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(画像=創業当時の様子を語る端氏(画像=Foodist Media))

成功へのロマンがあった時代、現代に通ずる成功への渇望

自らの人生を切り拓きたい、そうした思いが後の巨大企業へ繋がっていく。兄弟の思いには戦後まもない時期という時代背景もあった。端氏は言う。

「我々が立ち上がっていく時代は日本が経済的に成長していく時期で、国の中に成功へのロマンのようなものがあったと思います。他者の成功する姿を見て『すごい』『自分もやってみたい』と感じる、社会的に共通した思いのようなものです」。

戦後の厳しい時代を生きた人々の社会的成功への切実な思い、そのプロセスは様々な面で豊かになった21世紀の今とは事情が異なるのは当然である。その点、端氏は以下のように分析する。

「今の時代はすべての動きが速くなっています。また、過去になかった仕組みが出来て、コンピューター等の発達で、それほど苦労しなくても大きな効果が得られる時代が来ようとしています。そうなると我々のような創業者的な発想では成功は難しいのではないか、時間的な余裕もないのではないかという気はします。ただ、成功するための原則は変わっていないと思います。『絶対に成功してやる』と思っている人は、やはり同じように成功していくのではないでしょうか。『何とかなるさ』としか考えない人は、可能性はゼロではないでしょうが難しいでしょう」。

兄弟のひと旗上げる夢は、起業という方向で徐々に具体化していく。竟氏が東京・築地の乾物問屋に勤務していた1955年〜1959年の間に、紀夫氏と資金を貯めて起業することを話し合っていた(紀夫氏の上京・就職は1958年=昭和33年)。これに「新しい概念の乾物屋を持とう、という目的」(「私の社会人1年生時代」月刊食堂1979年8月号:柴田書店)を共有する亮氏が1961年に起業準備のため長野を出て合流。保谷町の繁華街・中原銀座の近くにあるアパートの一室を借りて3人で共同生活を開始した。全員、昼と夜、別の仕事を持ち、1日に使うお金は昼食代込みで1人100円、稼いだ金はみかん箱に入れ、貯めたという(戦国外食産業人物列伝:佐野眞一、家の光協会)。

長男・端氏はサラリーマンをしつつ起業に参画

大和工業のサラリーマンであった端氏は、同社が諏訪精工舎と名前を変えた1959年に結婚。翌1960年に総務部に異動となり、この頃から兄弟の起業構想に参加するようになる。平日は通常の仕事をこなし、時に呼ばれて週末に上京して弟たちと起業について話し、日曜日の夜行電車で長野に帰ることもあった。

「弟たちは『何かしたい、そうしないと俺たちの道は拓けない』と思っていたわけです。彼らは私のように安定した会社にいたわけではなく、もっと辛い立場にいましたから。四番目(紀夫氏)は東急電鉄に入ったものの、大学は出ておらず下積みの仕事からやっていました。このままでは夢はかなえられないと、三番目(竟氏)と四番目が何かやろうと始めるわけです。そして茅野が加わっていき、2年間で25万円ずつ持ち寄ろうということになりました」。

3人の弟が苦しい生活をしながら資金を貯める中、自らも諏訪精工舎の福利厚生貸付資金から25万円を借り入れて出資。こうして1962年までに四兄弟で100万円の資金を捻出することに成功した。それ以外に亮氏の養父、以前の勤務先からも一部融資を受け、保谷町の「ひばりが丘団地」と道路を隔てて向かい合う30平方メートルほどの小さな食品マーケットの一角に1962年4月4日、ことぶき食品有限会社を設立。同日、食料品店としてオープンさせた。

会社の目的は「家庭食料品販売、それに附帯する一切の業務」と登記されたように乾物だけでなく、あじ・さんまの開き、塩鮭、しらす干し、かまぼこ、佃煮など半生加工商品、缶詰、香辛料、コーヒーなども揃えた。商品から、現在のコンビニエンスストアに近い性質がイメージされていたのは注目に値する。

なお、ひばりが丘団地の前に店舗を構えたのは、たまたま手にした週刊誌の記事がきっかけである。同団地のそばの乾物屋が団地族のライフスタイルについていけなくなり、店じまいしたという内容。兄弟で現地を見に行ったところ、団地の目の前の道路に面して人通りも少なくはなく、しかも子供連れの若い奥さんが目についたことから即決したという。

後に「ひばり」の英名「skylark」が社名になり全国に『すかいらーく』が次々とオープンしたが、それは「ひばりが丘で創業した会社」ということも理由の1つになっている。(提供:Foodist Media

執筆者:松田 隆