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小学校から高等学校まで暁星学園で学ぶ。高校卒業後渡米、アメリカフロリダ州タンパ大学に入学し、MBAを取得。帰国後、中島通信工業(現アドバリュー社)に入社。その後M&Aする側・される側、民事再生、貸し剥がしなど様々な経験をし、2008年に当社入社。 2010年リーマンショックからの再建に向け取締役就任。
経営方針を「個社の独自性の尊重」から、「景気に左右されない安定・成長性のある事業構造をつくり上げる」とし、再建に注力。2015年代表取締役社長就任し、現在に至る
常に変革し続け業容を拡大し、現在では小売事業、建設事業、貿易事業を展開。
生鮮食品からホームセンター商材、医薬品まで取扱う「スーパーセンター」や
インターネット通販を主力とする小売事業、木材の仕入・加工・施工まで自社一貫
体制が整う木造建築や、施工屋根改修工事でトップシェアを誇る建設事業、天然由来の医薬品・化成品・食品の輸入販売、不妊治療薬の原料製造など、特定分野で高収益を実現する貿易事業を展開。
これまでの事業変遷について
—— 創業から現在に至るまでの事業の変遷について教えていただけますか?
綿半ホールディングス株式会社 代表取締役・野原 勇氏(以下、社名・氏名略) 当社は1598年に創業しました。背景には、織田信長の家臣が長野県飯田市に移り、本能寺の変の後、名字を捨てて農家に入り学問を教えたことがあります。その後、農家に綿の栽培を教え、それを流通させたことで産業が興りました。この流れが1598年頃に確立し、これを創業年としています。
江戸時代には、飯田市で綿の流通を続け、天竜川を利用して浜松方面へ商品を運ぶ一方、鉄やガラスなどの新素材を飯田に持ち帰り商売を広げました。明治維新後、綿は自由化され、当社も金物商へと転換し、地域に新しい商材を広める役割を担いました。
—— 戦後の高度経済成長期についてもお聞かせください。
野原 高度経済成長期には、建設業にシフトしました。鉄やセメントを建設業者に供給し、鉄骨工場を設立するなど、ダム建設が進む中で需要を捉えました。この頃、事業の約8割が建設業に移行していましたが、鍋や釜などを扱う小売業も併設していました。
その後、公共土木事業の縮小に伴い、建設業は県外へ展開する必要が生じました。一方で、地域への貢献を考え、高齢者施設の運営を始めるなど、福祉事業にも取り組みました。
—— 事業の多角化について、特に力を入れている分野はありますか?
野原 現在は、自動車工場のリニューアル工事や大規模駐車場の建設が主力事業の一つです。また、小売業も進化を続け、ホームセンターから食品を扱うスーパーセンターへと発展しました。事業を多角化する中で、どの分野にもバランスよく注力しています。
各事業はボラティリティが高いため、市場の状況に応じて投資の重点を変え、成長を支えています。柔軟な対応力が、当社の強みです。
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自社事業の強みについて
—— どのようにして競合に対して優位性を持っているのでしょうか
野原 当社の強みは「合才の精神」にあります。これは、人材の才能を組み合わせ、新しい価値を生み出すという考え方です。事業の多角化に注力するのではなく、人材教育を通じて異業種を融合させ、新たなアイデアや商品を生み出すことに重点を置いています。このアプローチが、他社にない競争優位性を生み出していると考えています。
多くの企業が特化することで競争力を高めていますが、当社では人材の相互作用を意図的に生み出す仕組みを教育の場で構築しています。異業種間の連携を重視し、新しい視点を常に取り入れられるようにしています。「昔からこうしてきた」という固定観念にとらわれず、柔軟な発想を促進することが、当社の成長を支える重要な要素です。
ぶつかった壁やその乗り越え方
—— これまでの困難を、どのように乗り越えてきたのかお聞かせいただけますか?
野原 入社した2008年当時、グループ内では横の連携がほとんどなく、各社の社員が初めて顔を合わせると名刺交換をするような状況でした。会社同士のつながりが薄く、独自性を重視するあまり、役員同士がライバルのように見える場面もありました。高度経済成長期には競争が成長を促すという考えが強かったのですが、バブル崩壊後もその風潮が残っていたのです。
—— 次に取り組まれたことは何でしょうか?
野原 グループ全体としての教育の仕組みを構築しました。特に中堅社員を対象に、共通の教育を実施することで、各社の社員が同じ目線で物事を考えられるようにしました。これにより、各社独自の教育ではなく、ホールディングス全体としての共通認識を持つ基盤を作ることができました。
—— リーマンショックの影響もあったと伺いましたが、それが変革を促進する契機となったのでしょうか?
野原 リーマンショックの影響で、多くの中堅社員が危機感を持つようになりました。一方で、上層部はまだ安定しているという意識が残っていました。このギャップを埋めるためにも、次世代経営者の育成が重要な課題として挙げられ、方向性を共有しながら進めることができました。
—— 上層部からの反対はなかったのでしょうか?
野原 幸運なことに、次世代経営者の育成は私が入社した時点でグループの最大の経営課題とされていました。そのため、上層部と同じベクトルで取り組むことができ、大きな反対はありませんでした。
今後の経営・事業の展望
—— 今後の経営や事業の展望についてお聞かせください。
野原 リーマンショック後の業績悪化を受け、最初の数年間は事業再生とグループ内連携の強化に注力しました。その過程で、経営方針を「独自性を尊重する」から「景気に左右されない事業構造を作る」に転換しました。この方針は、コロナ前までの間に成果を上げる基盤となりました。
今後は、地域に根ざした体制をさらに強化していきます。地元である長野県飯田市を支えるだけでなく、最終的には日本全体に貢献できる産業を目指しています。特に農業や林業に注力し、六次産業化を推進する仕組み作りを進めています。
—— 新事業として農業や林業に注力されているとのことですが、M&Aやアライアンス戦略についてもお聞かせください。
野原 M&Aやアライアンスは、当社に不足している部分を補う形で進めています。特に地域との連携を重視し、地域全体が発展するような戦略を立てています。業種や業態に縛られるのではなく、地域とのシナジーを生み出すことを最優先としています。
ZUU onlineユーザーへ一言
—— ZUU onlineのユーザーに向けて、一言いただけますか?
野原 今の時代、パーパス経営が注目されていますが、重要なのは企業がどのような価値を提供するかです。当社は、425年の歴史の中で、地域の発展と人々の暮らしの向上に取り組んできました。
地域が成長すれば、その発展は地方創生につながり、日本が抱える多くの課題を解決する糸口になります。そして、その成果が日本全体に波及し、国際社会での日本の存在感を高める原動力になると信じています。
- 氏名
- 野原 勇(のはら いさむ)
- 社名
- 綿半ホールディングス株式会社
- 役職
- 代表取締役社長