コストコの人気パン、缶詰…余った食の有効利用法
買い物のテーマパーク「コストコホールセール幕張倉庫店」。アメリカサイズの食料品が定番だが、中でもよく売れているのがパン。一番人気のシンプルなディナーロールをはじめ、こだわりのパンがおよそ40種類も用意されている。
店も閉まった午後8時。空の棚を引いたスタッフがパン売り場に現れた。売り場のパンをチェックすると、いくつか選別して棚に移し始めた。はじいたのは消費期限の迫った商品。コストコでは期限の2日前には売り場から撤去する決まりになっている。加工当日に撤去となるパンもある。これらは捨てられてしまうのか。
「廃棄するわけではなく、寄付に持っていきます」(渡邉誠司店長)
翌朝、選別しておいたパンが、やってきたトラックに積み込まれた。コストコの消費期限の迫ったパンはNPO団体、セカンドハーベスト・ジャパンを通じて有効活用される。
こうした取り組みは企業だけでなく個人からも。東京都足立区の「エルソフィア」では、「くらしフェスタ」というイベントを開催していた。やって来た人たちが、缶入りのクラッカーやツナ缶4個パック、赤ちゃん用の離乳食……次々と担当者に差し出していく。
持ち込む食品は何でもいいが、条件もある。まだ未開封であること。そして賞味期限が一ヶ月以上残っていることだ。現在、食べられるのに処分されている食品、いわゆる食品ロスは、全国で年間およそ632万トン。全ての日本人が毎日、茶碗1杯分のご飯を捨てている計算になる。ここで集めた食品も、セカンドハーベスト・ジャパンに送られる。
後日、各所で集められた食品が運ばれた先は東京・浅草橋のガード下。大量の食品が降ろされ、一軒の雑居ビルに運び込まれてゆく。セカンドハーベスト・ジャパンの本部だ。
セカンドハーベスト・ジャパンは2002年に設立された日本初のフードバンク。フードバンクとは、まだ食べられるのに捨てられてしまう食品を困っている人や団体に届ける取り組みのことだ。
本部には卵やバナナなど、生鮮食品も届いていた。様々なところから集めた食品は、施設や個人に振り分けられる。寄付する企業にも、廃棄コストの削減などのメリットがある。
本部から歩いて3分のところには調理ができる施設「ハーベストセントラルキッチン」も持っている。この日、作っていたのは弁当。大学芋やおからの和え物、ウインナーもたっぷり用意してあった。「全部寄付です。ウインナーはゆでたり炒めたりしますが、あとは封を開けただけの惣菜です」(管理栄養士の武田幸佳)と言う。
「もったいない」食品が「ありがとう」に変わる
弁当が出来上がったところでトラックがやってきた。弁当をテキパキ積み込むと、休む間もなく出発。自らハンドルを握るのがセカンドハーベスト・ジャパン代表、チャールズ・マクジルトン(54歳)だ。およそ10分でトラックは隅田川のほとりの高速道路の高架下へ。そこには既に弁当を待つ人達が集まっており、あっという間に200人以上の行列ができた。第2、第4土曜日の午後1時から行っている食料の配給だ。
持ってきたのは弁当だけではない。パンやヨーグルト、日持ちする食品も配る。並んでいる人の多くはホームレス。この炊き出しは10年続いており、彼らの間では有名なのだ。
チャールズは談笑しながら行列を整理。その間、食料を配っていたのはホームレスの人たち。毎週、手伝っていると言う。誰かに言われたわけではなく、自発的にグループを作り、配給を手伝うようになった。
この活動を、チャールズはある信念のもとに行なっているという。
「助けることが目的ではなく、『こっちに食べ物が余っています。よかったら使ってください』。食べ物を分配しましょうということです」(チャールズ)
食料は浅草橋の本部でも配っている。そこに女性がキャリーバッグを引いてやって来た。斉藤香織さん(仮名)。小学生と中学生の子供がいるシングルマザーだ。
本部の一部は常設の食料配布場所になっていて、好きな時にもらいにくることができる。食料の支給は一人年に6回まで。もらえる量はその日によって変わるが、だいたいカゴ3つから4つ分。斉藤さんはこの日、カゴ4つ分の食料を選び出した。
斉藤さんは夫のDVで5年前に離婚。その後うつ病になり、働くこともできなくなった。現在収入はなく、児童扶養手当だけで生活している。
「四ヶ月に1回、まとめて支給されるので、うまくやりくりしているつもりが、受給の前の月になると生活が大変になります。一番しわ寄せがくるのが食費なんです」(斉藤さん)
子供がいるのに食べさせることもできない。困っている時にセカンドハーベストのことを聞き、2年前から通うようになった。
「みんな、スーツケースを持ってきてたくさん持って帰る。こんなに困っている人がいっぱいいて、オープンに持って帰っていいんだと、ちょっと安心しました」(斉藤さん)
食料支援を受けているのは斉藤さんのような個人だけではない。車で来た濱松敏廣さんは、「学習塾で使う食料をもらいに来た」と言う。食料を運んだ先は東京・新宿のビルにある「ステップアップ塾」。子供たちがボランティアの先生に勉強を教わっていた。ここは貧困家庭を支援する塾。世帯年収135万円以下の家庭の子供が8割を占める。
隣からいい匂いがしてきた。やはりボランティアのお母さんが夕食の準備中。貧困家庭の子供が多いため、セカンドハーベストから仕入れた食材で食事を出しているのだ。
この日のメニューは炊きたてご飯と、揚げ春巻きや銀ダラの煮付けなど、おかずが4品。さらにサプライズの差し入れも。セカンドハーベストと新たに支援する契約を結んだ企業ユニリーバからアイスクリームのプレゼントだ。普段、なかなか食べられないスイーツに子供たちは大喜び。「無償で頂ける物がなければ成立しません」(濱松さん)と言う。
今の日本には、セカンドハーベストを頼りにしている人たちが現実にいる。浅草橋まで取りに来ることができない人のためには、食料の配送も行う。配送しているのは東京・神奈川・埼玉の1都2県。自分で取りに来る人と合わせ、1万世帯の味方となっているのだ。
「みんなが安全に食べ物にアクセスできるフードセーフティーネットを作りたいんです。何かあったら病院に行けるのと同じ感覚で、セーフティーネットがある。そんな安心の気持ちを伝えたい」(チャールズ)
ホームレス体験が生んだ~フードバンク誕生秘話
チャールズは1963年、アメリカ北西部のモンタナ州で7人兄弟の長男として生まれた。父親は高校教師。子沢山なのに加え、孤児なども預かっていたため、家は貧しく、チャールズはいつもお腹をすかしていたと言う。
4歳の時、何かお腹に入れたくて手を出したのが救急箱に入っていた咳止めのシロップ。これが美味しくて、その後は料理用のラム酒やバーボンなども試すように。その結果、12歳の頃にはアルコール依存症となってしまった。
「悲しかったんですね。私が死んだらみんな幸せではないかと思っていた」(チャールズ)
高校時代に必死の思いでアルコール依存症を克服。卒業後には海軍に入った。その後、横須賀基地に配属されたチャールズは1984年に初来日。除隊後、大学に入り、東京・山谷の修道院に下宿した。そこで見たのは昼間から酒を飲み、路上で寝たりしているドヤ街の人たち。かつて酒に溺れたチャールズは、彼らのことが気になって仕方なかった。
そんな山谷の人たちのための炊き出しが毎週修道院で行われ、チャールズも手伝うようになる。だが、そこである違和感を覚えた。
「『これからあんたに食べさせる』と言うんです。子供ではないのになぜ『食べさせる』という表現になるのか。心が痛くなりました」
するとチャールズは驚きの行動に出る。食料をもらう側の気持ちになろうと、隅田川沿いの歩道で路上生活を始めたのだ。
テントの作り方などいろいろなことを、炊き出しの時に顔見知りになっていたホームレスのコマダさんが教えてくれた。最初の夜は、コマダさんが言う通り寒さが身にしみた。朝を迎えるとスーツに。この時もチャールズは働いており、テントから会社に通っていた。
こうして人知れず始めた路上生活。食事は毎晩テントの中で煮炊きし、自炊。インスタントラーメンばかりなので、少しでも栄養を摂ろうと野菜や卵を入れるようにした。会社員として働いているため臭いをさせるわけにはいかない。シャワー代わりに利用したのは、広めのスペースがあった公衆トイレだった。
協力企業も続々~画期的な食料支援
そんな生活を始めて1年が経った頃、チャールズの意識を大きく変える出来事が。朝、誰かが突然、おにぎりを投げ込んできた。外に出てみると、おにぎりはその一帯のテント全てに投げ入れられていた。チャールズは「勝手にドアを開けておにぎりを投げられた。私は動物じゃないですよ。本人は出勤前にわざわざコンビニに行っておにぎりを買って、いい気持ちになっていたと思います。ただし、受ける側は全然違う」と、憤りを覚えた。
この体験から、チャールズは一つの答えにたどり着く。
「自分が相手に対してどんな偏見を持っているのか、それを明確にしない限り、深く相手に接触はできない。あげる側と受ける側にはラインがある。そのラインをなくして一緒にやればどうでしょう、と」(チャールズ)
相手の気持ちを理解し、対等な立場に立った上での支援でなければ受け入れられないと気付かされた。そこで思い当たったのがアメリカで広まっていたフードバンクだった。食料を分け与えるのではなく、必要な人が持っていくシステムだ。かくしてチャールズは2002年、日本初のフードバンクを設立した。
しかし当初、賛同し食料を提供してくれたのは、コストコとハインツの外資系企業2社だけだった。それでも地道な企業回りを続けること3年。ついに日本の企業からも食品提供の申し出があった。第1号は冷凍食品の大手のニチレイ。出してくれたのは運ぶ途中でダンボールが破損した商品だった。もちろん中はなんともない。しかしそれまでは販売店に卸せず、破棄してきたと言う。
「捨てるよりは有意義に使っていただきたいし、セカンドハーベストさんはきちんと管理をして使っていただけるので、信用があるんです」(ニチレイフーズ・徳山寧さん)
ニチレイはこうした食品を提供するだけでなく配送まで協力している。この日は千葉県木更津市内の児童養護施設「野の花の家」に。他にも福祉施設など13の施設に冷凍食品を届けている。この日は使いでのある冷凍食品10種類を提供。夕食ではさっそく鶏の竜田揚げが振る舞われた。
「唐揚げとか竜田揚げとか、ニチレイさんからいただくものは子供たちにも人気で、現場の職員たちも手間が省けるので助かっております」(施設長の中尾充孝さん)
ニチレイとの提携がきっかけとなり、その後、提供する日本企業は増加の一途。今では1400社が協力している。
まだ足りない人がいる~広がる食料支援の輪
東京・浅草橋から始まった日本のフードバンクは今や全国に広がっている。チャールズの活動をきっかけに新たなフードバンク団体が全国で誕生。その数は今や77を数える。
この日、チャールズは沖縄の「フードバンク2h沖縄」へ。代表の奥平智子さんは2007年に活動を開始し、チャールズにアドバイスを受けてきた。活動開始から10年が経つが、その現状は「世の中の景気はよくなっているといいますが、沖縄の貧困状況は変わりません」と言う。
実は沖縄の貧困率は全国でワースト1位。奥平さんの元にくる食料支援の依頼は年々増え続けているが、配る食料が足りないのだと言う。食料を保管する場所には何も置かれていない棚が目立つ。
この事態にチャールズが立ち上がる。相談から1週間後。奥平さんの事務所の前にトラックが到着、みるみるダンボールの山ができていく。運ばれてきたのはサントリーのいろいろな種類の飲料だ。セカンドハーベスト・ジャパンはサントリーと提携している。そこでチャールズが、沖縄にも飲料を提供して欲しいと掛け合ったのだ。
「沖縄は12月くらいまで暑いので、子供たちがいるところは喜んでいます」(奥平さん)
スタジオでチャールズは、いまの活動に足りないのは「資金と支給の拠点のふたつ」だと語っている。
今後、拠点を増やしていく上で欠かせないのがボランティアの存在だが、協力してくれる企業は年々増えているという。
セカンドハーベストの本部で食品の箱詰めをしている女性はモンデリーズ・ジャパンの加藤麻里子さん。同社では「年に1回、有給休暇とは別に好きなボランティアを見つけて、業務内容とは違うことをやろうという活動をやっています」と言う。
また、67歳の木村行男さんはガラス加工会社の社長。「時間的な余裕があるから、パチンコや競馬で遊んでいては申し訳ない。少しでも役に立てることがあればと思い、週2日は来ています」と言う。
「よかったらどうぞ」の支援がボランティア一人一人から広がっていく。
~村上龍の編集後記~
今の日本で、空腹を抱えている人々がいることをイメージしづらい。ファストファッションを身につけ、スマホを操ったりしている。
スマホを買うお金があったら食事を何とかしろと思う人も多いだろう。だが、どんな時代でも、空腹は辛く、社会を不安定にする。
マクジルトンさんには壮絶な過去があり、だからなのか、しかしなのか、考え方も行動もフェアだ。「可哀想だから助ける」のではなく、「ここに温かい食事があるから、よかったらどうぞ」と呼びかける。
「共に生きる」という意味を、シンプルに示している。
<出演者略歴>
チャールズ・マクジルトン 1963年、アメリカ生まれ。高校卒業後、海軍に入隊。1984年、横須賀基地に配属。2年間の兵役を終え帰国。1989年、再来日。2002年、セカンドハーベスト・ジャパン設立。
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