夢中になるからこそ「やり抜く力」は生まれる

境地,加藤一二三
(画像=The 21 online)

「ひふみん」の愛称で親しまれ、今やテレビで見ない日はないと言えるほど大人気の加藤一二三九段。愛嬌のあるキャラクターが注目されがちだが、数々の記録を樹立してきた偉大な棋士である。とくに、約63年の間、第一線で戦い続けたという最長現役記録には、敬意を払わずにいられない。その仕事観、すなわち「将棋観」とはどのようなものなのか、お話をうかがった。

引退の日まで、「負けると思ったことはない」

2017年6月20日、「神武以来の天才」と呼ばれた加藤一二三九段が現役引退を表明。昭和の将棋界を沸かせた棋士の引退により、時代に一つの幕が降りた。

その現役生活にわたり数々の記録を樹立してきた加藤氏だが、すべてが順風満帆だったわけではない。42歳で名人になったものの、引退直前にはC級2組まで順位を下げていた。それでも盤面に向かい続けたのは、なぜなのだろうか。

「将棋の世界には、名人を決める順位戦というものがあります。全棋士がA級からC級2組までの各リーグに所属し、戦績によって昇降級する制度です。私は、引退直前、C級2組に所属していました。勝敗次第では引退しなければならないクラスです。

一見、将棋を知らない人からすれば、私が名人から一気に最下位まで下りたようにみえるかもしれませんが、A級という一番上のリーグから50年ほどかけて下りてきていたのです。そこには、一つひとつ挑戦し続けた結果があり、歴史があるのです。

そのすべてのクラスで対戦した経験から、私はA級とC級2組の差は紙一重だとわかりました。そもそも、プロの棋士たちは天才の集団。誰がいつ勝ってもおかしくはないのです。逆もまた然り。トップの人間が落ちていくことも稀ではありません。つまり、いつでも下剋上できる可能性があるのです。

また、相撲の世界では、横綱が負け続ければ引退を余儀なくされますが、将棋の世界には名人が負け続けても引退勧告はされません。順位を落としても、一つひとつ上がっていけば、再びタイトルを取るチャンスが残されています。

だから、私は平然と戦い続けることができたのです」

引退する最後の日まで、「負けると思って戦ったことはない」と加藤氏は言う。

「私がライバルだと思っていたある棋士に、8年間勝てないときがありました。20連敗したのですが、そのときですら自分が弱いから負けたのではなく、たまたま負けただけだと思っていました。

藤井聡太四段も、『どんな人でも対等に戦う』とおっしゃっていましたけれども、おそらく彼は、名人をそそり立つ山だとは思っていない。その場の雰囲気に飲まれなければ、勝てるチャンスがあると思って盤面に向かっているのでしょう。私も同じ思いで引退の日まで戦ってきました」

旧約聖書から学んだ「勝負の心構え」

数々の名勝負を繰り広げてきた加藤氏には、勝負の中で大切にしている4つの心構えがあるという。

「私はクリスチャンなので、旧約聖書に書かれた言葉を大切にしています。旧約聖書の中に、『戦うときは勇気を持って戦え、敵の面前で弱気を出してはいけない、慌てないで落ち着いてことを進めろ』という言葉があります。『勇気を持って戦う』『相手の目の前で弱気を出さない』『慌てない』『落ち着く』。この4つは、私が対局のときに大切にしている心構えです。

この言葉は1982年の名人戦の決戦前夜に聖書をめくっていて、目に留まったものです。名人戦を前に、ナーバスになっている自分にピッタリな言葉だと感じました。結果、対局中に何度も自分に言い聞かせ、名人になることができたのです。

とくに、『相手の目の前で弱気を出さない』は重要です。相手が自分の知らない手を自信満々に指してきたときなど、『まさかこの手は研究し尽くされていて、相手は詰みまでの手順が見えているのではないか』と疑心暗鬼になりがちだからです。

勝負の局面は、自分の気持ち次第で大きく変わります。気持ちが乗っているときは、『相手の手などたいしたことない』と思えるのですが、相手の自信に気持ちが揺らぐと、『うっ』と気圧されてしまう。勝負の最中に弱気になっていては、どんどん相手のペースに引き込まれてしまいますから、私は常にこの言葉を大切にしてきました」

無心だから、直感は9割正しい

将棋は、一瞬の気持ちの揺らぎが勝負を左右する厳しい世界。また、頭脳を極限まで酷使する世界でもある。ただ、考え抜いてもいい手が浮かばないことも多々あるはず。そんなときはどうしているのだろうか。

「1968年、大山康晴一五世名人と対戦して勝ち、私が十段になったときのことです。この対局で、一手を指すために七時間考え抜き、勝利を収めることができました。実はこのとき、直感によって最高の手を見つけ出すことができました。『この手があった!』という明確な閃きではありませんでしたが、『長く考えたら、このあたりに必ずいい手があるはず』と直感したのです。

余談ですが、対局中に相手の側に回り込んで将棋盤を眺める『ひふみんアイ』も、『見方を変えれば何かあるはずだ!』という直感から生まれました(笑)」

将棋は、ロジカルな世界だとばかり考えていたが、加藤氏はあえて直感を大切にしているという。

「『直感精読』という言葉があるように、私は直感こそが本質を掴んでいると思います。なぜなら、直感は無心であり邪念がないからです。

むしろ、後から浮かんだ手というのは、私にしてみれば罠。『勝手読み』といって、自分の都合にいいように今後の展開を考える可能性が高いからです。そこには、どこか希望的観測やヌケモレがある。持ち時間を使って考えるならば、『この直感は果たして正しいのか』を検証したほうが有意義なのではないでしょうか。

ちなみに、羽生竜王はご著書で、直感は70%の確率で正しいと書いていました。ものすごく謙虚だと思いました。私の場合は、どんな対局でも盤面を見た瞬間に、95%くらいの確率で最善手が浮かびます」

棋士以外の人生を、考えたことはない

ただ、この大山氏との一戦後、加藤氏は棋士として行き詰まりを感じたという。

「自分で納得のいく将棋が指せずに、棋士としての人生に展開がないのではないかと思い悩んでしまったのです。

そこで私は、かねてから興味のあったキリスト教の洗礼を受けることにしました。洗礼を受けて自分にバックボーンができてからは、気持ちがブレなくなりましたね。

というのも、キリスト教ではどんな仕事であってもいい意向を持って仕事をすれば、それをよしとすると教えられています。そして、仕事をするのならば、より上を目指しましょうとも教えているのです。これはどんな仕事でも同じでしょう。私もこの教えがあったからこそ、これまで将棋を続けられたのだと感謝してします。

あくまで私の例ではありますが、かねてより興味のあることを実行するのは、行き詰まった状況を打開し、自分の世界を変える一つの方法だと思いますので、ぜひ試してみてください」

さらに、棋士は天職だと確信を深められたことも、将棋を続けられた大きな要因だと語る。

「長い将棋人生を送っていると、名勝負に出合ったり、まだ誰も指したことのない美しい一手を見つけることがあります。これぞ、将棋の醍醐味でしょう。こうした感動を、一人でも多くの棋士や将棋ファンに伝えたい。そう考えたとき、私は棋士として存在意義を見出すことができました」

ただ、今は多くのビジネスマンが「転職」する時代。一方「天職」はなかなか見つけにくい。

「確かに、私の若い頃は転職する人は少なかったけれど、今はそれが普通の時代ですね。仕事を簡単に変えられることが、『これが天職だ』と言いにくくしているのかもしれません。私自身、洗礼を受けるまでは、曖昧模糊としたところがありました。

ただ、私は自分の指した対局が何百年経っても、後輩や将棋ファンの喜びにつながると信じているからこそ、棋士が天職であると考えています。みなさんも、自分の仕事が誰かの喜びにつながっているのであれば、その仕事を天職だと信じて、続けてみてはいかがでしょう」

「感動する力」が、将棋を続ける原動力

加藤氏は、棋士として数々の記録を樹立してきた。ただし、これはあくまで一つの結果であり、記録のために棋士を続けてきたわけではないと指摘する。

「私を始め、多くの棋士は勝敗以上に、将棋の醍醐味や感動を大切にしている。だからこそ、将棋を指し続けているのです。

かつて、C級2組に負けた名人が、『将棋をやめようかと思った』と発言していました。よもや負けるとは思っていなかったのでしょう。しかし、私からすれば、これは大変未熟な言動です。そもそも、将棋への敬意が感じられない。私は、将棋は音楽のように、人を感動させる芸術と同じようなものだと感じています」

それでも、厳しい勝負の世界である以上、辛いこともたくさんあったはず。将棋をやめたくなったことはないのだろうか。

「将棋をやめたいと思ったことは一度もありません。よく、『戦い続けるのは苦しいのでは?』と質問されますが、棋士が勝負に夢中になれるのは、勝負自体に感動しているからです。もっと言えば、考えている中にこそ喜びがあり、楽しみがある。だから、私は一番いい手を考えているときが何より楽しいのです。単純な勝ち負けの問題ではありません。

仕事も同じではないでしょうか。成功と失敗だけを尺度に仕事を続けていては、いつか行き詰まります。それよりも、夢中になれる仕事をしていきたいものです」

天才棋士 加藤一二三挑み続ける人生
(画像=The 21 online)
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加藤一二三(かとう・ひふみ)将棋棋士
1940年、福岡県生まれ。14歳で当時史上最年少の中学生プロ棋士に。58年、史上最速でプロ棋士最高峰のA級八段に昇段し、77歳で引退した現役最年長棋士(当時)。現役期間は最長不倒の63年と数々の記録を持つ。2000年、紫綬褒章を受賞。17年、「ひふみんアイ」で歌手デビュー。幅広く活躍中。《写真撮影:榊 智明》(『The 21 online』2018年3月号より)

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