株式会社情報都市

関西国際空港の対岸、大阪府泉佐野市に本社を構える株式会社情報都市。1986年の創業から約40年。関西空港の開港という「夢」と共にスタートしたが、直後に日本経済を襲ったバブル崩壊の直撃を、この地で受けた。過酷な環境をいかに生き抜き、そして今、UR団地の再生や古民家活用を手掛ける「再生デベロッパー」として、地域のランドマーク的存在感を放つまでに至ったのか──。

吉田良夫(よしだ よしお)── 代表取締役社長
1957年、福井県敦賀市生まれ。1980年、同志社大学商学部を卒業後、東急不動産株式会社に勤務。1986年に株式会社情報都市を設立し、不動産の企画・開発・仲介を中心に事業を展開してきた。関西空港の玄関口である大阪府泉佐野市を拠点に、約40年にわたり地域に根ざした総合不動産業を展開。現在は「りんくう地域の活性化」を使命に掲げ、まちづくりと地域経済の発展に尽力している。
株式会社情報都市
大阪府泉佐野市を拠点に、泉州・りんくう地域に根ざした総合不動産会社。1986年の創業以来、ビル経営や中古住宅の買取再販、宅地開発・分譲、事業用不動産の売買など、多角的な不動産事業を展開している。2015年には日本で初めてUR都市機構から住宅団地を買い受け、さらに古民家再生にも取り組むなど、地域の不動産会社としての立場から主体的にまちづくりを推進している。
企業サイト:https://www.j-toshi.com/

目次

  1. 関空の夢とバブルの現実。創業社長が泳いだ「ヘドロ」
  2. 「再生」こそが情報都市の真骨頂
  3. 320戸のUR団地取得。経営安定と地域の「顔」へ
  4. 「情報都市」の社名は伊達じゃない。データとコミュニティで地域を編む
  5. 目指すは地域不動産の金融商品化

関空の夢とバブルの現実。創業社長が泳いだ「ヘドロ」

── 創業の1986年というと、まさにバブル経済が始まろうかという時期ですが、経緯を教えてください。

吉田(以下、敬称略) 私はもともと、東急不動産に勤めていました。実家が福井県の敦賀市で株式会社日章土地という不動産会社をやっていまして、いずれは家業を継ぐことも考えていました。当時、妻の実家がこの泉佐野市にあったのですが、関西空港が建設されることが決まり、これは大発展するぞと思い、28歳の時に独立しました。

── 関西空港の開港(1994年)という大きな期待があった一方で、創業直後にはバブル崩壊が直撃しました。

吉田 関空の開港とバブルのピークが重なってしまったので、大企業もみんなこのりんくうタウン周辺を買いに来て、地価がとんでもなく高騰しました。あくまでも私の肌感ですが、地価が100分の1程度になってしまった地域もあったように思います。

泉佐野市には同じぐらいの規模の不動産会社が50社ほどありましたが、バブル崩壊で相当数の不動産会社が事業を撤退しました。

── その最大の危機を、どのように乗り越えられたのですか。

吉田 本当に「ヘドロの上を泳いできた」という感覚です。なぜ乗り越えられたか。

結局、バブルは不動産会社と銀行とゼネコンが作りましたが、その不良債権を処理できるのも、生き残った不動産会社しかいなかったのです。

銀行も担保の評価が下がりきって、たとえば「10億円の借金があるけど、もう3億円でいいから買ってくれ」という案件が山ほど出てきた。それを、かろうじて銀行から融資がつく我々のような会社が買い取ったわけです。

── 不良債権処理が、結果的にビジネスになった。

吉田 意図したつもりはないですが、そうなりました。当時はバブルで家が高すぎて買えなかったサラリーマン層がたくさん待っていました。

私たちは、銀行から買い取った大きな不良債権の土地を、宅地用に40坪や50坪に細かく細分化して分譲したのです。

まちづくりなんて格好のいいものではなく、ただ不良債権を切り分けて売っただけですが、それが結果的に住宅ローンという形で、家を求めていた人たちの手に渡っていきました。

もちろん、当時の信用金庫の支店長が「吉田のところなら」と無理して融資をつけてくれたおかげでもあります。本当に運が良かったんだと思います。

「再生」こそが情報都市の真骨頂

── バブル崩壊後の不良債権処理から始まり、現在に至るまで事業は多角化していますね。

吉田 創業当初はお金もなかったので仲介から始め、バブル期は買取、バブル崩壊後は今お話しした不良債権の宅地分譲や収益ビルの再販。一時は大手のハウスメーカーに土地を卸す宅地分譲が主力だったこともあります。

現在は、中古住宅を買い取ってリノベーションして再販したり、古い家を解体して更地で売ったりする事業が中心の一つです。

それ以外にも、2015年からは大規模な賃貸ビル事業も柱になっていますし、最近は空き家や古民家、古い店舗の再生・改装もやっています。建売住宅以外は、不動産に関わることは総合的にやってきました。

── お話をうかがっていると「再生」という言葉が共通項のように感じます。

吉田 そうですね。今、弊社のキーワードは「再生デベロッパー」だと明確に言っています。本社ビルも元は信用金庫のビルですし、さのみなと団地も大規模な再生です。

泉佐野市の千代松市長からは「吉田さん、いつ新築ビル建ててくれるんですか?」なんてよく言われますが、私はどうも古いものを再生するほうが性にあっているようです。

320戸のUR団地取得。経営安定と地域の「顔」へ

── 事業の変化・拡大の中で、大きな転換点はありましたか?

吉田 間違いなく、2015年のURの団地の取得です。UR都市機構からの案内で、日本で最初の大規模なUR賃貸住宅の取得案件として、320戸強の団地を丸ごと買い取りました。

この10年間、外壁から内部までリノベーションを続けてきまして、これが経営の大きな柱になりました。

もともと泉佐野市のランドマーク的な団地でしたから、そこに「情報都市」の看板が出ると、業界内でも驚かれました。土地が3000坪、建物が6000坪ありますから。この団地再生の取り組みで、日本都市計画学会の「関西まちづくり賞」もいただきました。

「情報都市」の社名は伊達じゃない。データとコミュニティで地域を編む

── 情報都市は、泉佐野地域と密接に関わっています。このエリアの特性をどう見ていますか?

吉田 泉佐野市は、関西空港の企業城下町です。空港関連の従業員は約2万人、そのうち6000人弱が泉佐野市に住んでいます。空港のターミナル駅であり、従業員が飲みに行ったり住んだりする場所なんです。さらに、インバウンドの盛り上がりで、海外からの宿泊客が非常に多い。

弊社には社員が20人強しかいませんが、「コミュニティ事業部」という広報専門の部署があります。彼らが中心となって、古民家再生や「古民家サポーター」といった会を運営したり、地域の若者の活動を資金面で支援したりしています。

また、年に1度「まちづくりフォーラム」という大きなイベントも主催していて、今年で3回目になります。それを見て「この会社で働きたい」と入社してきた社員もいます。

── そうした活動に取り組む理由は何ですか?

吉田 “居場所力”のある物件を作りたい、という思いがあります。最近も泉佐野市駅前で4軒長屋の古い飲食店を再生していますが、これは元のオーナーさんから「情報都市さんしか、この再生はできないだろうから」と売っていただいた案件です。

こうした活動がすぐに利益になるわけではありませんが、交流人口や関係人口を増やし、長期的な地域ブランディングにつながると信じています。

また、バブル期には「情報都市データサービス」という別会社を設立しました。法務局に通って、既存の分譲地やマンションの登記情報を全部調べて、4万件ぐらいのデータを集めました。それを元にダイレクトメールを送ったり、建築業者にデータを売ったりしようと。まあ、バブル崩壊で頓挫してしまいましたが。

── 時代を先取りしすぎていたのかもしれませんね。

吉田 ええ。その素地があるので、今、改めて地域の市場調査を始めています。今年はフォーラムで発表しようと思っていますが、地域経済のデータベース的な雑誌を毎年発行しようと計画しています。

泉佐野市のGDPや各駅の乗降客数の推移、駅徒歩5分圏内の飲食店数とか。そういうデータを蓄積・可視化して、まちづくりに役立てたいと考えています。

目指すは地域不動産の金融商品化

── 今後の展望について聞かせてください。IPOは視野に入れていますか?

吉田 「再生デベロッパー」としてのノウハウは高めていきますが、次のステップとして地域の不動産の金融商品化を模索していきたい。ファンドやリート、クラウドファンディングといった手法です。

実は息子がリクルートに10年ほど勤めていまして、もし彼が会社を継ぐなら、その分野を担ってほしいと思っています。地域の不動産を活性化させるには、銀行借り入れだけでは限界がありますから。

上場にはまったく興味がありません。あくまで泉佐野市を中心とした地域企業でありたいですね。大阪市内にも物件はもっていますが、この地域に根差していくスタンスは変えません。

常に社員に言っているのは、「地域社会の課題解決」と「持続可能な企業利益の確保」、この両輪がなければダメだということです。社会のためになることをやっても、それが儲けにつながらなければ続きませんからね。

氏名
吉田良夫(よしだ よしお)
社名
株式会社情報都市
役職
代表取締役社長

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