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(この記事は2014年3月8日に掲載されたものです。提供: Biglife21


人口減が進む酒田市の活性化に向けて

家業を継ぎ、和食と着物販売を営む生活から一転、倒産したホテルの経営を億単位の負債ごと引き受け、見事再建させたのが、「ホテルリッチ&ガーデン酒田」の熊谷芳則社長だ。現在は酒田市の地域活性化にも尽力する同氏に聞いた。


倒産したホテルの経営を引き受ける

40歳を過ぎてホテル経営に携わるようになった同氏。それまでは、家業を継いで仕出しや宴会料理の店「御園」を営んでいた。同氏の代になってから着物も扱うようになり、料理と着物の2点を事業とするこの会社の経営は現在も続けている。

そんな同氏にホテル経営の話が持ち上がったのは平成9年のこと。「ホテルリッチ&ガーデン酒田」の前身となるホテルは、昭和53年に別の名前で開業するも、過大投資がたたって1年半で倒産し、会社更生法の適用を受けていた。このホテルの経営を、かねてより親交の深かった公認会計士から持ちかけられたのがきっかけという。着物販売業に将来への不安を感じていた同氏は、このホテルに当時でも80%を超える稼働率があり、周囲にホテルの数も多くなかったことから、負債を引き受けてでも採算が取れる可能性があると判断する。

話を受けた平成9年の段階ではまずM&Aで株式を取得し、オブザーバーという立場で一切発言しないことを条件に月例会議に出席。ここで試算表など会社の内容を把握し、更生が解けた平成11年に入社、代表取締役に就任し、いよいよ再建に乗り出すこととなる。

当時の同ホテルは、更生会社だったため設備への投資が全くなされていない状況で、初日の会議では従業員から「あれを直してくれ」「これを買ってくれ」と要望のオンパレードだったという。同氏は「できない言い訳にされても困るから」と、1年間をかけてすべての要望に対応。合わせて経営内容も見直して無駄を削り、1年目から利益を出すことに成功する。

建て直しの機会を伺いつつも、「みすぼらしく、自分が客だったら泊まりたくないような」老朽化したホテルをその後7年間経営することになるが、この間も着実に利益を上げ続け、2度ほど決算賞与を出し、内部留保を蓄積することもできたという。


苦難の連続だった新ホテル建設

やがて平成17年頃、いよいよ新ホテルの建設計画に着手するが、ここでも様々な手枷足枷が同氏を苦しめた。

まずは、旧経営陣の残した借金が重くのしかかる。債権債務も含めて倒産会社の登記簿をそのまま引き継いでいたため、同氏の同ホテル経営はマイナス数億円からスタートしたわけだが、求償権を持つ前経営陣がこの負債をいまだに細々と払い続けているという。このため、資本が切り替わっても保証協会を利用できず、新ホテル建設にあたってもプロパー融資に頼らざるを得ない。融資を受けられる金融機関も限られるため、政府系金融機関である中小企業金融公庫(2008年に解散し、日本政策金融公庫に業務移管)から6割を、残りを荘内銀行から借り入れることでなんとか資金を調達したという。

さらに、土地選びにも難航した。借金があるため、旧ホテルを取り壊してそこに建てる方法は、金融機関が認めてくれない。必然的に旧ホテルを営業しながら建設を進めるしかなく、近隣に土地を探していたところ、ちょうど駐車場として借りないかと言ってきた土地があり、そこの購入を計画する。首尾よく地主の快諾を得ることができたため、金融機関から土地購入資金を工面し、東京の設計事務所に設計を依頼する。ところがその矢先に当の地主から理由も告げられずに「ドタキャン」されてしまったのだ。同氏は「ショックで3日間は立ち直れませんでした」と振り返る。

次に候補に挙がったのが現在の場所だが、当時は5軒の民家があった。地上げはせず、移転後も持ち出しがないように保証するとして移転交渉を進めるが、2軒が最後まで「終の住処だから動けない」と首を縦に振らない。交渉にあたっていた不動産業者も断念してしまうが、同氏は2軒を個別にホテルに招き、「移転しない場合にも、こういう形でホテルは建てる」というパターンを示した図面を見せながら、当地にこういうホテルが建つことは地域のためにも必要だと自ら説得し、ようやく承諾を得ることができたという。