要旨
ワクチン接種が進むと、どこかの時点で感染収束の予想が急激に強まるだろう。2021年3・4月の米国は、そうしたマインドの変曲点だった。日本でもそうした劇的な変化が起こるとすれば、それは2021年9月中ではないか。菅首相は、任期延長を狙い大きな賭けに出ている。
1日100万回の目標
今後の経済動向を考える上で、政治の役割は極めて重要だ。正直に言うと、筆者はこれまでその役割を過小評価していた。1日100万回は無理だと思ってきたが、その見方は改めなくてはいけない。1日100万回は達成できそうだ(図表1)。菅首相には虚心に謝らなくてはいけないと反省している。
少し経緯を述べると、5月7日の記者会見で、菅首相がワクチン接種を1日100万件に引き上げるという目標を掲げた。当初、この目標を聞いたときは、到底無理だと思った。筆者は、ワクチン接種に関して、個別接種と集団接種をバランスよく実施するという意見を首相が専門家から聞いていると、菅首相は失敗すると思っていた。個別接種では、分業体制が成り立ちにくく、接種を大量には増やしにくいからだ。しかし、菅首相は政治的リーダーシップを発揮する。5月7日に1日100万回を政府的な目標に掲げて、大規模な集団接種の体制づくりに舵を切った。この決断は、全く正しいものだ。
5月24日には、東京・大阪の大規模会場で接種開始をして、他地域にも横展開をしようとしている。6月21日からは、大学・企業など職域での集団接種を始めようとしている。6月21日以降、1日100万回の体制に移行する可能性は高い。従来、年内でのワクチン接種は進まず、集団免疫の獲得は2021年春までかかってもおかしくはないと思っていたが、もっと進捗は速まるだろう。そして、米国のようにワクチン接種の進捗によって、経済見通しが急激に改善するマインドの変曲点が訪れると予想する。
2021年9月前後の変曲点
筆者の周りにはすでにワクチン接種を受けた人がいる。彼らのマインドは、接種を受けることで大きく変わっている。感染リスクの恐怖から解放されたことが原因だ。
そのことから類推できるのは、マクロでワクチン接種が進んでいくと、消費マインドが大きく改善するというシナリオだ。旅行・飲食などを楽しもうとするリベンジ消費が本格化するに違いない。低下した消費性向が上昇して、消費支出が増加するだろう。従来、K字型と言われた企業の業績格差も徐々に解消していく。これは、実際は、政府・自治体が、活動自粛をどこまで緩和するかにかかっている。いくつかの問題はまだ残っているとしても、先行きの企業の業績見通しは明るくなるので、株式市場ではまだ過小評価された銘柄はないかを探し始めることだろう。2月以降、日本の株価が米株価に比べて相対的に鈍い状況がずっと続いてきた。それが解消されていく展開も訪れてきそうだ。
さて、肝心なのは、そうした世の中の大勢の見方がどこで変化し始めるのだろうかという点である。流れが転換する前に、変化の加速度がマイナスからプラスに符号が変わるところを変曲点と呼ぶ。 東京五輪を巡って、菅首相を批判していた人々の増加より、ワクチン接種の進捗を喜ぶ人や事業者の声の増加が上回っていく頃とも言える。消費悪化を懸念する声の増加よりも、消費回復の期待を予感する声の増加である。筆者は、そのタイミングが9月中くらいに到来すると予想している。
ワクチン接種の見通し
首相官邸HPをみると、6月10日時点の接種回数は2,140万回である。過去1週間の1日平均は73.6万回である。6月21日からは、これが100万回を超えるとみられる。
高齢者の場合、すでに2回目を終えた人は166万人である。対象者(65歳以上)の人口は3,632万人(2021年5月初)。これだけみると、高齢者は進んでいないように思えるが、1回目は1,079万人と全体の約30%になる(6月10日)。今後、25日前後経つと、彼らは2回目の接種を終える。ならば、1日の接種を残りの高齢者2,387万人が受けるのが7月上旬になって、7月末にはどうにか3,632万人が達成できそうだ(すべての高齢者が接種を希望する前提)。
では、次に国民の半数がワクチン接種を終えるのは、いつになるのだろうか。総人口(2021年5月初)の半分6,268万人に対して、高齢者3,632万人と医療関係者(含む介護従業者)514万人を除くと、2,122万人になる。この人数が1回目のワクチン接種を終えるのは8月下旬になり、2回目を終えるのは9月中旬になると予想される。国民の半分が接種を終えると、その安心感が社会全体のムードを変えるとみられる。大雑把に言って、9月中にムードが変わる可能性が高いと予想できる。
確かに、東京五輪が7月23日から8月8日まで開催されると、そこで4回目の緊急事態宣言に追い込まれる可能性はある。しかし、ワクチン接種者が増えると、発熱する人や重症化する人は少なくなって、入院患者は減っていく。すると、感染ステージは悪化しにくくなる。これは、緊急事態宣言に追い込まれにくくなるということだ。
五輪後の4回目の緊急事態宣言はあるかもしれないが、9月以降はそうした状況を回避できるようになるかもしれない。
先行する米国
日本の感染状況が改善していくことは、企業のセンチメントも大きく動かすことにある。そのことは米国の経済指標をみていれば、よくわかる。代表的な企業マインドの指標であるISM製造業景気指数は、2021年3月に大きく改善した(図表2)。非製造業も同様に改善し、5月もさらによくなった。ここには減税効果もあろうが、同時にワクチン接種の効果も加わっている。米国でも接種回数が増えて、3月から4月にかけてバイデン政権は求心力を高めたという経緯がある。日米接種率の格差を調べると、米国が3・4か月くらい先行している。この経験則を当てはめると、日本の菅首相に対する風当たりも遅くても8月くらいに変わって行ってもおかしくはない。
菅首相の思惑
菅首相の政策は、これまで「ワクチン一本足打法」と揶揄されてきた。五輪開催を強行する不人気は、8月頃にワクチン効果によって変わっていくのだろうか。
菅首相には、風向きを変えたい動機があって、9月30日に自身の自民党総裁任期があり、10月21日には衆議院議員の人気を控えている。来る衆議院選挙で勝利して、総裁任期を延長したいというのが、菅首相の狙いである。筆者は、この狙いはぎりぎりの間に合うのではないかとみている。(提供:第一生命経済研究所)
第一生命経済研究所 調査研究本部 経済調査部 首席エコノミスト 熊野 英生