに戻られたとき、社内の状況はいかがでしたか?
田中 当時のライオンケミカルはジョンソンの子会社で、売上のほぼ100%が前・親会社の製品の下請けでした。設備は老朽化し、新規採用も30年ほど途絶えていたような状態です。このままでは延命処置にすぎず、未来はないと確信しました。
── そこで、大きな決断を下したわけですね。
田中 当時の社長に直談判し、「下請けの仕事をすべてやめる」と宣言しました。契約に基づき3ヵ月でピタッと取引を終了させたのです。
その代わり、リベロで築いた数十億円の売り上げの半分をライオンケミカルに移し、リベロの社員をライオンケミカルの正社員として受け入れることを条件にしました。
── ゼロからの再スタートではなく、リベロの売上と人材を注入することで再生を図ったのですね。
田中 はい。ライオンケミカルには大手企業時代の充実した福利厚生や制度が残っていました。これを一から構築するのは大変な作業ですから、リベロの社員をその仕組みの中に合流させました。
そこから約20年、お客様の要望に一つひとつ応え続けた結果、今期の売上高は120億円に達する見込みです。雑貨業界でこれだけの規模まで成長できたのは、社員全員の頑張りがあったからです。
ライオンケミカルの「とにかくやってみる」精神とは?
── 120億円という売上規模まで成長できた強みはどこにあるのでしょうか?
田中 一言でいえば「とにかくやってみる」という姿勢です。もともと資金も設備もない状態からのスタートでしたから、自分たちで知恵を絞り、機械まで自作するような文化が根付いています。
現在、売上の約80%が流通向けのPB商品です。大手小売店から「こういう商品はつくれないか」という相談を受けた際、他社が断るような案件でも弊社はまず挑戦します。
── その挑戦する姿勢が、ヒット商品の誕生につながっているのでしょうか。
田中 たとえば、今では一般的になった消臭用の大きなビーズ。あれを世界で最初につくったのが弊社です。実は、私が試験室で配合した処方が、偶然にもきれいに膨らんだことがきっかけでした。
原料メーカーも水で膨らませることはできても、香料を入れて安定させることはできていませんでした。素人の発想で試したことが、結果として大ヒット商品につながったのです。
── 偶然を形にする技術力と、柔軟な発想があるのですね。
田中 弊社には仕入れ商品がほとんどありません。ボトルの容器から、最近では少なくなった缶の製造まで、可能な限り社内で内製化しています。
私が常にいっているのが、「にぎわい」のある会社でありたいということです。多様な能力を持った人が集まり、どんな提案に対しても「やってみよう」と動ける組織であることが、1500を超えるアイテム数という結果に表れています。
従業員を尊重しつつ「当たり前」を徹底
── 経営者として、社員の方々と接する上で大切にしていることは何でしょうか?
田中 会社経営といっても、特別なことではありません。自分の家庭と同じです。「嘘をつかない」「人に迷惑をかけない」「挨拶をする」といった、幼稚園で教わるような当たり前のことを徹底するだけです。
社員には「常に頭の中にクエスチョンを持て」と伝えています。そして「まあいいか」という妥協を工場内から排除することを求めています。
── 「まあいいか」という気持ちが、大きな損失につながるということですね。
田中 不良品が混じっているかもしれないと思ったとき、「まあいいか」で見過ごせば、今の時代、会社が傾くほどの事態になりかねません。それは一緒に働く仲間やその家族に多大な迷惑をかける行為です。
疑問を持ったときに声を上げることで、トラブルを未然に防げます。また、現状が完璧であることはありませんから、常に改善の余地を探る姿勢が大切です。
── 組織の評価基準や給与体系についても、改革を進められたとか。
田中 中小企業にありがちな「社長の胸三寸」で決めるやり方はやめました。上場時代の名残である労働組合とも真摯に向き合い、会社の業績を数値化して開示した上で、根拠のあるベースアップや評価を行っています。
管理職に権限を委譲し、明確な基準に基づいて査定を行う仕組みを整えました。私一人の目では300人近い社員全員を把握しきれませんから、組織として公平性を保つことが重要です。
会社と日本の製造業を守るために
── 今後の展望について、どのような領域に投資をする予定でしょうか?
田中 現在、新たな工場の建設を進めており、新規事業への参入も計画中です。既存の商品群を軸にしつつ、まだ手がけていない領域を埋める投資を継続します。
また、和歌山県には優秀な人材がたくさんいます。彼らが全国で培ったスキルを地元で生かせるような、多様な能力を受け入れられる企業グループでありたいです。
── 日本の製造業全体を取り巻く環境については、どのように感じていますか?
田中 失われた30年といわれるデフレが続き、日本の製造業は限界に来ています。原材料費や人件費が上がる中で、適切な価格転嫁ができない現状は、10年後の企業の存続を危うくする要因となりかねません。
「値上げは悪」という風潮がありますが、人が動くことにはコストがかかります。高品質なものを適正な価格で提供し、働く人の給料を上げるという当たり前のサイクルを取り戻さなければなりません。
── これからのライオンケミカルは、どのような志で事業を続けるのでしょうか?
田中 日本には素晴らしい技術と「恥の文化」という美徳があります。相手に迷惑をかけない、誇りを持ってモノをつくるという姿勢は、世界に誇れるものです。
私たちの今があるのは、先人たちが残してくれたノウハウのおかげです。今度は私たちが次の世代に何を残せるかを考え、努力し続ける責任があります。これからも「とにかくやってみる」精神で、100年、200年と続く企業を目指します。
- 氏名
- 田中源悟(たなか もとのり)
- 社名
- ライオンケミカル株式会社
- 役職
- 代表取締役社長

