女性受けする商品はヒットする、という先見の明
ところで、「ベンツのクルマ」は、現在は「メルセデス」の名で売られている。なぜ、そうなのか。改めて、ここでひとりの愛くるしい少女に登場してもらわなければならない。どういうわけか、クルマと女性名は縁が深い。
たとえば神話の女神たちの名を思い出してみよう。月のダイアナ、愛と美のアフロディテ、知恵のミネルヴァ、花のフローラ、虹のイリスなど、クルマの愛称にふさわしいではないか。たぶん、ダイムラー=ベンツは切っても切れない間柄だが、流行をになう車名としては、ダイムラーはあまりにごつい語感でセールスになじまなかったのであろう。現代でも日本のメーカー各社はネーミングに細心で、クルマの個性や味を出そうとしながらも、他社との重複を避けるため、1社で150~400以上、一説では1000点もの商標登録を届け出ているという。いまではベンツでさえ、メルセデスと呼ぶほうが一般的である。
メルセデスの由来
かつて「メルセデス」の輸入元、ベンツ・ジャパン(MBJ)の営業案内にはこう書かれていた。「ダイムラー・ベンツ社製の自動車には、すべて「メルセデス・ベンツ」の名が冠せられています。かつて、ダイムラーの強力な販売会社を経営したエミール・イエリネックの末娘「メルセデス」の名をとったものです。メルセデスの商品名は1900~1901年ごろにつくられ、そして、ダイムラーとベンツの両社が合併した1935年以降に、クルマの商品名はすべて「メルセデス・ベンツ」と名づけられることになりました」と。
エミール・イエリネックという人物については、息子のギー・イエリネックが書いた著作に詳しく記述され、自動車黎明期における卓抜した販売業者の面目を伝えている。
エミールは著名な東洋学者を父に持ち、生まれつきの冒険家で、あらゆる職業に手を染め、鉄道経営、領事館書記、タバコ仲買人などでもうけたあと、ウィーンの保険会社役員になるなど20世紀初頭の新時代に登場したブルジョアの代表だった。また世界の流行に先がける「新しもの好き」のひとりであり、パイオニア・モータリストとして、誕生したばかりの自動車に関心と興味を持って出資もした。そしてダイムラーと知り合って、彼のクルマの販売を引き受けたのである。
ゴットリープ・ダイムラーは、1886年、マイバッハと組んで4輪の自動車生産に挑む。販売を担当したイエリネックは、ダイムラーという、ごついドイツ名の商標では売りにくいと考えて、彼がこよなく愛した末娘のメルセデスという情熱的な洗礼名をとって、誕生したばかりのクルマに命名する。
1900年に入ると、自動車はその速力が上がるのに比例して愛用者たちを増やしていったが、とくに上流階級の「紳士淑女」からステイタス・シンボルのように評価されるようになって、急激に普及した。
マンハイムの郊外で、またウィーンの目抜き通りで、そしてパリの街路で、自動車は、着飾った婦人や進歩的な考え方を持つリーダー層を乗せて走り、世間の耳目を驚かせ、話題を振りまいた。
ファッション雑誌、パリの『ヴォーグ』誌に1枚の風刺絵が載って評判になった。それは、19世紀末を象徴する馬車と、20世紀のシンボル自動車がすれ違っている構図で、「いま世紀の終わりと新しい始まりがここにある」と説明がつけられていた。
ギー・イエリネックの書いた本の一節にも、こんな個所が出てくる。
「青春時代の母も自動車を運転したもので、大変な熱中ぶりでした。母は乗馬もたしなむスポーツ好きでしたので、自動車に乗るときも乗馬用のムチを持って座席に座り、クルマのハンドルにムチを洗濯ばさみで留めていました。というのは、走る自動車に驚いて追いかける犬どもを、ムチで追い払うためだったのです」と。
クルマを運転するのにムチが要るなんて、それは珍妙な光景であったろう。しかし、女性が好むものはやがてはやる。パリで、自分のクルマが話題になっていく様子を目撃したカール・ベンツは、故郷の家人に宛てて書いた。「新しい思想の持つ未来の力に魅せられて、フランスの技師も設計者もみな、熱狂の炎がロマンチックに燃えあがるように、ドイツの自動車を理解しはじめている」と。
ヨーロッパの1900年代は、新しい乗り物「自動車」とともに開かれていった。
ドイツを旅行する機会がある人に、かつてドイツ婦人(ベルタ・ベンツ)が一日がかりでドライブした道を訪れることを勧めたい。そして、南からでもいい、また北からでもいい、ロマンティッシェ・シュトラーセ(ロマンチック街道)を周遊することを。現代のメルセデスなら、ベルタが走ったルートを半日でこなすことだろう。
(提供:CAR and DRIVER)