株式会社ADワークスグループ
(画像=株式会社ADワークスグループ)
田中 秀夫(たなか ひでお)――代表取締役社長CEO
1973 年 3 月 慶應義塾大学商学部 卒業
1973 年 4 月 西武不動産(株)入社
1991 年 7 月 田中不動産事務所 開業
1992 年 10 月 (株)ハウスポート西洋(現 みずほ不動産販売(株))入社
1993 年 3 月 (株)青木染工場(現 (株)エー・ディー・ワークス)取締役
1995 年 2 月 (株)エー・ディー・ワークス 代表取締役社長
以来、当社グループの代表を務め 30 年近くとなりました。現在は、株式会社エー・ディー・ワークス 代表取締役会長、株式会社 AD ワークスグループ 代表取締役社長CEO を兼任し、一般社団法人 不動産特定共同事業者協議会 代表理事(会長)を務めております。
株式会社 AD ワークスグループ(東証プライム:2982)は、東京都千代田区に本社を持ち、100%子会社である事業会社、株式会社エー・ディー・ワークスは東京本社に加え、大阪、福岡、ロサンゼルスにも拠点を置く、不動産を中心とした投資ソリューションカンパニーです。
2024 年度の実績は、売上が約 499 億円、税前利益が約 25 億円という規模です。 1886 年に創業した「青木染工場」という染色工場を前身とし、現在は、収益不動産の販売と、物件の管理や工事監理などのフィーを主な収益源としています。現在の社名は「Aoki Dyeing Works(青木染工場)」に由来しており、約 140 年の長き歴史は社員にも広く知られています。

目次

  1. 創業からこれまでの事業変遷と貴社の強み
  2. 承継の経緯と当時の心意気
  3. これまでぶつかってきた課題や変革秘話
  4. 将来への展望

創業からこれまでの事業変遷と貴社の強み

—— 1886年に創業されたとのこと。当時はどのような事業をされていたのでしょうか。

株式会社ADワークスグループ 代表取締役社長CEO・田中 秀夫氏(以下、社名・氏名略) 当社の前身となるのは「青木染工場」という染め物工場です。創業者の青木直治は渋沢栄一さんともお繋がりがあり、渋沢さんの支援を受けてインドの染色技術を日本に導入しました。このプロジェクトは、日本の技術革新に大きく寄与したそうです。

—— 渋沢栄一さんとの共同プロジェクトだったのですね。インドの技術を導入することで、どのような変化がありましたか。

田中 当時、インドは染色技術で世界をリードしていました。日本ではまだ近代化された染色技術がなかったため、創業者がインドで技術を学び日本に持ち帰りました。その後、インドからの技術を活用し、伊藤忠さんや丸紅さんなどの商社と協力して製品を輸出しました。

—— 昭和50年頃に工場を売却されたと伺いましたが、その背景には何があったのでしょうか。

田中 墨田区にあった工場は地下水を利用していましたが、過剰な汲み上げで地盤沈下が起きたため、移転を余儀なくされました。最終的には福島県に移転し、東京の工場の跡地を売却することになったのですが、それが不動産業を始めるきっかけとなりました。

—— 不動産業をスタートしてからは、どのような事業があったのでしょうか。

田中 東京の土地を売却したことで得た資金を使い、市川や船橋などで土地を分譲し、建物を建てて販売する事業などを行っていました。

—— その後の展開についてもお聞かせください。福島の工場はどうなったのでしょうか。

田中 福島の染色工場は時代の流れと共に需要が減ってしまい、最終的には閉鎖しました。

——田中CEOはもともと不動産会社に勤めておられたとのことですが、そこでのご経験が会社の“今”につながる大きな転機だったようにお見受けします。当時のことを教えてください。

田中 その通りです。私が大学卒業後から勤めていた会社は、いわゆる同族系の企業でして、会社全体の利益よりも一族の利益を最優先するような文化がありました。私が若いころはそれが当然だと思っていましたが、次第に「何かおかしい」と感じるようになっていきました。

——そうした環境であっても、社員の立場で事業計画書を提出したそうですね。並々ならぬ覚悟が必要だったのではないでしょうか。

田中 あれはもう、ある意味“勝負”でした。私の名前で社長に提出しましたから、今思えばひやひやものです。しかし、あのままでは会社が潰れると確信していました。結果的に、私が退職してから数年でその会社は清算されてしまいました。

——在籍当時は総合不動産会社として相当な売上があったそうですね。

田中 そうなんです。私が入社した頃は、三井不動産よりも売上が上だったほどです。売っていた一戸建ての利益率も異常に高かった。例えば、3,000万円の住宅を売って2,500万円の利益が出ることもありました。原価がタダ同然だったんです。儲かった資金はその他の事業に使われていました。

——しかし、会社としての方針には疑問を持たれていたと。

田中 はい。分譲マンションをたくさん販売していたのに、賃貸管理は外部に任せていた。私は、「なぜ自社で管理会社を持たないのか」と思い、提案もしました。大手不動産会社は大抵自社で管理会社を運営しています。やれば絶対に儲かったはずなんです。ところが、現場のオーナーとのやり取りやクレーム対応が面倒だという理由でやらなかった。

——もったいない話ですね。それに、経営スタンスとしても変革の必要があったと。

田中 そうです。当時、親族が会社に入ってきたことで社員のやる気が削がれる様子を見てきました。私は、ADワークスグループに自分の子どもを入れていません。オーナー会社が潰れる原因の多くが、子どもの経営参加によるものです。だから、あえて子どもを入れない。また、上場することで会社を自分だけのものにせず、社内外の規律を保つことも、会社を承継した当時から意識していたことでした。

——なるほど。鑑定業も経験されて、独立された時期もあったようですが。

田中 はい、不動産鑑定士の資格を持っていましたので、会社を退職した後は不動産鑑定事務所を立ち上げ独立しました。ただ、半年ほどで旧知の上司から声がかかり、また不動産会社に一時的に入社することになりました。そこで売買仲介の仕組みを作り上げた後、再び鑑定業に戻るつもりだったんです。ところが、ちょうどその時、当時の青木染工場の代表であった青木さんから連絡がありました。 後継ぎであった息子が病に倒れたこと。そして、事業の大幅縮小をしたものの、109年続いた由緒ある会社を存続させるため、息子の親友であった私に青木染工場を託したい、とのことでした。

承継の経緯と当時の心意気

——その後、入社して間もなく青木染工場の社長に就任されたのですね

田中はい。1993年に株式会社青木染工場に入社し、1995年に代表取締役となりました。もう染色業は営んでいませんでしたが、先代の方々の意思を継ぐという気持ちで英語表記である「Aoki Dyeing Works」から頭文字をとって「株式会社エー・ディー・ワークス」へと社名を改めました。

社長就任当初から上場を視野に入れていたのですか?

田中 頭の中にはありました。ただ、現実的にはどうなるかわからなかった。上場することで、経営の規律を保てるという考えが強かったです。私はサラリーマン出身ですから、自由になった時に自分を律する仕組みが必要だったんです。

だから、上場を1つの目標として掲げました。とはいえ、目の前には売上や家賃、社員の給料という現実もありましたから、まずは日々の経営を軌道に乗せることが先決でした。

——社員2名からのスタートだったそうですね。そこから上場企業にまで成長させたわけですが、売上の推移はどうだったのでしょうか。

田中 2003年の売上が4億7,000万円。翌年には11億8,000万円、2005年に19億5,000万円、2006年に48億、2007年には79億円に到達しました。4年間でほぼ17倍になった計算です。

——驚異的な成長ですね。その背景にはどんな戦略があったのでしょうか。

田中 収益不動産に特化した売買事業を本格的に始めたことが大きかったです。今では当たり前ですが、当時収益不動産の市場は存在していなかった。住宅や店舗物件の実需での売買情報は溢れていましたが、「収益を目的とした不動産」を専門に扱う業者はいなかった。私はそこに大きな可能性を感じたんです。

——それにいち早く気づかれたのは、やはり鑑定業の経験があったからこそですね。

田中 その通りです。裁判所の競売物件に対する鑑定をする中で、収益還元法という手法を使って価格を算出していました。これによって、通常の比較法よりも高い価格が出ることがあった。ところが、競売での最低価格は取引事例比較法で出した金額の6割程度に設定されますから、収益ベースで見れば「お宝物件」が見つかるわけです。実際、自分でいくつか購入して大きく儲かった経験があり、「これはビジネスになる」と確信しました。

——なるほど、実体験がビジネスの確信につながったのですね。

田中 まさにそうです。今では誰もがやっているようなことですが、当時の日本にはまだ収益不動産を個人富裕層が一般市場で購入する考えは浸透していなかった。アメリカでは当たり前の考え方でしたが、日本ではリートが登場するまでは「収益物件」の価値を正当に評価して、売買市場へ流通させるというシステムがなかった。その分野にいち早く入り込めたのが成功の大きな要因です。

これまでぶつかってきた課題や変革秘話

—— 上場に向けて一番の課題は何だったのでしょうか。

田中 人材の採用が一番の課題でしたね。いろんな会社のエージェントを使っても、なかなか優秀な人材が集まらなかったんです。小さな会社だったので、人が集まらないのは当然かもしれません。特に優秀な人材は、もっと大きな会社を選びがちですからね。

—— それは大変でしたね。どうやってこの問題を乗り越えたのでしょうか。

田中 不動産鑑定士の試験制度に目をつけたんです。特に2次試験は非常に難しく、合格するためには1万時間の勉強が必要です。これをクリアした人たちは、非常に優秀な人材だと考えました。そこで、彼らに対して、私たちの会社で実務経験を積むことを提案しました。初任給も他の鑑定事務所よりも高く設定し、3次試験のためのサポートも無料で提供しました。結果として、優秀な人材が集まりました。

—— それは素晴らしい戦略ですね。しかし、鑑定部門の拡大には苦労もあったのではないですか。

田中 そうですね、鑑定部門を大きくしすぎてしまいました。需要がそこまでなかったため、結果的に縮小せざるを得ませんでした。それでも、優秀な人材が集まったことで、組織全体の質が向上しました。いまだにその時のメンバーが会社に残って、貢献してくれています。

—— それは強い組織の基盤ですね。資金面ではどのように乗り越えたのでしょうか。

田中 前職での不動産事業の経験が役立ちました。そこでの人脈を活用し、金融会社から資金を調達しました。利益の一部を還元するという条件でしたが、これにより売上と利益が伸び、銀行からの融資も受けられるようになりました。事業が拡大したことで、JASDAQ上場、東証一部上場と、事業承継当時から目標としていた上場を達成することができました。

—— 過去から積み上げてきた努力がADワークスグループの成長につながっているのですね。2024年度の売上は499億円、今期の予想は550億円と伺っています。

田中 そうですね。今のところ進捗はかなり順調です。2025年度第1四半期の純利益は前年同期比290%になりました。この数年で、一棟再販事業、不動産小口化事業は大きな成長を遂げています。年度末まで高い結果を出し続けられるよう、一同努力を怠らないつもりです。

株式会社ADワークスグループ
(画像=株式会社ADワークスグループ)

将来への展望

—— それは素晴らしいですね。あと2年で創業140周年を迎えるとのことですが、今年は大きな目標があると聞きました。

田中 そうです。今年は流通時価総額100億円以上を維持し、東証プライム市場上場維持基準を達成するという目標がありますが、我々が一丸となって取り組めば、当然達成できると考えています。ただ、今年基準を達成すればよいという訳ではありません。当社グループは2024年に北極星(パーパス)・ビジョン・バリューを策定し、10年後、さらにはその先までを描いています。 「ワクを超えるしなやかな発創で、世界を色鮮やかに染め直す。」という北極星、「富の循環を創出し、誰もが心に火を灯せる社会をつくる」「税前利益200億円、限界利益BtoCシェア40%」というビジョンを掲げていますが、これは私のトップダウンではなくボトムアップで作られました。

—— ボトムアップというと、社員みんなで作り上げたということですか。

田中 はい、まさにそうです。上から押し付けるのではなく、社員が考え、話し合い、提案を上げてもらう形で出来上がったのです。当社グループ全体で、北極星(パーパス)に沿った経営を推進しているところです。パーパス経営により、会社の実力や成長はもちろん、社会に目を向けているかというところを今まで以上に経営陣も社員も意識するようになっています。

—— 最近は社会貢献にも力を入れていると聞きましたが、具体的にはどのような取り組みをされていますか。

田中 中古不動産の再生事業は、今あるものを大切にしながら新たな価値を加える、まさに「染め直す」事業だと自負しています。近年では、物件のバリューアップにおいて環境認証を取得するなど社会の要望に沿った商品づくりを意識しています。また、アートやスポーツの支援にも注力しています。アートでは東京藝術大学と提携し、若手の画家を支援する目的の「ADワークスグループ『日本画』賞」を開催しています。今年で3年目の開催を終えました。

—— スポーツについてはどうでしょうか。

田中 スポーツでは、岩手県出身の競歩選手、髙橋和生選手をアスリート社員として雇用し、選手活動を支援しています。昨年のパリオリンピックにも出場し、国内外の大会で活躍しています。「チームカズキ」という有志社員のチームで練習や試合のサポートをし、社員達で試合の応援に行ったりもしています。

また、アメリカンフットボールの強豪チーム「オービックシーガルズ」のサポートスポンサーでもあります。オービックシーガルズの峯松真央選手は、当社社員で、不動産小口化商品の営業メンバーとしても活躍しています。

—— 不動産会社でありながら、アートやスポーツを支援する姿勢は素晴らしいですね。

田中 ありがとうございます。今年はビジョン達成に向け、「系統用蓄電所ビジネス」「オフィス区分事業」「不動産クラウドファンディング事業」等の新規事業も続々発表しておりますので、新たな飛躍にもご期待ください。パーパスやビジョンを掲げるだけでなく、実際に行動していくことが大事です。今年に入ってからも、成長戦略について社内で説明会を開催したり、管理職のメンバーで合宿を行ったりと、企業価値向上について真剣に話し合う場面も増えています。企業の成長と社会への貢献は切り離せないものですから、これからも広い視野でチャンスを探りながら、当社の価値を発揮していきます。

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(画像=株式会社ADワークスグループ)
氏名
田中 秀夫(たなか ひでお)
社名
株式会社ADワークスグループ
役職
代表取締役社長CEO

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