(本記事は、サンドラ・ナビディ氏の著書『SUPER-HUBS世界最強人脈の知られざる裏側』TAC出版、2017年9月20日刊の中から一部を抜粋・編集しています)
世界を支配する「スーパーハブ」とは
最高の人脈を構築し、世界金融を牛耳る最強のプレイヤーであり、ワールドワイドに人脈を広げる金融界のエリートたちと彼らのネットワークのことです。
JPモルガン・チェースの会長兼CEO、ジェイミー・ダイモンや、世界最大の資産運用会社であるブラックロックの会長兼CEO,ローレンス・フィンク、ヘッジファンドの”ドン”で億万長者のジョージ・ソロスなどはその「ネットワーク力」で歴史を形作り、私たちが住んでいる世界を変え、金融システム、経済、社会の未来を決定しています。
スーパーハブの大物、ジョージ・ソロスの軌跡
ヘッジファンド界のレジェンドでビリオネアのジョージ・ソロスは、世界最強のネットワークを築き上げた1人であり、その偉大さは唯一無二の存在です。
ソロスは、20年前から世界経済フォーラム(WEF)のダボス会議に参加し、この現実離れした空間で、時間を最大限に有効活用する方法を知り尽くしたダボス会議の大ベテランです。
首相、大統領、中央銀行総裁、兆万長者の企業家たちとの一対一の会談を隙間なくスケジューリングし、重要度の高いメディアを厳選してインタビューに応じ、いくつかの討論会でノーベル賞受賞者や政府高官たちに混じってパネリストも務めます。
ジョージ・ソロスの何がそれほど特別なのでしょうか―。
成功の秘訣は何で、どのようにしてグローバルネットワークの中心になることができたのか―。
彼は文字どおりお金もコネもないところから世界の大富豪にのし上がっていったのです。
ネットワークにおけるスーパーハブの最たる例であり、彼の軌跡をたどれば、そこに金融システムの内部構造を知るヒントが隠されているはずです。
ナチスを逃れ、ロンドンへ移住するも苦労続きの日々
ソロスは、ハンガリーの首都・ブダペストのユダヤ教一家に生まれ、14歳のときに、偽造書類と潜伏によってナチスとソ連の支配から逃れました。
戦後、ロンドンに移住して残りの10代を過ごし、その後アメリカへ渡りましたが、戦時中のトラウマ的な経験が自分の思考ひいては人生に大きな影響を与えた、と後に繰り返し述べています。
その経験を通して、世の中には常識的なルールが通用しないときがあり、そういうときにはリスクを冒さねばならないことを学んだといいます。
ロンドンへ移住した1947年、ソロスはお金もコネもない17歳の異国人でした。
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに入学し、雑用のアルバイトをして生計を立てました。金融業界で就職先を探しましたが、階級意識の高いロンドン社会でまったくのアウトサイダーを雇ってくれる会社はなかなかありません。
そこでソロスは、ロンドンのすべての商業銀行の頭取に宛てて手紙を送り始めました。
面識も紹介者もない経営者に直接アプローチする求職者などいない時代です。その努力もむなしく足掛かりさえつかめず、「シティ(ロンドンの金融街)はクラブのようなものだからツテがなきゃ無理だ」とはっきりといわれたこともありました。
その銀行家は、ロンドンは「合理的な縁故主義」の街だからと冗談半分にいいました。
たいてい「よくできた甥」というのがいて、そいつが雇われるのだと。
ソロスは、学校関係の人脈もなく、外国人だったため、希望などまったくないように感じました。それでもハンガリー人の人脈を通じてなんとか仕事はしていました。
「イングランド銀行を潰した男」として有名に
その後、父親がニューヨークで小さな株式仲介会社を経営しているという同僚を通じて大西洋を渡り、アメリカで初めて職に就きました。
そして、アメリカで得た人脈を使って、ソロスは後には世界有数となるヘッジファンドを設立しました。
1990年、イギリス政府は欧州為替相場メカニズム(=欧州域内通貨間の為替レートを事実上固定する制度)に加入。
その後、欧州での金利は高めに推移し、ポンドの価値も実勢から大幅に乖離していました。
それに目をつけたのがソロスで、ポンドに大量の売りを入れ、安くなったところで買い戻す取引を実行。
イギリス政府はこの売り浴びせに対して、公定歩合を上げるなどの措置を講じましたが、売り浴びせは続き、とうとう1992年9月、イギリスはERMからの脱退を決め、ポンドは変動相場制に移行することになったのです。
この件で、ソロスの率いるヘッジファンドは10億ドル以上の利益を得て、ソロスは「イングランド銀行を潰した男」としてその名を世界に知らしめることになりました。
これ以降、大成功した投資家として有名になったソロスですが、世界中で富豪は何人もいるわけですから、経済的成功だけで金融業界で頭角を現せるものではありません。
80年代後半、ソロスはブッシュ元米大統領やサッチャー元英首相、ゴルバチョフ元露大統領と政治問題について論じる機会を求めましたが実現せず、国際通貨金(IMF)や財務省のスタッフにも「また利権欲しさに近づいてきたただの金持ち」と相手にされませんでした。
そこでソロスは、思想的リーダーを目指すことにしたのです。
まずコンテンツ作りに取り組みました。
若い頃からずっと社会にインパクトを与えることを望んでいた彼は、哲学、経済、政治に関する持論を磨いてきました。それでも、『ウォール・ストリート・ジャーナル』や『ニューヨーク・タイムズ』で論考を発表できたのは、90年代前半、60代半ばになってからでした。
それまでは厳しい批判の中、不屈の精神で文章や本を発表し続けました。
最も代表的なのが、自らの成功の大きな要因になったと本人も認める、哲学者カール・ポッパーの考えを部分的にベースにした「再帰性(reflexivity)」理論です。
思想的リーダー、慈善家への道
ソロスの考え方はまだ世の中に受け入れてもらえなかったものの、彼自身はゆっくりと地位を確立し始めていました。
メディア露出によって徐々に評判を得て、それと同時に影響力も強めていきました。本人の話によると、ある日突然、政府が聞く耳を持つようになったそうです。
お金儲けは、単に欲求に従っているだけのように見られがちですが、それを手放すことで、社会的な立場を高めることができるのです。
80年代、ソロスは慈善事業に関わり始め、93年には、説明責任を果たす政府と寛容な社会の構築、教育、保健、社会正義システムの支援などさまざまな取り組みを目的としたオープンソサエティ(開かれた社会)財団を設立しました。
現在では世界中に拠点を置き、そのネットワークはソロスが関係している以外のネットワークとも相互につながっています。
さらに90年代には、致命的紛争の防止と解決を目的とする国際危機グループ(ICG)と、世界中の腐敗を監視・公表するトランスペアレンシー・インターナショナルの設立に力を貸しました。どの組織も非営利、非政府系の独立組織です。
ソロスは他にも政治関連を含め、多数のイニシアティブの発足を支援し、07年には、政治家、意思決定者、思想的リーダー、企業家100人以上によって構成され、ヨーロッパの問題に取り組む独立系シンクタンク、欧州外交協議会(ECFR)の設立に尽力しました。
09年には、学術研究や教育の改革に取り組み、経済界の著名人が諮問会議のメンバーを構成する新経済思考研究所(INET)を設立しました。
慈善事業家として有名になったことで各界に受け入れられ、それは彼の事業を後押ししましたが、ソロス自身は、ビジネスに慈善事業は不要であり、むしろそれによって判断が鈍ることを懸念しています。
彼は広汎な人脈を築くことの重要性を理解しており、そのことこそが彼を金融エリートへと躍進させ、「スーパーハブ」たらしめたのです。