(本記事は、齋藤 孝氏の著書『100年後まで残したい日本人のすごい名言』=アスコム出版、2019年7月26日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)
最初に背中を押してくれるのは、身近な人の言葉
新しいことにチャレンジするとき、決断しなければならないとき、迷いを断ち切りたいとき、行動を起こすパワーがほしいとき。ちょっと挫けたときや元気が出ないときも、誰かの言葉や存在が背中を押してくれることがあります。
ぽんと背中を押してもらうと、勇気、元気が出てきます。よし、やってやろうという気持ちになります。
創作意欲が盛んだったり、いつもエネルギッシュに動いたりしている人を見ると、「あのパワーはどこから湧いてくるのだろう」と思いますが、きっと「背中を押してくれるもの」があるのでしょう︒自分一人でそのパワーをまかなっているわけではないのです。
お笑いタレント、映画監督、俳優など複数の顔を持ち、「世界の北野」と呼ばれるビートたけし(北野武)さんだってそう。たけしさんはご自身のことを「マザコン」と言い、お母さんが大好きであることを公言しています。お母さんのさきさんが亡くなったときは、葬儀で人目もはばからず男泣きをしていたのが印象的でした。教育熱心で愛情深いさきさんが、子どもの頃はもちろん、大人になってからも背中を押してくれていたのでしょう。
「自慢、高慢、ばかがする」が口癖だったさきさんは、謙虚でいることの大切さをいつも教えてくれていたといいます。同時に、何も根拠はなくとも「北野の家はできるんだ。できて当然なんだ」と言い続けていたそうです。できる、できると言われているので、その気になって一生懸命やってしまう、努力してしまう。「自分はどうせこんなものだ」というように卑下したり見切ったりすることがないのです。
『智恵子抄しょう』が有名な詩人・彫刻家の高村光太郎は、洋画家だった長沼智恵子と出会って 以降、智恵子がいかに背中を押してくれていたかということを『智恵子の半生』の中に書いています。彫刻作品は真っさきに智恵子に見せ、毎晩、その日の制作について一緒に検討するのが光太郎にとってこのうえもない喜びでした。智恵子の感想、言葉が制作の原動力となっていたのです。
また、夏目漱石が芥川龍之介や中勘助に励ましの手紙を送り、彼らの創作の支えになっていたであろうことはすでに「はじめに」の中でお話ししました。
このように、家族、友人、先生、先輩、上司など、身近な人の言葉が背中を押してくれることはあるでしょう。大切に持っておきたい「マイ名言」です。
人格を感じながら本を読もう
もう一つは、偉人たちの言葉に背中を押してもらうことです。
大きな決断をしなくてはならない経営者が古典をよく読んでおり、偉人の言葉を座右の銘にしているというのはよく知られていることです。
「日本の資本主義の父」、渋沢栄一は『論語』を座右の書にしていました。ご存じの通り『論語』は孔子という偉人の言葉を弟子たちが書き残したものです。
渋沢栄一は第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京証券取引所を設立して日本に資本市場をもたらし、約500の企業の会社設立に関与したほか、社会事業にも尽力しました。
渋沢の著書に『論語と算盤』(図書刊行会)があります。その冒頭に象徴的なエピソードが書かれています。大蔵省を3年半程度で退官したとき、同僚から「賤しむべき金銭に目が眩み、官を去って商人になるとは呆れる」と責められました。それに対して渋沢は「私は論語で一生を貫いて見せる、金銭を取扱うが何故賤しいか、君のように金銭を賤しむようでは国家は立たぬ」と言い放つのです。
渋沢は自分が金儲けをしたいと思っているわけではありません。国家のために経済の基盤をつくりたいと考えていた。その経済基盤を持続可能なものとするには、『論語』で孔子が説いている仁義道徳が不可欠です。渋沢は、一見相容れない「論語」と「算盤」を結び付け、孔子の言葉に背中を押されながら、経済に邁進しようとしたのです。
本は一つの人格の表れです。そう思って本を読むと、著者が自分に語りかけてくれている感じがします。たとえば『論語』には、孔子の生きた姿が宿っています。もともと弟子に語った言葉をまとめたものだから、表現には孔子の人格がにじみ出ているのです。
読書をしていて「これは」と思う言葉に出合ったら、その著者が自分に言ってくれているのだというつもりで、しっかり自分のものにしましょう。古典をはじめ評判のいい本や気になる本を5冊、10冊と読めば、必ず「背中を押してくれる言葉」に出合えるはずです。
その言葉を発した偉人が応援団になってくれる。そんな心強さを感じます。
詩人茨木のり子が応援団になれば、「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」と𠮟咤し、人のせいにせずに自分の感受性を信じて進むことを後押ししてくれます。サントリー創業者の鳥井信治郎が応援団になれば、「やってみなはれ」とチャレンジを促してくれます。
言葉とともに、人格を感じることが一つの大きなポイントです。
前へ。ーー北島忠治
「前へ」は、長きにわたって明治大学ラグビー部の監督を務めた北島忠治が唱えたスローガンです。このうえなくシンプルで力強い言葉ですね。監督として、この一言に懸けた勇気に拍手したい。北島監督は28歳のときに明治大学ラグビー部の監督になり、95歳で亡くなるまで現役の監督でい続けました。監督経験最高齢記録保持者としてギネスブックにも掲載されたレジェンドです。
67年もの監督生活の中で、選手たちに言い続けたことはただ一つ、「前へ」だったのです。細かい戦略を言うのではなく、スパルタでしごくのでもなく、「前へ」の精神で、弱小だったラグビー部を早稲田大学と並ぶ大学日本一にまで押し上げました。
「前へ」という言葉は、明治大学ではラグビー部だけでなく全体に浸透しており、普通の学生もよく口にします。男子トイレにすら、「もう一歩、前へ」と貼ってあります。私は初めてそれを見たとき「さすが明治大学!」と感心しました。人生においてもラグビーにおいても、トイレでも「前へ」が大事。そのくらい、懐の深い言葉です。
「前へ」というスローガンは、勝ち負けよりも前へ進むことを重んじる精神を示しています。もちろん試合において勝つことは重要です。しかしそれ以上に、困難な状況でも逃げずに前へ進んで乗り越えていく生き方を学んでほしいという、北島監督の考えがありました。これが明快なラグビースタイルとなり、たとえ「横にパスを回せばトライ(得点)できる」と思うようなシーンでも、絶対に前へ押すのです。実際、それで負けることもあります。私は明治大学に勤め始めたばかりの頃は、「回せばいいのにな」と思うこともありました。でも、もうこれは精神として根付いているのです。
伝統として受け継がれ、30年前の卒業生も、現在のラグビー部も「前へ」という価値観を共有している。これは素晴らしいことです。大学に入学し、ラグビー部に入る個人個人はそれぞれバラバラであるはずですが、共有する文化を通じて強い精神を得られるのです。
これが卒業後の仕事や人生にも生きます。たとえば、明治大学卒業生には営業職でいい成績を上げる人が多くいます。営業して断られても、とりあえず前へ進むのです。くじけません。そういう明治大学卒業生のカラーができていると思います。
TBSの人気アナウンサー安住紳一郎さんは明治大学出身で、私の教え子でもあります。あるとき安住アナが私に「先生、もう傷だらけです」と話してくれました。というのも、知的で器用さもある実力者たちに交じり、テレビ番組で気の利いた面白いことを言おうとすること自体勇気がいります。そのうえ、ウケなかったりして傷つくことも多い。それでも「前へ」の精神で、傷だらけになりながらやってきましたと言うのです。しかし、そのおかげで面白く、非常に人気の高いアナウンサーになれたわけです。
半歩でも前へ進めば景色が変わる
壁にぶつかったり、困難なことに出合ったりしたとき、もちろん横へよける手もあります。しかし、迷ったらとにかく「前へ」の精神で踏み込んでいく。信じて進む。すると道は拓けます。
明治大学ならずとも「前へ」は背中を押してくれる名言です。言葉の抽象度が高いから、人生のあらゆるシーンで力を持つのがすごいところです。会議で発言するとき、就職活動、恋愛。失敗して傷つくのが怖く、なかなか踏み出せないことはあるかもしれません。ただでさえ、先が見えない時代です。迷わず進み続けることのほうが難しいでしょう。
こういう時代に、あれこれと迷っているよりは一歩「前へ」。半歩でもいいから、とにかく踏み出すことが大切です。勇気を持って踏み出してみれば、景色が変わります。
考えている間は状況は変わりませんが、行動することで何かが変わるのです。
すると、次に考えるべきこと、やるべきことも見えてきます。
僕の前に道はない 僕の後に道は出来るーー高村光太郎
人が敷いてくれたレールの上を歩くのではなく、何もないところを自ら歩いていく。自分で開拓していく。
芸術家の高村光太郎は、こういう強い気持ちを持っていました。
光太郎の父は、高村光雲という日本を代表する仏師・彫刻家でした。上野にある西郷隆盛像は、光雲の作です。重要文化財に指定されている「老猿」という作品は、教科書にもよく載っているので見たことがあるのではないでしょうか。
とにかく巨大な彫刻家としての親を持った光太郎。自身も彫刻家を志しています。幼い頃から彫刻に親しみ、長男だったこともあって当たり前のように家業を継ぐと考えていました。すでに道があったわけです。ところが、ある時期から光雲に反発を覚えるようになります。
光雲は弟子を多く持ち、弟子にあら彫りをさせた彫刻を仕上げていきました。そして、注文を受けて生産するスタイル。光雲の職人的なあり方は、光太郎の理想の芸術家とは違っていたのです。
光雲の技術自体は褒めても、彫刻作品に対しては「父の作品には大したものはなかった。すべて職人的、仏師屋的で、また江戸的であった」(『緑色の太陽』所収「父との関係」高村光太郎・著 岩波文庫)というように批判的になっていきます。
巨大な父と離れて、道を切り拓く決意
光太郎は、父に対する尊敬と愛情を持ちながらも、「違う道を歩まねばならない」と思っていたのです。そういう「父との精神的決別」が「道どう程てい」に表れています。詩の全文は次のようになります。
道程
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を独り立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充みたせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
自然を父として、自分で道を切り拓くという詩です。
光太郎はロダンの彫刻「考える人」に衝撃を受け、ロダンに傾倒していたのですが、そのロダンが先生としていたのが自然でした。ロダンは1840年生まれですから、1852年生まれである父の光雲とほぼ同世代です。父親世代のロダンその人を父にするのではなく、ロダンに倣って自然を父にしようとしたのですね。
『ロダンの言葉抄』(岩波文庫)は、自ら書き残した文章の少ないロダンの談話筆録を、光太郎が訳したものです。その中には自然について言っている箇所が多くあります。
たとえば「若き芸術家たちに」と題して、「『自然』をして君たちの唯一の神たらしめよ。彼に絶対の信を持て。彼が決して醜でない事を確信せよ。そして君たちの野心を制して彼に忠実であれ」と言っている。ロダンは、自然こそが美の源であり、芸術家は自然に従うべきなのだという考え方を持っていたのです。光太郎はロダンのこの考え方に大きな影響を受けました。
自分自身で道を切り拓きながら遠い道のりを行くというとき、やはり本当に一人では心もとない。背中を押してくれる存在がほしいですね。それが父なる自然です。偉大な自然が自分を見守り、背中を押してくれているから、果てしなく感じる道のりを歩いていくことができるのだというわけです。
私の著作『声に出して読みたい日本語』(草思社)にも、この「道程」を入れました。印象深いのは、ドラマ「3年B組金八先生」の第6シリーズ(2001年)で︑『声に出して読みたい日本語』を使って「道程」を朗読するシーンがあったことです(第20話)。
朗読したのは、上戸彩さん演じる鶴本直。直は体は女性、心は男性という性同一性障害で悩みを抱えています。性同一性障害そのものが当時はあまり認識されていませんでしたから、「道がない」わけです。これから歩むのは険しく遠い道のりでしょう。その直が「僕の後ろに道は出来る」と読み上げながら、晴れやかな顔をするのです。
挑戦するすべての人が使える名言
クリエイティブな生き方、多数派と違った生き方だけではなく、誰しも「初めての道」を行くことはあるでしょう。仕事一つとっても、すべてに前例があるわけではありません。レールの上を行けばいいなんていうことはないはずです。
戸惑いながら進め、何年か経ったのちに「ああ、こうやってきたんだな」と思う。「僕の後ろに道は出来る」感慨はあるものです。前例のないこと、初めて取り組むことに出合ったら「面倒くさい」ではなく、ぜひこの名言をつぶやいてください。
そして、見守ってくれる大いなる存在からエネルギーをもらうと考える。すると、前へ進む力も湧いてくるというものです。
なお、「道程」は、最初に発表したときは102行の長い詩でした(雑誌『美の廃墟』)。かなりの長さです。もちろんいい詩ですが、そのままではこれほど有名にはならなかったでしょう。これを勇気を持って大胆に削ったのが素晴らしい。たった9行にまで縮めました。余分なものをそぎ落とし、骨格の持つ力を最大限に引き出す彫刻のように、言葉を削っていったのです。その結果、これほど研ぎ澄まされた詩になったわけです。声に出して読むと、言葉に込められたエネルギーをより強く感じることができるはずです。
やってみなはれ。ーー鳥井信治郎
「やってみなはれ」は、サントリー創業者であり、日本の洋酒文化を切り拓いた鳥井信治郎の口癖です。未知の分野にも果敢に挑戦していく、チャレンジ精神︑フロンティアスピリットが表れている言葉です。
スペインのワインを飲んで、これを日本に広めたいと思った信治郎は、日本人の舌に合うワインを調合するところから始めました。そして完成した「赤玉ポートワイン」の大ヒット。これで安泰かと思いきや、そこにとどまろうとしません。開拓精神あふれる信治郎は挑戦を続けます。初の国産ウイスキーの製造販売に乗り出し、苦難の道を歩むのです。
信治郎がウイスキーの製造を発表すると、全役員が反対したといいます。ウイスキーを造るには、6年も7年も原酒を寝かせなければなりません。その間の資金はどうするのか。そもそも、当時の日本人はウイスキーに馴染みがないのです。いい製品ができても売れる地盤がありません。しかし、信治郎は反対を押し切りました。理屈を言うことなく、「やってみなはれ。やらなわかりまへんで」と言うのみだったのです。
結果、どうだったか。ウイスキー造りを始めて13年目、ついに本格ウイスキーが誕生しました。サントリーウイスキー角瓶発売です。想像を絶するような苦労を乗り越え、洋酒業界に立てた志ざしを遂げたのでした。
こういった歴史を情感たっぷりに読ませてくれる本があります。『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)です。「サントリー社史」として書かれ、その後『小説新潮』に掲載されました。著者は直木賞作家の山口瞳と、芥川賞作家の開高健。大物作家が2人してなぜサントリーの社史を書くのかというと、2人ともサントリー宣伝部出身なのです。
1956年にサントリー(当時の社名は寿屋)が創刊したPR雑誌『洋酒天国』の編集長が、宣伝部にいた開高健です。開高が仕事のあとに家でコツコツ書いていた小説が脚光を浴びるようになると、後継者の編集員が必要になった。そこで山口瞳が入社しました。
広告・宣伝においても、「やってみなはれ」精神は力を発揮していました。象徴的なのは「赤玉ポートワイン」の宣伝ポスターです。大正時代に、若い女性の胸元をあらわにしたヌード・ポスター。うっかりすれば警察へ引っ張っていかれるかもしれないという、危険な広告でした。しかし、全体のトーンを渋いセピア色にし、女性の持つ葡萄酒の赤色を際立たせたこのポスターは、大成功しました。世間をあっと言わせたのでした。
リスクの計算ばかりしても仕方ない
もちろん、失敗だってあるし、そのときどきで思い悩んでいることでしょう。こんなリスクを取っていいのだろうか、うまくいかなかったらどうリカバリーするのだろうかと悩みつつ、それでも「こっちの道だ」と信じるとき、「やってみなはれ」という言葉が背中を押してくれます。いくら悩もうが、結局やってみなければわからないのです。
私は教員をしていて、学生に「こうやってみたら」と助言することはよくあります。しかし、やらない人も意外と多い。「そうできたらいいけど、自分には難しい」「それは先生だからできるんですよ」なんて言う人がいます。リスクの計算が早すぎるというのか、なんだかんだ理由をつけてやらないのです。
リスクの計算をするのはいいのです。大切なことです。でもそればかりでは仕方がない。リスクと思っているけれど、実際はたいしたことないことだってあります。そんなに重く考えないで、チャレンジすれば必ず学びがあるし、道は拓けるはずです。
「やってみなはれ」は、関西弁の気楽な感じもいい。「やってみろ」ではこうはいかない。「やってみはなれおじさん」というのがいて、いつも自分に「やってみなはれ」とささやいてくれる、なんていうイメージを持つのも面白いかもしれません。
多少のリスクはあっても「こっちの道だ」と思うなら、「やってみなはれ」精神でチャレンジしたいものです。
齋藤 孝
1960年静岡生まれ。明治大学文学部教授。東京大学法学部卒。同大学院教育学研究科博士課程を経て現職。『身体感覚を取り戻す』(NHK出版)で新潮学芸賞受賞。『声に出して読みたい日本語』(毎日出版文化賞特別賞、2002年新語・流行語大賞ベスト10、草思社)がシリーズ260万部のベストセラーになり日本語ブームをつくった。
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