就業者1 人当たりの所得を増やすには、1 人が稼ぎ出す収益を増やさなくてはいけない。現状、サービス産業は3 人に1 人の就業者を占めているが、その生産性は年々低下する傾向を辿っている。雇用を吸収していく医療・福祉・介護分野の生産性をどうやって引き上げていくかは、課題の中核問題となっている。
豊かになるための方程式
国民が豊かになるためには、賃金が上昇することが望ましい。では、賃金が上昇するためには何が必要になるのだろうか。その答えは、1 人の就業者が稼ぎ出す収益が増えることである。国全体では、付加価値または生産物の増加と言い換えられる。経済用語を使うと、1 人当たり労働生産性が増えれば、その中から労働分配が行われて、所得も増える。
<生産性の方程式(2013 年)> 1 人当たり所得=1 人当たり生産性×労働分配率 412 万円 798 万円 51.6% 生産物(GDP)=1 人当たり生産性×就業者数 518 兆円 798 万円 6,485 万人
一方、日本では、これまで長期不況が続き、国民が豊かさを感じられなかった。その原因も日本の労働生産性がそれほど伸びなかったことにある。その背景を調べると、ひとつには、産業の中でより労働生産性が低い分野であるサービス産業が拡大して、全体の生産性を低下させていたことが指摘できる(図表1)。2001 年から2013 年にかけて、全体の就業者数は△0.4%減少し、この間、サービス産業の就業者数は+15.8%(288 万人増)となっている。全体の一人当たり生産性は、798 万円(2013 年)である。これに対して、サービス産業の生産性は、57%に相当する458 万円でしかない(1 人当たり平均所得は、全体平均412 万円に対して、サービス産業が245 万円)。サービス産業が就業者に占める割合は、2001 年の27.9%から2013 年は32.5%へと上昇している。雇用全体の1/3 を占めているサービス産業の生産性を高めなくては、働く人々が労働を通じて豊かになれない図式である(図表2)。
ところで、なぜ、サービス産業は生産性が低いのであろうか。一つの理由は、サービス料金が低すぎることである。サービス産業の中で特に生産性が低い種類は何かを挙げてみると、飲食店167万円、洗濯・理容・美容189万円、持ち帰り・配達・飲食サービス192万円が目立っている(総務省「経済センサス」2012年、図表3)。飲食店は就業者が326万人もいるが、生産性自体が低いために高い賃金を支払うことが難しくなっている。他にも、医療・福祉(555万人)、教育・学習支援(153万人)といった雇用吸収力の大きな分野でも生産性が高くない。消費者の購買力が弱く、価格を引き上げることができないので、デフレに順応して、薄利多売の競争を挑む事業者が多く、業界全体の収益性が高まらない。雇用者は自ずと非正規化が進んでいく。
サービス産業の生産性問題の背後には、需要の弱さがあって、それは消費者が高齢化していて高品質・高付加価値を望まなくなっていたり、雇用の非正規化によって勤労世代であっても低コストのサービスしか選ばないという構造問題が横たわっている。わが国は、低賃金だから需要が弱くて生産性が上げられない、生産性が低いから賃金も低いままというデフレの負の連鎖を断ち切れないでいる。
有効な処方箋はある
実は、経済学では、すでに低生産性構造を脱却するための処方箋は概念的に用意されている。それは事業者を激しく競争させるという方法である。特に、競争制限的なルールを敷くことで、本当はもっと少ない事業者でやっていける業界がある。営利を追求して、効率性を高める技術を積極的に導入すれば、短期的には淘汰が進むとしても、中長期的には供給的でも改革によって生産性が上昇するトレンドに変わる。淘汰が進むことで、生産性の低い部内には就業者が集まりにくくなり、より生産性の高い部内へと雇用がシフトしていく世界観である。こうした処方箋を「過剰供給能力の削減」という表現で表す人もいる。
しかし、論争はここから始まる。代表的な反論は次の3つであろう。(1)過剰供給能力を淘汰によって削減しようとすると、失業が増えて逆効果になるのではないか。(2)飲食店やタクシーなどはすでに競争が激烈であり、過当競争は供給能力が棄損される結果を招く。(3)医療や福祉・介護分野を競争にさらすと、社会的弱者がサービスを受けられなくなる。
この3つの反論を上手に交通整理しなくては、具体的な政策の推進へと話を進められないだろう。
それぞれの反論に対して、再反論を試みると次のようになる。まず、(1)過剰供給能力への対応は、中国の鉄鋼問題の仮設例として考えることが有効である。当事者ではない日本から見れば、中国の過剰な鉄鋼生産能力は早晩廃棄してもらうしかない。その利害調整に時間をかけるほど、世界的な鋼材デフレの巻き添えになって、各国の鉄鋼産業を打撃する。中国自身は、失業に苦しむかもしれないが、それは個別の事業者の失敗である。中国が公的に支援救済をするほどに世界の鋼材デフレが長引く。
次に、(2)飲食店やタクシーと、あらゆる他の分野を同列に扱うことは相応しくない。飲食店とタクシーは、参入障壁が低く、しかも規模の利益が働きにくい。だから、過当競争に陥りやすい。恐らく、サービス分野で競争原理を働かせるべきだと言われている分野は、参入障壁が高く、本来は規模の利益が働かされるのにそれを積極的に行っていない分野である。サービスの生産性を上昇させるには、一般的ではなく、個別に競争のメリットの多寡を論じる必要がありそうだ。
最後に、(3)社会的弱者に対する配慮の問題。医療、福祉・介護は、競争原理を導入することへの心理的抵抗は根強い。もっとも、医療などでは範囲を限定して競争しても差し支えないと考えられる。混合医療を大胆に認めて、高度医療における採算性の向上や、株式会社の事業参入を認めて、医療事業の効率化を進める余地はある。無論、健康保険制度は社会的弱者に対する一定の医療レベルを担保するために維持すべきである。必要なのは、保険でカバーする範囲を見直して、生産性向上の余地を探るという方向性である。例えば、教育は義務教育の範囲を定め、高等教育でも国公立の学校を作って、教育ニーズの棲み分けを行っている。
医療・福祉・介護ほど雇用吸収力があるのに、そこで生産性を高められないことほど勿体無いことはない。今、安倍首相は、新しい三本の矢を掲げて、保育施設や介護施設の拡充をしようとしている。生産性データを調べると、保育所は292万円、老人福祉・介護事業は295万円である。政治的ニーズに基づいて、福祉を拡充することはある程度是認できるとしても、併せて生産性の課題を念頭において置く必要はあるだろう。
アベノミクスの生産性の問題
2016年の骨太方針でも、「生産性革命に向けた取り組みの加速」がうたわれている。具体的に、人材育成、教育、研究開発が挙げられており、中でも「サービス産業の生産性向上」を掲げた部分は核心にみえる。そこでの表記を例示すると「官民で設立したサービス産業の生産性向上協議会において、製造業の『カイゼン活動』など異業種のノウハウをサービス産業へ応用し、分野別の生産性改善のためのモデル創出・標準化を通じた優良事例の横展開を図る」とある。
また、労働力不足が深刻化する中、トラックの隊列走行やダブル連結トラックの早期実現、特車通行許可の迅速化、小型無人機(ドローン)による荷物配達、港湾の荷役機械の遠隔操作等により物流生産性の実現を図る」と事例を挙げる。
これらの表記でアベノミクス全体を論じることは適切ではないとしても、最近のアベノミクスがかつての岩盤規制を壊すと息巻いていた頃の勢いを失っているのは明白である。競争制限的な規制を撤退して、自由参入を通じて、事業者が必死になることで創意・工夫を引き出そうという発想から遠ざかっていることは残念である。
イノベーションを重視するだけでは不十分
サービスの生産性を向上させるために何ができるのか。先に、飲食店と宅配サービス、洗濯理容美容の3つが生産性の低い分野となっていた。労働生産性を上げるための新しい技術を導入するというのは正論であるが、具体的に飲食店などで、イノベーションが起こせるものだろうか。
例えば、飲食店では、店舗に出向く前に、スマホで注文を出して、指定した時刻に入店する。食事の待ち時間はゼロである。店の案内はロボットが行い、1人で来店しても、食事をしながらロボットと会話して楽しめる。こんな風景なのだろうか。予想されるのは、従業員が少なくなって、飲食店の生産性が上がるイメージである。
しかし、人の役割をロボットやソフトウェアで代替すると、飲食店などサービス分野から雇用が減ってしまう。そこで転職を余儀なくされた従業員がより生産性の高い仕事へとシフトすればよい。ただ、雇用シフトの先が高い生産性である保証はどこにもない。
過去を振り返ると、90年代以降日本経済は、製造業の雇用吸収力が低下して、雇用がシフトしていった先が必ずしも生産性が高くないサービス業になった。そう考えると今後、雇用を引き続き吸収していく分野になるだろう。医療・福祉・介護分野が相対的に低い生産性のままであれば、わが国の生産性を引き上げるという課題解決は難しいだろう。
歴史的な視点で見ると、1国の労働者が農家から商業へ移り、さらに製造業、サービス業へとシフトしてきた。農業の生産力革命、工業への労働力シフトを促し、さらに製造業の省人化がさらにサービス業へのシフトを促した。わが国の場合は、あまりに急速に高齢化が進んだために、サービス業の中でも医療・福祉・介護に労働力が固定化されやすかったのだろう。潜在的ニーズのある分野を、規制によってがんじがらめにしてはいけない。
一方、新・三本の矢は、高齢・女性就業のニーズの受け皿づくりを後押ししながら、もう一方でサービス産業全体の生産性上昇を目指そうという組み立てになっている。政治的な要請と経済的な目的の両立はなかなかに厳しい。(提供:第一生命経済研究所)
第一生命経済研究所 経済調査部 担当 熊野英生