ゴッドリープ・ダイムラーとヴィルヘルム・マイバッハの活動
カールとベルタの恋は燃える。しかし、時代の波は2人の結婚を妨害する。1870年代の普仏戦争によるドイツでの雇用不安や、低賃金のせいである。この間、カールはしばらくドイツを離れてオーストリアのウィーンに出稼ぎに行ったりする。2人がマンハイムに落ち着いて、やっと結婚したとき、カールはすでに28歳、ベルタは23歳になっていた。遅い結婚だった。1872年の話だ。
結婚したふたりは、アウグスト・リッターという金持ちの友人から資金援助を受けて、小さな機械工場、ベンツ&リッターをつくる。しかしドイツの経済不況はつづき、つくったばかりの工場は倒産寸前になる。灰色の時代だ。
苦しい生活の日々ではあったが、明るい支えもあった。1873年、長男オイゲンが、翌年に次男リヒァルトが誕生する。
伝記作者は意地の悪い書き方をしていた。「子どもには恵まれたが、依然として金には恵まれなかった。食べる口がふたつも増えたのだ」と。
しかし、夜は少しずつ明けていく。自動車産業が芽をふくらませる。
1875年、ジーグフリード・マルクスはメクレンベルクで「馬なし馬車」の開発に挑戦、失敗。
1876年、ニコラス・オットーは4サイクルエンジン開発に成功、特許取得。
1878年、カール・ベンツは2サイクルエンジンの試作に成功、定置型動力機関として需要を獲得。
1881年、カール・ベンツはついにマンハイムにガス・モートレン会社設立。
ダイムラーの動向
1882年は、「ベンツのクルマ」にとって特記すべき年になる。というのは、まったく偶然だが、後年にパートナーとなる2人の若き技術者、カール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーが、遠く離れたマンハイムとカンスタットで、それぞれに内燃機関製造の会社経営に手を染めたからだ。
急に空が明けはじめる。1885年、ベンツはついに世界ではじめての「馬なし馬車」の実用車を試作。一方のダイムラーは、カンスタットの工場で新しいエンジンの開発に成功し、翌年には、マイバッハと組んで4輪の実用車を製作する。
そして、妻のベルタが1888年に長距離ドライブの記録をつくることになるベンツの自動車1号、歴史的な3輪モートル・ワーゲンが生まれる。1887年のことだ。
ベルタの肖像写真が残っている。いかにもドイツ婦人らしい美しさだ。ドイツ語の辞典に、ベルタとは「輝かしい女性名」という注釈がついている。ベルタは輝かしい存在になった。写真術がすでに完成していた時代で、ユージェーヌ・アッジェやアルフレッド・スティーグリッツなどの若い写真家たちが登場してくるころだ。彼女もまた若き肖像写真家のモデルにもなったことだろう。カール・ベンツも大の写真好きで、多くの記録写真をクルマとともに残している。
ベルタは若いときから健気だった。カールの仕事を理解して一緒に働いた。中年になったとき、彼女は実行力に富み、ついに女性ドライバーの世界第1号になった。
1894年になると、ベンツはそれまでの3輪を改めて4輪車を発表。シングル・シリンダーの小型車ヴェロ、そして2シリンダー6馬力の4人乗りヴィクトリアで一躍自動車社会に知られるようになった。1894年、ヴィクトリアに搭乗した夫婦の写真(上掲)が残っているが、当時の紳士淑女の風俗を代表して得意満面である。ベンツ50歳、ベルタ45歳。またヴェロを颯爽と走らせる娘クララの絵も保存されている。
ベルタが高齢に達したとき、人びとは親しみをこめて彼女を「ムッター・ベンツ」(母ベンツ)と呼んだ。
彼女が亡くなったとき、伝記作者は書いた。「ベルタ・ベンツ。その昔、自動車時代の夜明けに、はじめて長距離の自動車ドライブを成し遂げたヒロインは、1944年、95歳の長寿をまっとうした」と。
カール・ベンツは、彼女の死の15年前、1929年4月4日、ラーデンブルクで亡くなった。葬儀の日、ドイツ中のクルマというクルマが集まって、ハイデルベルクとハントシュスハイムの間の道路を埋めつくした。その日からさかのぼって4年前に、ゴットリープ・ダイムラーと合併する大事業をやりとげている。ダイムラー・ベンツ(現ダイムラーAG)社は、いまシュツットガルトにある。この町はそれゆえにあまりにも有名になった。
ベルタの時代はいまから130年ほど前、日本では明治維新の革命騒ぎがようやく収まったころのことである。130年の間に「世の中変わった」のである。(続く)
(提供:CAR and DRIVER)