安くても超高品質~驚異の100均グッズ
東京スカイツリーを望む東京・錦糸町。駅に隣接するビル「アルカキット」にダイソーの店がある。7階のフロアすべてがダイソー。「ザ・ダイソー アルカキット錦糸町店」は広さ1000坪。国内最大級の店だという。
9つあるレジはすべてレジ待ちの客で大行列。この店だけで毎月1億2000万円を売り上げている。扱う商品は実に5万点。14のジャンルに分けて陳列されている。
例えばキッチンコーナー。「万能包丁」(108円)をはじめ、包丁は刺身包丁やパン切り包丁など全部で15種類。工具コーナーでは「ドライバー2本セット」が108円なら、「万能ペンチ」も108円だ。
ダイソーの「人気ベスト3商品」を紹介しよう。
第3位は「こだわりのむき甘栗」。保存料や着色料を一切使わず、栗本来の甘みが味わえる自慢の一品だ。第2位は「アイロングローブ」。グローブを手にはめ、服の内側にあてると、ハンガーにかけたままアイロンがけができる。お出かけ前に便利なグッズだ。
そして第1位はネクタイ。ダイソーのネクタイ販売数は年間200万本。実は日本一で、国内販売の実に2割を占めている。
ちなみに今、力を入れているのが和雑貨のコーナーだ。職人技が光る伝統工芸品も並んでいる。「美濃焼 湯飲み」は岐阜県の窯元から直接仕入れている。和雑貨は外国人にも人気。トルコから来た女性観光客が自慢げに見せてくれたのは「日の丸扇子」。「日本の伝統品がこれだけ安いとトルコの友達に配れる」と言う。
2017年11月、ダイソーの新しい店が仙台の郊外に誕生した。「ザ・ダイソー 茂庭店」。地元の関係者が集まり、厳かな雰囲気の中で行なわれたセレモニーに、頭に被り物をした姿で登場したのが100円ショップの王者、大創産業社長の矢野博丈(74歳)だ。
「みなさん、おはようございます。大創産業の、申し訳ない、こんな格好で社長です」
セレモニーが終わるとさっそく店内へ。するとさっきまでの「おふざけモード」から一変した。売れ筋の弁当箱のコーナーで、気になる点があるらしい。矢野が「弁当箱と保冷剤の陳列は一緒がいいぞ」と指示を出すと、社員に緊張が走った。なぜ100円で売れるのか。矢野は「商品の数をたくさん仕入れるから。普通なら3割くらい利益をもらわないと運営ができないのですが、1円の利益でも100万円分売れれば1万円の利益になる。1円、2円の儲けでもやっていける仕組みになったのは、店の数が多いからです」と言う。
ダイソーは小さな利益でも量で儲けを得る、究極の「薄利多売ビジネス」なのだ。
ダイソーは毎月10店舗のペースで出店攻勢をかけ、今や国内に3150店舗。海外にも1900店舗を構え、世界中で5000店以上を展開している。売り上げは4200億円。2位以下を大きく引き離す100均の王者だ。
100均の王者ダイソー~安さの舞台裏を公開
広島県東広島市にあるダイソーの本社。その朝はラジオ体操で始まる。従業員は全国で3万5千人に及ぶ。
午後1時。荷物を抱えた人たちが続々とやってきた。ダイソーの本社には、1日に20社余りのメーカーが全国からやって来る。商品の99%がメーカーと共同開発するプライベートブランド。毎月700もの新商品を生み出しているという。
メーカーと相対するのは30人のバイヤー。ダイソーの根幹を担うスペシャリストだ。
アパレル担当で、入社13年目の脇田悟。始まったのは靴下の商談だ。メーカーが次の秋冬に向けた新商品を提案する。すると脇田が希望買取価格を切り出した。メーカーにとってはなかなか厳しい金額のようで、渋い表情だ。脇田は「前年の倍の量を発注する」と口説く。
商談は10銭単位の攻防になる。それでもメーカーにとっては「ダイソーは商品数も店舗数もあって販売力もある会社なので、商品を1つでも多く決めることは会社の利益につながります」(メーカーの担当者)と、メリットは大きい。 「ダイソー詣で」をするのは日本のメーカーばかりではない。ある男性は「バングラデシュのスリッパ工場の商品を紹介しに来た」と言う。
スリッパはダイソーの稼ぎ頭のひとつ。これまでは150円以上の価格帯が中心だった。今回、バングラデシュの工場と手を組み、新しく100円スリッパを開発するという。
担当バイヤーは入社8年目の櫻木由香里。その櫻木が、依頼していたスリッパと、今回、工場で作った試作品では品質が違うと指摘している。櫻木がハサミでスリッパを切り出した。見ると、履き心地を決めるクッション材が、10ミリの約束だったのに試作品は3ミリしかなかった。
手厳しい商談だが、櫻木には強い信念がある。「お客様に満足していただけるような価値をプラスしたいという気持ちでやっています」と言う。
商談には社長の矢野が加わることもある。矢野は社長となった今も現役のバイヤーだ。社員はもちろん、メーカーにも遠慮なく意見を言う。100円の商品で客を飽きさせない難しさを誰よりも知っているからだ。
「お客様の心を引き付けるのは大変です。戦いの中で、良いものを作っていく気持ちがちょっとでも薄らぐと、あっという間に半年先には落ちていく。怖いのは女心とお客様心です」(矢野)
国内8カ所にある物流倉庫。ダイソーの商品総数は7万点。それを供給するメーカーは、国内外合わせて1400にも及ぶ。まさにグローバルで商品力を積み上げている。
売り上げはこの20年、常に右肩上がり。そして去年、初めて4000億円を突破した。
夜逃げ、借金、倒産~ダイソー社長ヒストリー
広島県福富町に、矢野が高校までを過ごした築150年の生家がある。今は空き家となっているが、矢野は時折ここを訪れるという。
父は町医者だったが、貧しい人からは金をとらず、生活は厳しかった。そんな父は口を酸っぱくしてこう言い続けたという。
「勉強せえ、仕事を手伝え、勤勉にせえと、火のように怒られた。親父のおかげで身を粉にして働くというのを教えてもらった。あれがよかった」(矢野)
8人兄弟の末っ子として生まれた矢野。2人の兄は成績優秀で医者となった。劣等感をバネに身を粉にして働き続けてきたという矢野だが、その半生は苦難の歴史だった。
1963年、矢野は一浪して中央大学の夜間に入学。「バナナの叩き売り」などのアルバイトで生計を立て、学生結婚する。
卒業後、地元・広島に戻り、妻の実家の養殖業にたずさわる。父の教え通り懸命に働くが、借金だけが膨らんで倒産の危機に陥った。どうしようもなくなった矢野は、医者となっていた兄・幡二に泣きついた。頼んだ借金は700万円。いまなら1億円に相当する。幡二はなにも聞かずに金を用立ててくれた。
兄からの借金で一時はしのぐも、3年後にあえなく倒産。「兄に顔向けできない」と、矢野がとった行動は夜逃げ。妻と幼い息子を連れて、広島を離れ、東京に向かった。その後は土木作業やチリ紙交換など9回も転職。しかし、どれも長続きしなかった。
そんなある日、幡二から1通の手紙が届いた。「東京に行くのでホテルまで来い」というのだ。「借金のことをなじられるのだろう」としばらくためらったが、矢野は兄を訪ねた。すると幡二は笑顔で矢野の手を取り、優しく迎え入れてくれた。
「怒られるかと思ったら、ニコッとした顔が見えた。『元気だったか? よかった、お金のことは心配しないでいい。お前らはお前らで生きていけよ。借金は返さなくていいから、自由に生きていけ』と言ってくれた。本当に泣きました」(矢野)
幡二さんはこのときの心境をこう語る。
「昨日会ったような感じだった。兄弟だからブランクは無い。考えていることはだいたいわかる。厳しい世間を渡ったんだろう。」
兄に恥ずかしくない人間になろう。そう誓った矢野に転機が訪れた。
「100円均一にしたくなかった」~ダイソー涙の誕生秘話
当時、日雇い労働でなんとか暮らしていた矢野。ふと見ると人だかりができていた。それは移動販売。並べられた家庭用品や日用雑貨が飛ぶように売れていた。
29歳になった矢野は1972年、移動販売の会社「矢野商店」を起こし、昼夜なく懸命に働いた。
順調なスタートを切った矢野に災難が降りかかる。自宅兼倉庫が火事にあったのだ。放火だった。財産を失い、呆然と立ち尽くす矢野だが、焼け残ったダンボールを見つけた。中には無傷の商品が入っていた。これが矢野に転機をもたらした。
生活費の足しにしようと移動販売の準備をしていると、客が集まってきた。次々と値段を聞かれていくうちに、矢野は「もう全部100円でいいです」。これこそが「100円均一」誕生の瞬間だった。矢野はこのときのことを「値段をつける暇がなかったし、人手がいない。仕方がなかった。本当は100円均一にしたくなかった」と、振り返る。
100円均一という安さは人気を呼び、行く先々で大盛況に。しかし当時の商品には、粗悪品ではないが、いわゆるB級品も混じっていた。客からは「どうせ安物買いの銭失いよ」という声も上がった。
世間の評価はそんな物なのか。矢野は唇をかんだ。
「安物買いの銭失いと言われて、悔しい思いをずっとしてきたんです。その思いが、いい商品作りにつながった。うれしいです。いつもバカにされていたので」(矢野)
「100円でも客が満足する商品を作ろう」と、矢野は100円ギリギリの原価で商品を作るようメーカーと交渉、品数を増やしていった。するとそれらの商品は次第に評判となり、大手スーパーや百貨店から店頭販売の依頼が殺到するようになった。
1977年には大創産業に社名変更し、念願だった常設の店舗もオープン。2001年の台湾出店を皮切りに海外にも進出。100均グッズは世界に広がっている。
ダイソー流の働き方~誰もが輝ける社会へ
広島県にあるダイソー本社。そこでは障がい者のスタッフも働いている。朝礼を終えて向かった先は、仕分け作業の部屋。国内各地の店舗に書類や備品を正確に届けるための、大事な仕事だ。
ダイソーで働く障がい者は全国におよそ250人。ベテランも多い。入社18年目の万足厚司は「前は鉄工所で働いていた。その時はきつかったけど、ここに入って楽になった」と言う。
楽しく働けるように、月に1回、親睦会を開き、コミュニケーションの場を設けている。
20年前から障がい者雇用を進めてきた矢野は今、もっと大きなことを考えている。
かつて家具のアウトレット店だった建物。4年前に購入し、新たな施設に生まれ変わらせるという。今は見本や試作品が置いてある倉庫になっているが、大幅にリフォームする。
1階は70人規模のイートインスペースがあるパン屋さん。2階は障がい者スタッフがメインとなって働く100円ショップ。そして3階は、デイサービスや障がい者の職業訓練の場にする。
さらに新しい取り組みも。並んでいるのは障がい者が描いたアート作品。これらで矢野はダイソーの新たな100円商品を生み出した。「パラリンアートカレンダー」(108円)というカレンダーだ。売り上げの一部はイラストを描いた障がい者の支援に。自立の手助けになればという。
「社会貢献をするのが夢です。その夢を実現できる境遇にまできたのはありがたい」(矢野)
ダイソー本社には、週に1度行う伝統の作業がある。それは「デバンニング」というトラックからの荷おろし。社長の矢野自ら率先して行う。
本社の社員は年齢や部署に関係なく参加。こうして商品を実感するのだ。勤続30年、部長の新広等も汗を流していた。
「これはみんなでやらないと。上司とかは関係ない。荷物を触るのは大事です、商品だから」(新広)
100円だからこそ、商品に愛情を。それがダイソー魂だ。
~村上龍の編集後記~
登場するゲストは、共通して優れた業績や理念を持つ。だが、「面白い」と感じるゲストはそう多くない。矢野さんは面白かった。
「希望よりも不安を大切にする」と明言する100円ショップのチャンピオン、要は「不安に耐えるだけの力がある」ということだ。
「仕事人生は、苦い思い出ばかり」らしいが、「客が驚き、喜ぶのを見たい」という思いで、ダイソーは数え切れない危機を乗り切り、生き残って、業界トップとなった。
言動は多少ユニークに映るが、矢野さんは実は非常にシャイな人で、かつ価値観は普遍的だと思う。
<出演者略歴>
矢野博丈(やの・ひろたけ)1943年、北京生まれ。1967年、中央大学理工学部卒業。1969年、ハマチ養殖業に携わるも倒産、夜逃げ。以降、百科事典の訪問販売など転職9回。1977年、大創産業設立。
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