群馬県桐生市の老舗パン屋の4代目として家業を継いだ田中知社長は、人口減少とベーカリービジネスの限界に危機感を抱き、事業承継から1年後に「焼成冷凍パン」事業を立ち上げた。アメリカで出会ったこのビジネスモデルに可能性を見出し、7000万円の借金を背負い、全財産を担保に挑戦。従業員の反発や経営知識の不足といった壁を乗り越え、今や日本発のパンブランドを世界に広げるという壮大なビジョンを掲げている。
目次
■ 米国での冷凍パンとの出合い、事業転換へ
── 22歳からパン職人として働いていらっしゃったとか。
田中 ええ。私は群馬県桐生市のパン屋の4代目なのですが、37歳で有限会社の代表取締役に就任。その1年後、2006年に株式会社スタイルブレッドへ社名変更しました。
── 事業を承継された当時は、どんな状況だったのでしょうか?
田中 桐生市は人口減少が激しく、商圏が限られるベーカリービジネスに将来の危機感を抱いていました。日々の売上が予測できない中で100パーセント完成品を用意するビジネスは、経営的に無理があると感じていました。従業員に給料を払い続ける責任もあり、強い危機感がありました。
38歳でスタイルブレッドを立ち上げ、現在の「焼成冷凍パン」事業を始めました。きっかけは、得意とする食事パンが店舗では売れにくい品目だったことです。
実は31歳のとき、アメリカの製パン業界ツアーで焼成冷凍パンに出合い、高品質なパンを冷凍し広域に流通させるビジネスモデルに確信を得たんです。
店舗ビジネスの商圏や人口減少の制約に対し、冷凍パンは物流と賞味期限の自由度をもたらします。これにより、培った技術を活かしたパンを全国のホテルやレストランへ届けられると考えました。大きな可能性を感じ、2006年に事業を始めました。先行企業がまったくない、大きな挑戦でした。
■ 新事業に従業員は反発、会社経営や組織構築をゼロから学んだ
── 事業承継とビジネスモデルの転換を進める中で、直面した課題や壁はありましたか。
田中 私を含め、ベーカリーの人間はビジネス知識がなく、事業拡大への理解が得られませんでした。私自身の教育と社員への教育が必要でしたが、多くの社員が新しい事業への反発から退職してしまいました。
職人の技をマニュアル化し、大量生産で品質を保つ工場経営への転換、営業組織の構築など、会社経営をゼロから学ぶ必要もありましたね。
事業を始めるまでの5年間でビジネス書を徹底的に読み込み、知識と意識改革を進めました。実践で学んだことを検証し、初歩的な経営課題に直面しながら、インプットと実践を繰り返しました。
■ 「パンを作る」こと以外はすべて変えた
── 組織やオペレーションを大きく変革されたとのことですが、先代の経営から変えたこと、そして守り続けていることは何でしょうか。
田中 パンを作る以外、すべて変えたと言えるかもしれません。私の信念は常に変化すること。過去の成功体験に縛られず、新しいことは積極的に取り入れるべきだと思っています。
ミッションである「パンを通じて上質な時間を創り、パンを通じて⼼の贅沢を創る。」達成のためなら、フレキシブルに。特定の考えにしばられたくありません。
売上50億円弱の現在に至るまで、各ステージで考え方を変えてきたからこそ伸びてきたのだと思います。今後も変化し続けることで成長を遂げられるでしょう。従業員には価値観の変化に戸惑う者もいるかもしれませんが、環境変化には変革が不可欠です。
ユニクロの柳井正氏が大切にする「原理原則」に共感しています。原理原則さえ貫けば変化は許容され、その原則自体もステージで変わると考えます。
■ 父から受け継いだ潔さと従業員との対峙
── コーポレートサイトの代表メッセージで、最も尊敬する人物としてお父様を挙げられていました。どのような点に尊敬の念を抱いていらっしゃいますか。
田中 あらゆる面で尊敬しています。私が37歳で代表に就任した際、父は数千万円の内部留保をすべて従業員の退職金に充て、全員に辞めてもらいました。新事業には新しい人が必要との考えからでしょう。内部留保を従業員に分け与え、私に会社を渡してくれた潔さは、尊敬する点です。
── 従業員からの反発に対し、どのようにして共に歩む気持ちにさせたのでしょうか。
田中 理解し合えない者は辞めていきましたが、残った者には夢を語り続けました。焼成冷凍パンの事業展開は未知数で、いくら説明しても理解や納得は得られなかったため、多くの社員が退職してしまいましたが
そのため、「私を信用してついてきてくれ」とひたすら伝え続けました。
■ 日本初のジャパンクオリティのパンブランドを世界に
── 今後の事業展望や経営ビジョンについて、経営戦略やマーケティング戦略、個人向けウェブサイトの運営など、注力する領域や計画はどこでしょうか?
田中 「日本を代表するブレッドカンパニーとなり、世界の食シーンを変えていく」というビジョンを掲げ、日本初のジャパンクオリティのパンブランドを目指します。
食事に合わせるパンとして日本のパンは優れており、私たちが作るパンは最高峰だと自負しています。日本の「山崎」ウイスキーのように、世界に通用するブランドを目指します。
フランスパンと同じ製法ながら、桐生市で作ることで独特の味わいが生まれます。ライフスタイルが「コンフォート」へと変化する現代、我々のパンこそ未来のパンだと考えます。
この構想をマーケティングし世界で展開したい。2023年よりシンガポールで販売開始、近い将来他国にも進出予定で、海外展開の人材も積極的に採用中です。
日本のパンはこれまで世界に出ていった実績がありません。焼成冷凍パンでなければ物流が自由にならないため、ブランド実績はゼロです。
しかし、我々の焼成冷凍パンは世界で展開できる可能性を秘めた商材であり、企て次第で世界と伍して戦えるでしょう。誰もやったことがない挑戦です。
マーケットは非常に広いです。組織拡大も必要で、海外にも拠点を出すため、人材確保も進めています。採用面接も進んでおり、今後の展開に期待しています。シンガポールには2023年より私の長男が駐在しています。
── 今後の資金調達計画や、M&A、IPOなどによる組織拡大の構想は?
田中 事業戦略的なことは、以前、IT企業にいた川島(川島諒一・取締役COO)と二人三脚で進めています。資金調達計画やM&A、IPOなど、さまざまな構想を練っています。
■ 限界のフタを外し、とにかくやってみること
── 読者には、特に事業承継を控える二代目、三代目、四代目の社長も多いのですが、伝えられるとしたら、どんなメッセージが浮かびますか?
田中 私が何かを成し遂げたとは言えませんが、日頃から「とにかくやってみる」ことを大切にしています。頭で考えるだけでなく、行動することが重要です。
経験や常識という「制限のフタ」を外し、「こんなこともできるのでは」という可能性が見えれば、突破口を開き、少しずつでも仕事を進めることが重要だと考えています。
私たちはまだ小さな会社ですが、ベーカリーの時代と比べ成長できました。それは「これくらいできるのでは」と制限を外したからです。
たとえば、焼成冷凍パンを始めると言ったとき、メンバーは「桐生市のどこのお店に売るのか」と尋ねました。私は「全国だ」と伝えました。突拍子もないことかもしれませんが、大きなことを考え、実践することが最も重要だと感じています。
- 氏名
- 田中 知(たなか さとる)
- 社名
- 株式会社スタイルブレッド
- 役職
- 代表取締役