生産性上昇のために、企業内での分業を徹底させることが、スキル向上と時間節約、そしてイノベーションと機械化にも資する。大野耐一氏のカンバン・システムは、顧客のニーズに基づいて生産工程がムダなく行動する原理を展開させた。ドラッカーやシュンペーターは、経営者の精神が新しい成果を生み出すと喝破する。サービスの生産性上昇には、視点を人口集積や立地政策に向ける方法もある。

誰もが知っている古典からの引用

 働き方改革を推進しても、生産性上昇には影響が乏しい。ならば労働時間が減る分、家計所得は減るだけではあるまいか。こう筆者が考え始めて、生産性上昇のために何が必要なのかをあれこれと調べてみた。現代の経済学は、筆者にはほとんど有益な知識を授けてはくれない。おそらく、現代経済学にとって、生産性はブラックボックスなのだろう。筆者は行き詰った結果、200年以上前の経済古典を書棚から取り出した。すると、何と明快に記してあることか。古典の中には生産性をどうすれば上昇させられるかという知恵が詰まっている。

 本稿を読んでいる100%の人がアダム・スミスの国富論を知っているはずだ。実は、国富論の1ページ目の書き出しが次のように始まっている(2007年3月出版の山岡洋一訳)。

「労働の生産性が飛躍的に向上してきたのは分業の結果だし、各分野の労働で使われる技能や技術もかなりの部分、分業の結果、得られたものだと思える。」

 生産性上昇のためには分業が大切であり、分業を進めるとスキルが向上して生産性を押し上げるといっているのだ。有名なピンの例示はこの話しの後に続く。

 ピン、裁縫用の待ち針を作る製造業では、「1人目が針金を引き伸ばし、2人目が真っ直ぐにして、3人目が切り、4人目が先を尖らせ、5人目が先端を削って頭がつくようにする」。従業員がピン製造の技能を身につけていないとすれば、1日1本すら作ることが出来ないだろう。しかし、熟練技術者が分業すれば10人で48,000本以上、つまり4,800倍の生産性を得ることが出来る。興味深いのは、アダム・スミスがさらに一歩踏み込んで、分業のメカニズムを3つに分解していることである。

(1) 分業によって作業工程を単純に分解すると、職人はそのプロセスについての技術を向上させて、1人がこなせる仕事量を増やせる。
(2) 1つのプロセスから別の種類の作業へと移るときの無駄な時間を節減できる。
(3) 分業の結果、各人はごく単純な目標に自然と集中し、まもなく適切な機器の使用に気がつく。

恐らく、筆者が本稿で語ろうとしていることの大方は、上記3つのアダム・スミスの整理にほぼすべて含まれている。分業に伴って生じる①スキル向上、②時間節約、③イノベーションと機械化、という表現の変換ができると思う。敢えて言えば、アダム・スミスは、「市場の大きさによる分業への制約」があると加える。市場が大きくなると、自分の生産物のうち自分が消費するもの以外の部分を、交易などによって他人の労働の生産物と交換することができるという条件が成り立つという。

リカードの交換の利益

 TPPが成長戦略だと言うとわかりにくいかもしれない。関税率をゼロにして、なるべく日本と加盟国の間で、内外のルールや規制の違いをなくして貿易圏を広げていこうと言えば、成長戦略の説明としてもう少し丁寧かもしれない。逆に、関東と関西の間に関所を設けて国境税を課せば、日本の商圏が2つに独立して、交易圏は狭くなる。そうなると交易は停滞する。

 アダム・スミスが指摘する分業の利益は、交換の範囲を広げて分業の成り立ちが容易になるほど生産性が上がるという展開もできる。これを積極的に説いたのが、古典派経済学者のデービッド・リカードである。農業が得意な国と、ハイテク産業が得意な国の間で貿易が盛んになると、効率が上がる。各国が得意な製品作りに特化してそれを交換するという比較優位構造を生かした経済交流である。

 個別企業について言えば、すべての製造工程を自社で行うのではなく、他社や下請けに外注・委託することは、分業と同じである。最近では、総務部内の仕事をクラウドで処理したり、部署の仕事をアウトソースする方法がある。分業とは、より効率的に作業ができるチームに行程を任せることを指す。自社の各部署が本当に特化して生産性を高めていれば、その部署を拡大させ、逆に特化の成果が見込めないと思えば外部委託するという方法もある。選択と集中が言われるのは、その背後に分業のメリットを徹底させるという背景がある。

ものづくりの巨人

 労働生産性とは、1時間当たりの作業パフォーマンスを最大化することである。繰り返される日常業務の中で、このパフォーマンスを少しずつ向上させる。スキルの成果を漸進的に高めていくプロセス管理が重要になる。

 実は、そのプロセス管理のミッションを「無駄をなくす」とすることで、組織全体に生産性上昇の好影響を波及させようとしたのが、カンバン・システムである。ジャスト・イン・システムと一般化されることもある。ものづくりの巨人、大野耐一氏の「トヨタ生産方式」は、生産する部署が必要量を見積もって出荷するという方法ではムダが発生すると見抜いた。米国のスーパーマーケットからヒントを得て、顧客からの注文書に基づいて、必要な部品(商品)を、必要なときに、必要な量だけ、用意しておく方式を考え出した。その注文書がカンバンである。カンバンで指示された時間にちょうどよく製品を揃えておき、事前に在庫を持たないことを徹底させた。在庫とは、作りすぎであり、ムダの象徴でもある。倉庫や管理人、無数の伝票が在庫の発生によって必要になる。

 現在、ホワイトカラーの生産性を高めるために、製造ラインの無駄取りのノウハウが参考にされている。多くの職場では顧客からのニーズに基づかない、ホワイトカラーが自分たちで決めた仕事量が過大な労働時間を生んでいる可能性はある。残業時間を絞り込んで所定時間内に潜んでいるムダを洗い出すことは、働き方の改革にはどうしても必要になると考えられる。自分の仕事のミッションは何か。それに照らして、無制限にパソコンを眺めたり、情報検索をすることが本当に必要なことか。おそらく、電車の中でスマホをいじくっていることと、業務中のIT機器の使い方は全く違うはずである。

 時間の管理、使用法に言及しているのは、ピーター・ドラッカーである。「経営者の条件」では、個人の仕事術についても、「時間を無駄に使わせる圧力は常に働いている」とし、誰でも「成果には何も寄与しないが、無視できない仕事に時間をとられる」と言う。自分の時間の使い方を診断して、記録をとって「時間を浪費する非生産的な活動を見つけ、排除していく」練習をすることを推奨する。そして、1日の労働時間のうち、自由にならない時間を削りこんでいき、「真の貢献をもたらす大きな仕事に利用できる自由な時間を大きくまとめる必要がある」と言う。そういえば、日本経済新聞の私の履歴書の中で、日産自動車のカルロス・ゴーン会長は、「1日が忙しいと感じるのは、まだ効率化が十分でないからだと思う」と述べていた。

 生産性を論じるとき、よく効率性と生産性は違うという意見を述べる人がいる。これは筆者の意見であるが、時間に関して極限まで効率化ができないと、生産性を高める自由な時間を作って、成果を上げることはできないと思う。両者を同一視してはいけないという意見はよく聞くが、そうした意見は生産性の前提として効率化が求められていることを軽視しがちになると考えている。

イノベーションの精神

 通説的な経済学では、生産要素を労働、資本、技術の3つに分けて、生産要素の投入によって生産が増えるとする。労働生産性を高めるには、資本と技術の投入量を増やせばよいということになる。しかし、資本と技術を同列に考えてよいかと言うと疑問は残る。計測上、技術進歩は、労働と資本の残差となるから、インプット(投入量)そのものではなく、インプットで説明できない扱いとするほうが適切である。厳密に考えると、生産=アウトプットは、生産要素=インプットと生産要素の組み合わせ=技術で決まると分類するほうが正しい整理になろう。技術革新とは、組み合わせを変えて、生産性を向上させることである。ジョセフ・シュンペーターは、「経済発展の理論」でイノベーションという概念を発明した。この概念は、新結合と訳されている。筆者は、技術進歩=イノベーションと表現するとその実像がぼやけてしまうと感じる。むしろ、新結合として、労働と資本の新しい結合方法の発見が重要と理解するほうが適切だと考える。

 ところで、人口減少であっても、イノベーションが起これば成長の限界はないと語られる。これは、新結合を連続させれば、インプットが増えなくとも成長できるという説明に意訳できる。もっとも、この説明は、冒頭、生産性をブラックボックス化する現代経済学の特徴を端的に表していると思う。

 多くの人が知りたいのは、新結合を連続させるメカニズムである。技術進歩の計測が事後的にしかできないとすれば、事前に答を求める人々にとって、イノベーションは生産性上昇の解とはならない。むしろ、新結合を生み出す条件のところを深堀りすることが求められる。

 シュンペーターの「経済発展の理論」はそこを研究している点で価値がある。シュンペーターの著作は、新訳であっても難解であり、読み進めるとすぐに文脈を忘れてしまう。シュンペーターの重要な指摘を述べると、経済発展の根本現象は、需要側ではなく供給側から生まれる新結合とされる。「経済における革新は、新しい欲望がまず消費者の間に自発的に現れ、その圧力によって生産機構の方向が変えられるというふうに行われるのが常である」とする。このイニシアチブは、企業経営者が主導するもので、絶えず新しい結合を模索する精神だという。これが企業家精神と言われるものだ。企業経営者であっても「彼が一度創造された企業を単に循環的に経営していくようになると、企業者としての性格を喪失する」と厳しく語っている。

 筆者はシュンペーターの言う企業化精神の創造性は、ドラッカーの言う「自由な時間」をつくる精神と共通すると考える。経営者がルーティン化した仕事のプロセスを最小化して、創造性に費やす時間を最大化するかが新結合の条件になる。労働生産性を中心に考えるときには、生産性を高めるために費やす時間的余裕を増やして、そこに創意工夫と情熱をかける。おそらく、効率化を徹底させるという禁欲的な態度が、生産性上昇の基礎になっている。

サービスの生産性

 古典から学ぶ生産性上昇の解は、もしかすると製造業を意識したものだと理解されるかもしれない。確かにサービス業について分業をあてはめることに難しさは付きまとう。筆者は、それでもアダム・スミスが挙げた「市場の大きさによる分業の制約」という指摘は考えるヒントになっている。サービス業の生産性を向上させようとするとき、「市場の大きさ」は重要である。言い換えると、市場が小さくなると生産性を高めにくくなる。例えば、人口が減少する地域では、需要減少によって生産性も落ちていく。高齢化によって消費者のほとんどが年金生活者になると、購買力が低下して高付加価値のサービスを敬遠する傾向が強まる。その地域のサービス業が需要の弱さに順応して、働き手を非正規化へとシフトさせていくと、地域の購買力はますます低下する。

 逆に言えば、サービス業の生産性を高めようとすれば、豊かな住民を多く居住させればよい。これは古典ではないが、エンリコ・モレッティの「年収は『住むところ』で決まる」という著作がある。ある生産性の高い企業が都市に立地されると、その企業に属していない労働者まで豊かになるという。このメカニズムは、教育レベルの高い労働者と同じ地域に居住して教育を受けると同調して教育水準が高まるという波及効果(外部性)が生じるからだと説明される。ほかにも人口集積で需要を狭い地域に集中させることが、地域のサービス業の賃金(生産性)を高める。サービスの生産性を地域と言う単位で考える視点は面白い。

 わが国のサービスの生産性は、人口減少と高齢化、非正規化という逆風を受けて、甚だしく上昇しにくくなっている。これを逆転させるには、人口集積と高付加価値産業の立地を増やすと言う困難な条件変更が必要になる。日本各地で都市の外側に地価が安い住宅地が開発されて、人口が郊外に散逸している。これが都市の中心市街地の産業の荒廃を招いてきた。誰もそれに歯止めを掛けないので、郊外住宅地の高齢化によって自家用車が使えない住民が増えて生活が不自由になるという悪循環が起ころうとしている。もしも、20年早くコンパクトシティへと舵を切っていれば、都市の介護・福祉・医療の生産性を高めることができたと後悔する。サービスの生産性を高めるための地域づくり、立地政策を日本が高齢化する手前で実施すべきだった。

生産性問題のまとめ

 長くなったので最後にまとめてみたい。一般的に分業は、企業の生産性を向上させる。海外との貿易を通じて、日本が得意分野に特化すると、産業全体の平均的な生産性を高められる。個別企業では、ムダを省くという労働時間の効率化によって生産性は高まる。そうした効率化で生み出されて余裕の時間を、新しい技術、仕事の手法の開拓へと振り向けることが付加価値の創造に寄与する。そこでは、経営者の創意工夫と情熱が、新結合の発見の原動力になる。人口減少・高齢化が進んだ我が国は、サービスの生産性が上がりにくいので、人口集約や立地政策の見直しを進める視点も重要である。アダム・スミスの国富論から出発して様々な発想の展開が可能である(提供:第一生命経済研究所

(参考図書)
アダム・スミス「国富論」(2007年、日本経済新聞出版社)
大野耐一「トヨタ生産方式」(1978年、ダイヤモンド社)
ピーター・F・ドラッカー「経営者の条件」(2006年、ダイヤモンド社)
ジョセフ・シュンペーター「経済発展の理論」(上・下、1977年、岩波書店)
エンリコ・モレッティ「年収は『住むところ』で決まる」(2014年、プレジデント社)

第一生命経済研究所 経済調査部
担当 熊野英生