物流や製造などの現場は、働き方改革やベテランの引退といったソフト面の課題を抱えつつ、ワーカーの「安全」「健康」を守ることも求められる。こうした中で、ノンデスクワーカーの健康に関する情報をスマートウォッチから収集し、安全と健康の確保につなげているのが、株式会社enstem。
創業当初、AIをスポーツに活用していたところから一転、同じく「体が資本」のノンデスクワーカーに事業領域をピボットした同社は、心拍データから事故を未然に防ぐ「Nobi for Driver」などのプロダクトをすでにリリースしている。
代表の山本寛大氏が提唱する「パフォーマンス寿命」の概念や金融業界との協業による循環型社会モデルの構築とともに、同社の戦略に迫る。
企業サイト:https://en-stem.co.jp/
目次
画像データの「その先」に着手し、人を守る
── 既存のスマートウォッチを活用した、ノンデスクワーカーの健康・安全サービスを展開しているそうですが、ここに至るまでの流れを教えてください。
山本氏(以下、敬称略) 起業したのは2019年で、当初はAIを活用したソリューションをつくりたいとの思いがありました。
中でも私が野球経験者だったことから、スポーツ選手のコンディション可視化とその再現性向上に着目。当時はベトナムやフィリピンでPoC(概念実証)を行いましたが、コロナ禍で海外にいられなくなり、日本に帰国しました。
そこで、同じ「体が資本」という観点から、ノンデスクワーカーやブルーワーカーと呼ばれる人々の健康管理をテーマにしたのです。まずはドライバー業界に特化し、そこから派生して倉庫業界、製造業、建設業といったワーカーがいるマーケットへ事業領域を広げました。
現在では、ドライバー向けの「Nobi for Driver」と、製造・建設業向けの「MAMORINU」というサービスを提供しています。
── 事業領域を現場の作業員やドライバーに絞られたのは、課題がより顕著だったということでしょうか?
山本 さまざまな業界でのPoCを行う中、物流分野は2024年問題による労働規制の厳格化、ドライバーの高齢化、そして人手不足による外国人材の受け入れ拡大といった側面から、さまざまな要望や課題があると分かりました。
特に、一人ひとりのドライバーが息長く働けること、多様な人材の流入を促進することという二つの観点で、私たちの参入以前から課題に対しさまざまなサービスが検討されている状況でした。
従来は、トラックの急ブレーキや急発進といった車両データが中心でしたが、私たちは「人目線」のサービスとして、ドライバーを主軸に据えたサービスで切り込んでいます。
── ドライバーのどのような課題を解決できると考えたのでしょうか?
山本 ドライブレコーダーでは、ドライバーが眠くなった際に目が閉じるなどの兆候が出た後、アラートが鳴ります。
一方、心拍データは目を閉じる回数が多くなる前の段階で、さまざまな兆候をとらえられます。たとえば、目が閉じてしまうと車は何十メートルも進む場合がありますが、心拍データの低下などを早期に検知できれば、ドライブレコーダー以上に事故を未然に防ぐことが可能です。
画像処理データももちろん重要ですが、心拍データから得られる情報の強みは、「予防」の観点にあると考えています。表面的な対症療法ではなく、根本的な予防策を講じることができる点が、私たちの強みです。
強みは「分かりやすさ」と「信用」
── ノンデスクワーカーにとっては、特定のデバイスを使うのに慣れていない場合もあると思います。
山本 その点では、プロダクトがシンプルで分かりやすい、とよくいわれます。これは私たちの強みだと認識しています。ITリテラシーが高くない方でも活用できなければなりませんし、分析する側にとっても複雑なプロセスがあると好まれなくなってしまうでしょう。
ボタン操作が少なく、すぐにデータレポートが出力されるといった、オペレーションエクセレンスも特徴です。
もう一つの強みは、地方銀行と提携してきたことです。銀行が私たちのサービスを後押ししてくれたことで、社会的な信用度を担保できたと受け止めています。現在では20行ほどと提携できており、地方銀行のプレゼンスは非常に大きいと感じています。
── 市場環境はどのような状況ですか? enstemにとって、追い風となっている要因を教えてください。
山本 ノンデスクワーカーやブルーワーカーといったマーケットの重要性を政府も認識しており、大きなトレンドになっているととらえています。特に物流業界においては、人手不足解消のためにDX化を推進する動きがあり、これが追い風です。
また、3年ほど前からワーカーの高齢化対策が、待ったなしの状況になってきました。データ上は把握していましたが、リアルな実感が出てきたのが、ここ1年ほどです。それに伴い、大手企業の参入も増えてきたように感じます。
高齢化社会を、大企業をはじめとした多くの人が実感できるレベルになってきたことは、私たちのビジネスが求められる要因となるでしょう。厚生労働省による熱中症対策の義務化なども、業種を問わず多くの企業から連絡が来るほど反響があり、来年も追い風が続くと予測しています。
祖父の晩年を見て生まれた「パフォーマンス寿命」の概念
── アメリカでの経験やハイレベルな野球の経験、そしてGoogle勤務などが、現在の経営スタイルや考え方に影響しているのでしょうか?
山本 アメリカでの経験に加え、地元が浅草だったことも良かったと感じています。さまざまなバックグラウンドを持つ人々が集まる街であるため、多様性を肌で感じられるからです。
また、父の仕事の関係でシリコンバレーへ行った際、40〜50ヵ国・地域から来た人々と交流し、浅草とは異なる側面からの多様性を学びました。
人は、誰かからさまざまなラベルを貼られがちです。それにとらわれず、ただ「今をどう生きるか」を考えることに集中できるようになったのは、多様な生き方をする人々を多く見てきた経験が大きいと思います。
── 著書を出されていますが、そこで触れられている「パフォーマンス寿命」も事業と関連していますね。
山本 はい。この概念を提唱するようになったきっかけに、祖父の影響があります。祖父も経営者であり、幼いころはかっこいい昭和の社長というイメージでした。しかし、晩年は介護施設に入り、食事が制限されたりおしゃれができなくなったりする姿を見て、「これは課題解決しなければ」と感じました。
数字の年齢でも健康寿命だけでもなく、世の中に何を残せるか、好きなことをできているかといった観点から、人が自分のありたい姿で生きるための「パフォーマンス寿命」という考えに至ったのです。構造的にいうと、健康寿命の上にパフォーマンス寿命があると考えています。
── パフォーマンス寿命という考え方は、経営者自身の健康管理にも直結すると感じます。
山本 その通りです。経営者の健康状態は、究極的に会社のPL(損益計算書)にも影響すると考えます。
私自身、若いころ交通事故に遭い、いつ死ぬか分からないという経験もしました。パフォーマンス寿命を長く保つためには、健康はもちろん、好きなことを続けられる環境があるかや社会貢献への意思も、重要だと考えています。
保険業界とのパートナーシップを重視
── ハードウェアのスマートウォッチは、競合も多いと思います。一方、ハードウェア上のサービスを提供する企業として、他社との差別化をどう図っていますか?
山本 ウェアラブルデバイス市場は、BtoC向けに健康志向のユーザーをターゲットにしたものが中心ですが、私たちはBtoB市場を狙うことで差別化を図ってきました。また、たしかにハードウェアを開発する企業は多いですが、ハードウェア上のソリューションを提供する企業は意外と少ないのが現状です。
私たちは、さまざまなデバイスから得られるデータを処理し、特定の業界に対して価値を発揮する「バーティカルカット」と呼ばれる手法を得意としています。ハードウェア開発には莫大な費用がかかりますが、私たちはソフトウェア中心のビジネスであり、開発予算を抑えつつデータを活用する点に強みがあります。
── BtoB市場を狙う上で、どのようなマーケティング戦略を進めているのでしょう?
山本 直近の例でいうと、三井住友海上と代理店契約を結びました。損害保険会社は大規模な代理店網を持っており、そのネットワークで私たちのサービスを展開し、事故率の低下を実現すれば保険業界に貢献できます。
このように、損害保険や生命保険、製薬会社など、さまざまなステークホルダーと連携し、彼らが儲かる仕組みを設計することで、私たちのサービスを広げたいと考えます。
すでに提携している銀行も同じです。銀行の取引先に運送会社があるとすれば、勤務時間、移動距離、ドライバーの健康状態のログをもとに、M&A時のデューデリジェンスにも活用できます。
このように各業界のニーズを読み解き、それぞれのプレイヤーが参加したくなるようなスキームを組むことが私たちの強みであり、デバイスメーカーとの大きな差別化ポイントだと考えます。
── サービスのブラッシュアップはどう行っていますか?
山本 現在、大阪大学と共同研究を進めているのですが、身体の情報から私たちができることの可能性はまだまだ広がると手ごたえを感じています。
その実感から海外展開も検討中で、中長期的に東南アジアでの提携を視野に入れているところです。ブルーワーカーは世界中に約27億人いるとされており、大きな可能性があります。目先の話では作業員とドライバーが中心ですが、将来的にはさらに拡大するでしょう。
ホワイトワーカー向けのサービスについても実験したことはありますが、ITリテラシーが高いゆえの誤解や評価基準の複雑さなどがあります。よって、現時点での私たちは、ブルーワーカーとの相性が良いと考えています。
しかし、中長期的にはニーズがあると考えており、先々はホワイトワーカー関連の展開もしたいです。
── 将来的にデータをどう活用する計画なのでしょうか?
山本 損保や生保、製薬会社などとの連携での活用を考えています。保険分野においては、個人の健康データを詳細に把握することで、病気の可能性などを予測し、よりパーソナルな保険商品を提供できる可能性があります。
一方、情報の悪用につなげないことも非常に重要です。Googleの哲学に「意地悪な存在であるな」とありますが、私たちも同じ考えを持っています。データの利用方法とそれを守る仕組みの設計を検討しています。
さらなる成長のため、ルールづくりを進める
── 組織体制について、営業チームやカスタマーサクセスチームを拡大する中で、代表が直面した課題はありますか?
山本 組織が大きくなる中で、外部から人材を受け入れる際の初期のコンフリクト(摩擦)は、若い経営者が抱えやすい課題です。
しかし、私たちの場合は株主や社会の多くの方々の支援を受けており、先回りして課題を排除できるエコシステムが構築できました。毎月の取締役会などを通じて状況を共有し、必要な人材を紹介してもらったりアドバイスをもらったりすることで、課題を感じる前に解消されていることが多いです。
社外の力は非常に重要であり、ベンチャー企業がお金がない中で事業を拡大するためには、多くの味方を作ることが不可欠だと考えています。
── 2025年6月の資金調達とその後のファイナンス戦略は?
山本 今回の資金調達は、事業拡大のための人材増強と、全国に広がる顧客基盤を支えるための体制強化が主な目的です。
次のファイナンス戦略としては、損保や生保、製薬会社など、利益率の高いマーケットのインセンティブ設計を理解した上で、彼らも儲かる形でドライバーなどにサービス展開できる仕組みを設計したいと考えています。
たとえば、私たちのサービス導入によって事故率が低下した場合、その削減分をドライバーにポイントなどで還元する仕組みです。さらに、ドライバーの移動距離の長さを活かし、コンビニやスーパーなどで利用できるクーポンを発行したり、地方創生につなげたりする循環型の社会モデルを構築したいと考えています。
── 将来的にはIPOも考えているのでしょうか?目下、注力していることも教えてください。
山本 視野に入れています。2029年か2030年を目標に、各種ルールなどの整備を進めています。
当面の大きな柱は、循環型モデルの構築と海外展開です。それ以外にも、現在、人事評価制度など組織周りの環境整備を進めており、これらにしっかり取り組むことが重要だと考えています。
- 氏名
- 山本寛大(やまもと ひろたか)
- 社名
- 株式会社enstem
- 役職
- 代表取締役

