頭の体操として、ヘリコプター・マネーの実験が何をもたらすかを考えてみた。下手すれば、政府の財政規律は損なわれて、円の信用度が低下する。国債の信用力は、将来の納税額で政府債務を穴埋めできるという信用によっているから、永久国債で得た資金で減税することは、信用低下に一気に拍車をかける行為となる。

日銀に財源を求める

 金融政策には、次々に奇説・珍説が登場してくる。日本は実験台にされているのではないかと心配になってしまう。日本に対して政策プロモーターが売り込みをかけてきて、安易にそれが受け入れられてしまうように見える。マイナス金利政策、インフレターゲット、量的緩和などなど。少し前まで少数の経済学者しか唱えていなかったアイデアがいつの間にか、本物の金融政策の現場で採用されることになってきた。

 7月初に、前のFRB議長だったベン・バーナンキ氏が安倍首相のところを訪ねた。バーナンキ氏は公職を離れて現在は学界へと戻っている。そのバーナンキ氏が究極の奇説として持ち出したのが、ヘリコプター・マネーである。

 空から紙幣をヘリコプターで散布すれば、否応なくインフレは起こせるだろうという説である。実際にお札をばら撒ける訳ではないので、家計への減税をするときに、日銀への国債引き受けによって政府が財源を求めれば、例示したヘリコプター・マネーと同じことができる。

 もっと実務的に言えば、満期のない永久国債というものを政府が発行し、これを日銀が直接引き受けをする。返済義務がないので、通常の政府債務の増加とは区別される。政府がこの便利な仕組みを何度も使って、都合よく歳出拡大をしないという約束ができれば、デフレを終わらせるという目的に限ってヘリコプター・マネーを容認してもよいという政策提言である。

節度は失われる

 しかし、政府がこの便利な仕組みを何度も使わずに済ませられるであろうか。筆者は、国民に増税を求めずに、財源を日銀に求めることが可能になれば必ずや財政の節度が失われると考えられる。子供が働かないで親から小遣いを無制限にもらえるとすれば、勤労意欲は全く湧かなくなるのと同じである。これに対して、ヘリコプター・マネーの容認論者が、財政規律を厳格に守れる仕組みが設けられさえすれば、中央銀行の直接引き受けを通じて、政府が歳出拡大しても支障ないとする。問題の核心は、政府の財政規律を担保する制度ができるかどうかである。財政再建の縛りがきつくて、日銀の直接引き受けを頼りに歳出拡大をしようというのだから、財政規律がなし崩しになるに決まっている。仮に、歳出拡大が、将来の税収増と無関係にできるようになれば、歳出増に歯止めが効かなくなる。政府が市場で国債を消化しなくても、日銀から資金を工面できれば、国民の納税意識も低下して、自分たちが納税する必要がないのではないかと思い始める。そうなると、国債の償還能力も疑われて、国債の信用度も地に落ちる。まさしく悪魔的政策である。

インフレは起こせるのか?

 ところで、国民に大減税をすれば、すぐにインフレが起こせるのだろうか。例えば、国民1人当たり10万円の減税を行うことを考えよう。日本国民全体で12兆円のコストがかかり、それが12兆円の永久国債による資金調達でまかなわれることとなる。この永久国債は、日銀が直接引受けする扱いにする。これで、国民は1人10万円に相当する消費を行うであろうか。

 もしも、この減税が一度だけのものならば、多くの国民は10万円を貯蓄するだろう。仮に、国民が10万円を使うとすれば、一回限りではなく、将来もまた減税が得られると予想するときだ。消費喚起を狙うとすれば、この種の減税が定期的に何度も行われることになる。一時的所得の増加には反応せず。恒常所得の増加だと確信したときに、消費者は消費拡大に動く。経済学ではおなじみの考え方である。

 しかし、ヘリコプター・マネーが継続的な政策として発動されると、永久国債の日銀引受けが歯止めのかからないものになる。これは、財政規律を保ちながら、日銀引受けを実施するという厳格なルールを敷くことと矛盾する。

 また、減税が一度だけと約束しておいて、政府が約束を守らないと国民が疑ったとしよう。そのときは、減税が消費に回るであろうか。おそらく、国民の中には、財政に対する不安感も高まる。そうすると、将来不安は強まり、消費に回るよりも、貯蓄が増える。そして、貯蓄の中では、貯蓄の価値が目減りすることを警戒して、外貨投資へ円預金が振り替わる資金もあるだろう。これは円安圧力になる。

 ヘリコプター・マネーがどのくらいの規模で行われるかを予想して、金融市場は円安を予想する。貯蓄を外貨に振り向けることの予想が円安予想を生む。こうして生じた、円安を私たちは歓迎することはできない。円の信用度が疑われて外貨シフトが起こっているので、円安が示しているのは日本売りと同じ効果である。割安になった日本企業を、外貨を持った海外企業が買収しやすくなるという意味である。

永久国債を日銀が引受ける意味

 日銀が永久国債を買い取るということは、通常の国債発行とどう違うのだろうか。日銀が引受けた永久国債には、返済義務がないので、政府債務とは異なって都合がよいと考える人もいるだろう。しかし、通常の国債発行が、将来の納税資金を担保として行われていることを忘れてはいけない。返済義務のない永久国債は、無担保も同然になる。政府債務の中で、税資金の裏付けのない永久国債を増やすほど、日本の財務全体の信用力が低下することになる。これは、実質的に政府債務の担保力を乏しくさせるからである。

 さらに、政府が永久国債で調達した資金で、国民に減税するとなれば、それは将来の納税責任を現在の永久国債による資金で入れ替えていることになる。つまり、政府債務の担保力を一段と低下させて、信用度を失わせる行為に拍車をかけているのと同じになる。この効果はさらに、円の信用度を落とすことになる。

 政策の中には、一度、足を踏み入れると取り返しがつかない結果を招くものがある。そうした危険な政策をどこかの国で試したいという誘惑に駆られる研究者・学者が登場したとき、それに理性をもって歯止めをかけるのが私たちの現役世代に課せられた責任である。(提供:第一生命経済研究所

第一生命経済研究所 経済調査部
担当 熊野英生