この記事は2026年2月20日に「きんざいOnline:週刊金融財政事情」で公開された「企業の賃上げノルムを様変わりさせた三つの要因」を一部編集し、転載したものです。
(厚生労働省「民間主要企業春季賃上げ要求・妥結状況について」ほか)
2023年以降、日本の賃金を巡る景色が変わり始めた。労働組合は強気の要求を掲げ、企業側も賃上げ継続に前向きな姿勢を示している。ただし、名目賃金が伸びても実質賃金が増えなければ、家計の購買力は回復しない。本連載では、①企業の賃上げノルムの変化、②人手不足を背景に強気の要求を行う労組、③良好な経営環境と企業の対応、④実質賃金を左右する食料インフレ──という四つの視点から、日本の賃上げを巡る状況を見ていく。
第1回では、その出発点として企業の「賃上げノルム」の変化を取り上げたい。賃上げノルムとは、毎年の賃金改定において労使が共有する「これくらいが普通」という賃金上昇の暗黙の基準である。デフレ期(低インフレ期)のノルムは、ベースアップ(ベア)を抑え、賃上げは定昇と一時金(ボーナス)で調整するというものだった。販売価格を上げづらいなか、企業は固定費が増えないように横並びで人件費を抑えてきた。しかし23~24年以降、賃上げは単なるコストでなく「人への投資」という側面が強調されるようになった。
ノルムの変化を促した第一の要因は、インフレと生活防衛ニーズの高まりだ。25年の春闘では、連合の最終集計(定昇込み)で平均賃上げ率が5.25%と、24年に続いて5%台の高い伸びで妥結した(図表)。
しかし、名目賃金が伸びてもインフレによって実質の手取りは改善していない。実質賃金が上昇しなければ、次の賃上げでは要求がさらに強まる。企業側も、賃上げの抑制が従業員の不満や離職に直結しやすくなっていることを踏まえ、賃金を上げないリスクを意識するようになっている。
第二の要因は、人手不足の長期化だ。採用難や離職が常態化するなか、賃上げが人材確保のための前提条件となっている。初任給や中途採用時の賃金の引き上げ、職種別の手当拡充なども進む。従来の横並びで人件費を抑えるノルムから、人材確保のためには他社を横目に賃金を引き上げるノルムへ明らかに移行しつつある。
第三の要因は、価格転嫁の進展と企業側のマインド変化だ。賃上げを継続するには原資が必要であり、そのカギを握るのが企業の価格設定行動である。近年、コスト上昇(原材料・物流・人件費)を販売価格に反映する動きが広がっている。その結果、賃上げがしやすくなったことも企業による賃上げの継続を後押しする。
もちろん、ノルムが様変わりしたといっても一様ではない。厚生労働省が集計した民間主要企業(大企業中心)の25年の賃上げ率は5.52%と高水準だったが、連合集計の中小企業の賃上げ率は4.65%にとどまった。新しいノルムが本当に定着するためには、中小企業の賃上げの持続性も重要になってくる。
みずほリサーチ&テクノロジーズ 上席主任エコノミスト/井上 淳
週刊金融財政事情 2026年2月24日号