西郷どんや芥川も通った東京・亀戸の老舗行列店
東京スカイツリーのお膝元、江東区にある亀戸天神社は、学問の神様・菅原道真が祀られている合格祈願のパワースポット。受験生やその家族が、ひっきりなしにお参りに来る。そして参拝客の多くが帰りに立ち寄るのが、船橋屋亀戸天神前本店だ。
中に入ると、落ち着いた雰囲気の空間が。定番は「クリーム白玉あんみつ」(900円)。天草から煮出した手作りの寒天が女性たちに人気の一品だ。「白玉しるこ」(800円)で使っている小豆は北海道産だ。
船橋屋は創業1805年の老舗。店内に飾られた看板は昭和の文豪・吉川英治の筆によるもの。かつて西郷隆盛や芥川龍之介など多くの著名人が、あるものを目当てにこの店に通ったという。芥川の随筆「本所両国」に、「僕等は『天神様』の外へ出た後、『船橋屋』の葛餅を食ふ相談をした。僕は僕の友だちと度々この葛餅を食ったものである」という一節がある。
人気の秘密はそのプルンプルンの食感にある。そして、味の決め手は黒蜜。使われているのは沖縄・波照間(はてるま)島産の黒糖だ。これに数種類の砂糖をブレンドし、何度もアク取りを繰り返すと、ほんのりと上品な甘さになる。最後にきな粉をたっぷりとかける。これが江戸時代から変わらぬ船橋屋の「くず餅」(630円)だ。
船橋屋は今やデパ地下や駅ナカにも進出。東京駅の中にあるエキュート東京店では、「あんみつ」や「豆寒天」などもよく売れるが、一番人気はやはり「くず餅」だ。JR東日本が主催する「おみやげグランプリ」で今年、総合グランプリに輝いた。
「くず餅」は、おいしさ以外にもう一つ、人気の理由がある。「胃と腸に良い」「お腹に優しい」というのだ。というのも、「くず餅は和菓子で唯一の発酵食品」だから。近年、体に良いとブームになっている発酵食品だが、船橋屋の「くず餅」も、その一つとして注目を集めているのだ。
沖縄県南部の南城市の山中に船橋屋の工場がある。そこには一見、「いけす」のようなものが、いくつも並んでいるだけ。工場を管理している狩俣努(70)は「くず餅の原料、デンプンを発酵している」と言う。
原料を作っているのは沖縄の食品メーカー「麩久寿」。機械の中に小麦粉を入れ、こねてから水洗いするとグルテンとデンプンに分かれる。グルテンは沖縄名産「くるま麩」の原料に。船橋屋はこれをラスクに加工。沖縄限定のお土産「美らすく」として販売している。
もう一方のデンプンがくず餅の原料となる。デンプンを発酵工場の水槽に投入。それを寒暖差の少ない沖縄の気候のもとで発酵させていくと、プクプクと小さな泡が浮いてくる。発酵の秘密は水槽の木枠にある。そこには「乳酸菌がすみ着いています」(狩俣)。200年以上続く発酵の過程で、船橋屋の樽には乳酸菌がすみ着いているのだ。この乳酸菌が「体に優しい」の正体だ。
船橋屋8代目当主・渡辺雅司(54)は、「くず餅」のプルンプルンの食感は、途方も無い発酵時間が生み出しているという。
「450日ほどかけます。長い時間をかけて天然で発酵させるとくず餅の弾力が全然違う」
450日かけて発酵させた後は、水を抜いて天日で乾かす。発酵したデンプンは沖縄から運ばれ、亀戸本店のとなりの工場へ。ここでは水を何度も替えながら、デンプンを3日間つけ洗いし、臭いや酸味などを取り除く。それが終わったら、バットに広げて蒸していく。機械も使うが、基本は江戸時代から変わらない手作りだ。
船橋屋の「くず餅」は、防腐剤などの添加物を一切使わず、出来上がったら手作業で包む。他のくず餅屋では真空パックにするところも多いが、船橋屋では、自然のままの状態で食べてほしいと、あえて使わない。そのため、「日持ちが短い2日の生菓子」なのだ。
下町の老舗が手掛ける和洋スイーツ&コーヒー
長年、お客に支持されてきた船橋屋だが、渡辺は老舗としての将来に、「老舗と言えども、お客様に『付いて来てよ』という時代ではない」と危惧を抱き、伝統を守るだけでなく、和菓子の可能性を広げることにも挑戦している。
その一つが姉妹店の東京・広尾「船橋屋こよみ」だ。本店とは違って和モダンなカフェスタイル。ここでは幅広い世代に和菓子に親しんでもらうため、この店独自の新しいスイーツを開発している。
「船橋屋こよみ」のスイーツでいま話題となっているのが「くず餅プリン」(650円)。だ。使うのは、くず餅の原料と同じ発酵デンプン。これをプリンの材料に加えていくと、これまでにない新食感のプリンになるという。そしてカラメルの代わりに、くず餅にかける黒蜜とたっぷりのきな粉をかける。洋菓子のプリンと和のテイストを融合させたこのスイーツは、今や「くず餅」に次ぐ船橋屋の看板商品になった。
また、日本橋のコレド室町店では、限定メニューの船橋屋オリジナルくず餅専用コーヒーが評判になっている。最近言われる和菓子離れだが、あるメーカーがその理由を調査したところ、幅広い年代が、「コーヒーや紅茶に合わないから」と答えた。そこで船橋屋が手を組んだのが、戦後間もなくからの老舗「ミカドコーヒー」。焙煎士が選んだのがブラジルの「アリアンサ」という豆だった。
「ブラジルのコーヒー豆は香ばしいテイストがベースにあるのですが、くず餅のきな粉とリンクする部分があるんです」(ミカド珈琲商会の焙煎士・山崎健さん)
その豆で淹れたコーヒーを「くず餅」とセットで出すと、これが大好評になった。
老舗にあぐらをかかず、革新を続ける船橋屋は、都内を中心に25店舗を展開。渡辺の改革で、売り上げも19億円(2017年)と、順調に伸ばし続けている。
「変化が早い時代なので、今のままでいいわけではない。時代に合わせ、お客様の役に立てるようないろいろな試みをどんどん進めていかないといけないと、常に思っています」(渡辺)
老舗和菓子店の8代目~元銀行マンの孤軍奮闘記
東京スカイツリーの夜景が美しい隅田川のほとり。ある日、渡辺とともに集まったのは、東京で100年以上続く老舗の当主や跡継ぎたち、「東都のれん会」のメンバーだ。
「百貨店も合併で店舗が減っていて、いいものを買える場所が少なくなっています」(「山本海苔店」山本貴大専務)
「いいものを知っている人が減ってしまう」(「にんべん」髙津克幸社長)
「全部そろってセットで1万円の浴衣が増えている。本当のものづくりをしている店がなくなってしまったんです」(「竺仙」小川茂之常務)
老舗と言えども、生き残りが難しい時代だという。そんな中で、「更科堀井」の堀井良教社長は渡辺について、「渡辺さんに感心しているのが、すごく人を大事にしていることです。特にこの10年くらいは人が育っているから、仕事も広がっている」と語る。
船橋屋の創業は江戸時代後期の1805年。千葉県船橋生まれの初代が、亀戸天神の門前で、くず餅を売り出したのが始まりだ。明治初頭の江戸の名物番付。船橋屋のくず餅は堂々、菓子部門の「横綱」に選ばれている。
老舗の和菓子屋に1964年、渡辺は生まれた。幼いころからくず餅は大好きだったが、「祖父からも父からも、『継げ』という話はなかった。私も好きにやらせてもらい、継ぐ気はほとんどなかったですね」と言う。
1986年、大学を卒業すると大手都市銀行へ。その直後に世はバブルの時代に突入、株価も連日上がり続けた。渡辺は、巨額の金を運用するトレーダーとして、マネー戦争の最前線で活躍した。だが、バブル崩壊で景気は一気に冷え込み、その影響は船橋屋にも及んだ。渡辺は、社長だった父を支えようと銀行を辞め、1993年、専務として入社した。
「一応グローバルバンカーだったからたくさんの企業を見てきたので、『こんな小さい会社くらい簡単に回せるだろう』と、少しなめた感じで入ったんです」(渡辺)
渡辺が目の当たりにしたのは、仕入れ業者とのなれ合いの関係だった。社員にコスト意識がなく、仕入れ値は業者の言いなり。さらに工場の休憩室では、昔かたぎの職人が幅を利かせ、勤務時間中でも酒盛り。エリート然とした渡辺と職人たちはそりが合わなかった。
当時を知る現在の工場長・天野充雄は「僕らの先輩は丁稚奉公という意識が強かった。『社長の言うことは聞くが、あとは好きなようにやりますよ』と」と振り返る。
昔ながらの体質を変えようと、渡辺は改革に乗り出した。まず、古い付き合いの業者をほとんど入れ替え、コストを一から見直し。メインバンクまで変えた。
次に行ったのは「社内のシステム化」。それまでのくず餅づくりは、職人の感覚に頼る部分が多かった。渡辺はそれをやめ、温度や濃度など、製造のあらゆる条件を数値化し、バラツキをなくした。元銀行マンだから、売り上げにもこだわった。
17000人がエントリー~「人を生かす」で人気企業に
船橋屋のためを思い、改革を強引に推し進めた結果、狙い通り、船橋屋は増収増益に転じた。しかし、渡辺はあることに気づく。それは社員に覇気がなくなっていることだった。
ある時、女性社員2人を呼び、「縦軸はやる気、横軸は給料。今の船橋屋は、この中のどこにあると思う?」と訊ねた。すると彼女たちが指したのは図の左下。会社としては最低ランクの評価だった。
「その時のショックは今でも忘れないです。社員はやらされている、と感じていた」(渡辺)
この時渡辺の質問に答えたのが、現在執行役員を務める佐藤恭子(37)だ。
「とにかく閉鎖的で視野が狭い会社だと感じていて、怒られないために仕事をやっていて、仕事の目的が見出せている人はほぼいなかったと思います」
渡辺の改革についていけず、社員が一人また一人と会社を去っていった。
「要は人を見ていなかったんですね。人は仕組みやルールでは動かない。『みんなでつくるんだ』と言う組織に変えていかないと、一人一人が生きてこないし元気も出ない。その時に気が付きました」(渡辺)
これを機に、渡辺は変わった。数字ではなく人を見るようになったのだ。従業員に寄り添うことで信頼を得た渡辺は、2008年、船橋屋8代目の当主として社長に就任。以来、社員の自主性を大事にするようになった。
軽井沢の合宿所に集まっていたのは「組織活性化プロジェクト」のメンバーたち。船橋屋を元気な会社にしようという20代の若手社員を中心に構成されている。
彼らが取り組むテーマは3年後の船橋屋の姿。メンバーそれぞれが、3年後に達成したいことを書き込み。実現に向けて全員で共有していく。「ニューヨークに支店を」「自然のままで賞味期限を延ばしたい」…。採用された案は、実際に担当させてもらえるというから、熱も入る。入社まもない女性社員が考案したスイーツがメニューに採用されることもあるし、今や売り上げの大きな柱となっているネット通販も、若い社員の提案から始まった。
人材の育成に力を入れている渡辺には、今、企業からの講演依頼が殺到している。多くの経営者から注目されているのはあることがきっかけだった。それが新卒採用のエントリー数。船橋屋は、わずか5人の採用枠に約17000人もの就活学生がエントリーする人気企業に生まれ変わったのだ
下町の老舗の次なる挑戦~「くず餅」の菌を健康に生かす?
「夢のような話だということで研究が始まったんです。社会性を持った事業をしていきたいと考えています」と言う渡辺が訪れたのは、沖縄県うるま市にある沖縄健康バイオテクノロジー研究開発センター。ここに、船橋屋の将来を左右するかもしれない、あるものを預けている。
船橋屋には「くず餅を食べると体調がいい」というお客の声が、昔から多く寄せられていた。そこで渡辺は医療機関に分析を依頼。すると、よそにはない新種の乳酸菌が見つかり、「くず餅乳酸菌」と名付けられた。その「くず餅乳酸菌」を本格的に健康分野に生かしたいと、同センターへ持ち込み、分析や培養をしてもらっているのだ。
「『体の役に立つものをつくりたい』という渡辺さんの熱意がありましたので」(「トロピカルテクノプラス」の池端真美さん)
一方、東京都千代田区・麹町にある「辻クリニック」。「くず餅乳酸菌」を医療の面で生かそうとしているのが、院長の辻直樹さんだ。
辻さんは「くず餅乳酸菌」が入ったカプセルを、8人の協力者に3ヵ月間飲んでもらい、腸内細菌がどう変わるかを観察した。すると30代から60代まで、8人全員から、腸内の悪玉菌が減るという結果が出たのだ。
「肌が良くなってきた人とか、大腸ポリープがよくできていた人ができなくなったとか。まだそれが『くず餅乳酸菌』によるものなのかどうかは分からないが、少なからず飲み始めて改善した人たちが出ているのだから、大規模試験をやった方がいい」(辻さん)
渡辺も「くず餅乳酸菌」を商品に生かそうとしている。
「くず餅乳酸菌が安定してきたら、いろいろなお菓子に入れてみたりとか、一般向けのジュレにして取っていただきたいとか、いろいろなことを考えています」
船橋屋は来年にも、くず餅乳酸菌の飲むゼリーを発売する予定。江戸時代から生きてきた菌が、新たな未来を切り開こうとしている。
~村上龍の編集後記~
渡辺さんは、会社に入って、妥協のない改革に取り組んだ。職人の仕事をマニュアル化し、努力を怠る仕入れ先を切り、メインバンクとの取引内容にも切り込んだ
だが、社内の雰囲気が殺伐としているのに気づき、従業員のやる気を引き出すために、あらゆることをやった。
「船橋屋」は生まれ変わったが、不思議なことに、なのか、あるいは、当然のこと、なのか、たぶん、「くず餅」の味、食感の基本は変わっていない。
スタジオで食べたとき、独特な繊細さを表現できなかった。213年間変わらず、「くず餅」が、主役に君臨している。
<出演者略歴>
渡辺雅司(わたなべ・まさし)1964年、東京都生まれ。1986年、立教大学卒業後、三和銀行入行。1993年、船橋屋入社。2008年、8代目当主として社長に就任。
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