2017年のノーベル経済学賞は、米国シカゴ大学のリチャード・セーラー(Thaler)教授に授与された。セーラー氏は行動経済学(行動ファイナンス)の大家であり、経済主体が常に合理的に振る舞うとしてきた標準的経済学と異なり、人間の限定合理性(Bounded Rationality)を前提に、心理学の成果を取り入れながら経済行動の仕組みを解き明かしてきた。例えば、人間の心理的な特性を利用して、より望ましい行動に抵抗なく誘導する、ナッジ(Nudge:「肘で少し押す」の意味)を提唱し、その成果は米英などにおいて実際の政策に取り入れられた。

確定給付型年金と行動経済学
(画像=PIXTA)

行動経済学の成果は、確定拠出型年金の具体的な制度設計にも落とし込まれた。その1つがデフォルト(人々が明示的な選択を行わない場合に自動的に採用される選択肢)の活用である。例えば、英国の被用者向け確定拠出年金NEST(National Employment Savings Trust)では、労働者が反対の意思表示をしなければ自動的に制度に加入する仕組みがあり、運用対象では株式などリスク資産への配分を加齢とともに減らす、ターゲットデートファンドをデフォルト商品とした。米国の401(k)プランにも同様の仕組みが存在する。行動経済学の研究成果を応用できる点は、確定給付型年金も同じである。以下では行動経済学が指摘する、3つのバイアス(偏った行動)を示し、確定給付型年金の運営でもそれらの影響がありうることを説明する。

第1の例が自信過剰によるバイアスである。自信過剰とは、平均的、あるいはそれ以下の能力しかないのにもかかわらず、平均以上の能力があると錯覚する状況を指す。例えば、カリフォルニア大学のバーバー(Barber)とオディーン(Odean)の研究は、株式の売買取引データから、多くの個人投資家が自信過剰であり、その結果必要以上に頻繁に取引を行い、売買コストを控除すると市場インデックス以下のリターンしかあげられていないことを明らかにした。

第2は代表性のバイアスである。これは本来、確率的に起こる出来事であるにもかかわらず、直近の状況が続くと考えることを指す。例えばサイコロの偶数ばかり続くと、次も偶数(あるいは反対に次は奇数)と考えるバイアスである。これに類する個人的な体験として、筆者は90年代初めの銀行員時代、不良債権問題の処理についてある役員から「70年代のオイルショックの際には血尿が出るほどの苦労をしたが、3年ほどで解決の形が見えてきた」と聞かされた。しかし、現実には不良債権問題は解決せず、後年その銀行は国有化された。このように予測の材料として、自分の過去の体験だけを情報として利用するケースがあるため、「利用可能性」のバイアスと呼ばれることもある。

第3が近視眼的な損失回避である。行動経済学では同じ価格変動でも、人々は利益を得るより損失を回避する傾向が強いとする。他方、資産の収益率の確率分布が一定であれば、投資期間が短いほど損失が計上される確率が高くなる。そのため、投資結果をチェックする頻度が高くなると、リスク資産投資を控える傾向がある。セーラー教授らは、401(k)プラン加入者の行動にこの近視眼的損失回避が見られるとしている。

確定給付型年金でも、これら合理的とは言えない行動(バイアス)が問題を起こす可能性がある。まず資産配分では、代表性のバイアスが問題になる。すなわち、株式など特定の資産価格において、ある期間にわたって上下いずれか一方向のトレンドが続くと、今後もそれが続くように思い込む。その影響から、例えばルール上は資産配分をリバランスする状況になっても、株価が明確に反転するまで見合わせる行動を取ってしまう。特に下落時において、月あるいは週単位で保有資産の時価をチェックしていると、いつまでも下落が続き、損失が拡大するという恐怖(近視眼的損失回避)から、リバランスが見送られる傾向がある。しかし、過去を振り返ると、リバランスによる収益の主要な部分は株価が底を打って反転するタイミングで得られるとされており、リバランスを待つことはそのメリットを捨てることになる。

次に運用機関の採用・選択において、運用執行理事など責任者が自信過剰であるとアクティブファンドの数や配分割合を必要以上に増やしてしまうことがある。運用報酬が嵩む結果、報酬控除後のリターンが市場インデックスを下回る。一般的に自信過剰になりうる要因としては、 (1)過去の成功体験、(2)知識の修得、(3)自分が結果をコントロールできると考える度合い、があると言う。ここから類推すると、(1)インデックスを上回ったファンドを選択できた過去の経験、(2)スタイル分析などファンド評価の前提となる知識や経験値、(3)運用機関とのミーティングなどにより、運用方針をコントロールできるという意識、などが自信過剰を招くことになる。特に過去の成功体験があると、利用可能性のバイアスが重なって、「こうすれば良いマネージャーが見つかる」として積極的にアクティブファンドを採用する行動をとる可能性がある。

また、代表性のバイアスからは、過去3年程度の運用実績を過大評価することが考えられる。現実には仮に100のファンドの過去3年の運用実績があると、偶然に3年連続で上位4分位に入るファンドが少なくとも1つ存在する確率は80%、3年の内2年で上位4分位に入るファンドが存在する確率は99%である。実績が幸運によるのかどうか本当に実力なのか、さまざまな角度からの定性評価を通じて見極めていく必要がある。

さて、この「年金ストラテジー」の定期的な読者であれば、以上の内容をすでに良くご存知かもしれない。しかし、確定給付型年金の意思決定には、理事会や運用委員会のメンバーなど、さまざまな人々が関わってくる。セーラー教授が指摘してきた、行動経済学上のバイアスに影響される可能性があるのは、そうした人々も同じである。例をあげると、財務の経験がある母体企業の役員などが、株価の下落が続いた場合にリバランスの停止を主張したり、為替レートについて過去の体験による自らの予測を主張したり、ある年にアクティブファンドの選択に成功すると、翌年以降もプラスのアルファ獲得を当然視する現象が考えられる。

これら関係者のバイアスが意思決定にマイナスの影響を与えないよう注意する必要がある。例えばリバランスの必要性を過去のさまざまな局面のデータから説明したり、一期間だけではなく、長期的な収益率推移や収益率に対するリスクの比率や積立水準など、運用実績に関する多面的な尺度の評価を提供したりする必要があろう。また、行動経済学のバイアスが資産運用プロセスに与えうる影響を、運用委員会メンバーなど関係者間で率直に共有することも運営の質を向上させる一つの方法ではないか。

臼杵 政治 名古屋市立大学大学院 経済学研究科
ニッセイ基礎研究所

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