ファミレスでお昼ご飯を食べる、友達とお茶を飲むためにファストフード、コーヒーショップへ行く。日常的に利用する「外食」は、我々の生活の中に深く根付いている。その外食産業の草分けと言えるのが『すかいらーく』。1970年に東京都府中市に1号店を出し、その後チェーン展開して2017年にはグループ総店舗数3000、正社員6000人を超える巨大企業となった(同社ホームページより)。創業したのは長野県出身の4人の兄弟。外食産業をリードしてきたすかいらーくの誕生・発展の歴史を追うとともに、四兄弟の長兄であり代表取締役会長等を歴任した横川端(よこかわ・ただし)氏(86)のたどった人生と、21世紀の外食産業で生きる人たちへのメッセージを連載でお届けする。
1970年は外食元年、すかいらーく1号店から歴史は始まる
飲食業界では1970年を「外食元年」と呼ぶ。これは同年にすかいらーくが1号店を出し、日本万国博覧会(大阪万博)でケンタッキーフライドチキンが出店、以後ファミリーレストラン、ファストフードの大規模チェーン展開が始まったことにちなんだものである。翌1971年にはマクドナルド、ミスタードーナツが日本で1号店を出すなど、外食産業が一気に勃興するのがこの時期。終戦から4分の1世紀、高度成長期を経て国民の生活は豊かになり、ライフスタイルも大きく変わろうとしていた。
もっとも、すかいらーくの会社としての原点はレストランではない。1962年4月4日に東京都北多摩郡保谷町(現西東京市)にオープンした食料品店「ことぶき食品」、資本金200万円の有限会社が巨大企業の出発点である。
商売と無縁の学究肌の家系、祖父は漢詩が得意な元村長
すかいらーくの創業家である横川家は代々続く信州の名門士族で、商売とは無縁の家系であった。四兄弟の祖父・庸夫氏は1865年4月生まれで漢詩が得意な三兄弟の1人として「諏訪三俊」と称えられていたと、明治期の漢詩雑誌に記載がある。教員、税務官吏を経て1906年に諏訪郡北山村(現茅野市)の村長となった(鷗外の漢詩と軍医・横川唐陽:佐藤裕亮著、論創社)。
庸夫氏の子で端氏の父・正二氏も教員であり、歌人としても活動し『アララギ』に多くの作品が掲載されている。こうした学究肌・文人としての血は端氏に強く伝わったようで、会社経営の一方で、句集の出版や東京交響楽団の会長を務めるなど積極的に文化活動に取り組んだ。自身も「うちは、過去をさかのぼってみると、商売をやった人がいないんですね。まさに文化の家系なんです。(それなのに)突然変異みたいに商売なのか不思議な面もあるんです」(すかいらーくの遺伝子を探る=横川端氏の社内での私的インタビュー:田口悟=聞き手)と語っている。三男の横川竟(きわむ)氏も「長兄(端氏)は文化人的というか、商売人とはひと味違う雰囲気だった」(日経MJ2016年7月22日)と取材に答えている。
そんな端氏が全く畑違いのビジネスの世界に入ったのは、20世紀という激動の時代を生きたことと無縁ではないだろう。
一家で満州に入植、満蒙開拓団のたどった歴史と横川家
端氏は正二氏と母・郁(いく)氏の長男として1932年1月21日、長野県諏訪郡四賀村(現・諏訪市)で生を受けた。長女・永子氏、次男・茅野亮(ちの・たすく)氏、三男・竟氏、四男・紀夫氏の4男1女の長兄である。
9歳だった1941年、一家で満州の牡丹江省(現中国東北部の黒竜江省東南部)に移る。正二氏が開拓の義勇隊責任者として少年235人を連れて渡満、3年間の訓練を経て1944年に牡丹江省寧安県旧街村の西海浪(にし・はいろう)地区に入植したためである。
こうした満蒙開拓団は終戦間際の1945年8月9日、ソ連軍の侵攻により悲劇的な結末を迎える。もっとも横川家はその8か月前、1944年12月に長野県に戻っている。理由は正二氏が腸チフスで死亡したためである。入植した翌日の6月2日に倒れ、24日に息を引き取った。1903年9月29日生まれ、満40歳の早すぎる死であった。郁氏は帰国を決意、入植地から3日かけて長野に戻った(以上、事実関係は長野県満州開拓誌・下巻:郷土出版社)。
後に端氏は著書にこう記している。「結果として、父親は死んだことによってわが家族全員を救ったわけである」(エッセイで綴るわが不思議人生:文藝春秋社・私家版)。
戦後の困窮で旧制中学中退、高まる起業への思い
横川家は終戦前に帰郷できたものの、父が残したわずかな蓄えも戦後のインフレで資産価値が激減し生活苦に陥った。端氏は旧制諏訪中学校(現諏訪清陵高校)に入学したが、母が1人で家計を支えるには限界があった。亮氏を伯母にあたる茅野家の養子にしたのもそうした事情による。
やむ無く端氏は諏訪中学を2年で中退、地元の大和工業(諏訪精工舎を経て現セイコーエプソン)に入社した。亮氏は高校卒業後に養子先の農家の跡継ぎとなり、冬場は東京に出稼ぎに出る生活。竟氏は中学卒業後に東京で就職、乾物屋、食品問屋などで働いた。紀夫氏は高校卒業後、上京して東急電鉄に就職したが、ほどなく退社。その後は夜間の飲食店などでアルバイトをしていた。
時代は昭和30年代前半。終戦直後の混乱から立ち直り、国民生活も若干、余裕が出た時期である。気が付くと四兄弟の人生は「学歴はない。特殊な技能技術があるわけでもない。まして金がない。でも、このままでは一生うだつが上がらない、まさにないないづくしだ」(エッセイで綴るわが不思議人生)と先が見えない状況。こうしたことから、四兄弟は力を合わせてひと旗あげる考えを持つようになった。3人が東京で集まっている所に端氏も長野から加わり、将来の夢を語り合うようになる。