本田宗一郎,人間力
(写真=The 21 online/岩倉信弥(多摩美術大学名誉教授))

本田宗一郎が教えてくれた、「挑戦」の大切さ

本田宗一郎は大きなビジョンを掲げてそれを実現した人だが、ついていく現場の部下たちは大変だった。それを象徴する、本田宗一郎に一番叱られた男の本田語録』という本がある。著書は、本田技研工業でデザイナーとして活躍した岩倉信弥氏。

岩倉氏は同社で常務まで務めた自動車デザイン界の第一人者だが、本田宗一郎からはとにかく叱られる毎日だったと言う。それでもついていきたくなる、その「人間力」についてお話しいただいた。

指示をした翌朝にもう、「できたか?」

シビックやアコードなど、ホンダを代表する名車のデザインを手がけた、本田技研工業元常務の岩倉信弥氏。本田宗一郎に直接薫陶を受けた一人だ。

「オートバイを作り始めてからたった十数年で世界的なレースで優勝したかと思えば、今度は四輪事業参入直後にF1レースに参戦。本田さんの豪放磊落な生き方に憧れ、一九六四年に入社しました。すると、翌年、F1レースで優勝。不可能だと思えることも強く想えば叶うことを目の当たりにし、『私も車のデザインで世界一になる!』と奮い立ちました」

そうモチベーションを高めた岩倉氏だったが、本田氏の下での仕事は甘くなかった。

「本田さんは朝から晩まで研究所にいるのが好きだった人。私も、入社後、デザイナー、デザイン室の技術総括、研究所の専務、と研究所生活が長かったので、接する機会が多く、五十歳近くになっても『また君か!』と叱られていました」

本田氏に無理難題をつきつけられたことも多い。たとえば、デザイナーをしていた20代後半、「君は人殺しか!」と怒鳴られたことがあるという。

「『今すぐ鈴鹿工場に来い』と言われて飛んで行ったら、到着するや否や、叱られました。車のボディを作るとき、屋根と側面の鉄板を溶接でつなげたあとにハンダ(鉛と錫でできている)を盛って仕上げるのですが、そのハンダをヤスリで削って形を整える際に粉じんが出る。こんな作り方をしたら、工員が肺を悪くする、と言うのです。どの会社もやっている一般的な製法だったのですが、『すぐに直せ』とこっぴどく叱られました」

岩倉氏は夜遅くに鈴鹿から帰京したが、翌朝、研究所に出社すると、本田氏に朝一で、「おい、できたか?」と言われたという。
「本田さんのせっかちは知っていましたが、まさか翌朝に聞かれるとは思いませんでした」

この件に限らず、別件でも、翌日に「できたか?」と聞かれるのは茶飯事。さらに、「まだです」と返せば激怒したそうだ。

「とくに、学校で教わったような理屈を並べて、できない言い訳をしたときは最悪。『やりもせんに!(やりもしないで)』と烈火のごとく叱られました。結局、わかったのは、『できない』と言うにしても、死ぬ気で考えて、死ぬ気で試さないとダメだということ。毎朝『できたか?』と聞かれるのは本当に恐怖でした。定年退職して随分経った今でも、夢に見るほどですよ」

もっとも、叱られながら必死で取り組むうち、岩倉氏は、自分でも驚くような成果を出すことができたという。

「たとえば『人を殺す気か』と言われた件では、溶接の継ぎ目をゴムのモールで隠す方法を考案。当初デザイン的には社内でも評判が分かれましたが、この方法は、のちに世界の車のスタンダードになりました。また、私がデザインに関わった三代目シビックが、世界的な車のデザインコンテストで世界一にもなれました。

常識にとらわれて『できない』と決めつけるのではなく、とことん考えてとことん試してみる。すると、異次元への扉が開かれて、イノベーションが起こせる。そのことを本田さんは叱ることで教えてくれていたわけです。

工業デザインの神様と呼ばれるレイモンド・ローウィ氏が『まぁいいか、というところで諦めるな(Never leave well enough alone.)』と言っているのですが、本田さんが言いたいのもこのことかと気づきました」

本田氏自らも、考え抜く姿勢の大切さを、行動で示していた。

「本田さんは、朝イチで大量にアイデアを出してくることがよくありました。本田さんの息子にその話をすると、常に枕元にメモを置き、夜中でもガバッと起き出して、何かを書いていると言うのです。そんな姿勢を見せられたら、やらないわけにはいきませんよ」