絶品クロワッサン&バゲット~本場の味に客殺到
すっかり日本橋のランドマークとなった東京・中央区の「コレド日本橋」。その一角にあるのがフランスパンの専門店「メゾンカイザー」コレド日本橋店だ。
一番人気は「クロワッサン」(216円)。この店だけで多い日には500個が売れている。表面はパリパリサクサクで中はモッチリ。噛んだ瞬間、バターの香りが口いっぱいに広がる。フランスパンの代名詞、「バゲット モンジュ」(303円)も看板商品。材料は小麦と水、塩だけなのに、噛むほどにおいしさを感じさせる。
棚に並ぶのはこだわり抜いたフランスパンだけ。約30種類を製造販売している。甘いパンならチョコがはみ出すほど入ったデニッシュ「プリエ オ ショコラ」(303円)。「パン オ フロマージュ」(432円)はチーズを練り込んだ生地の上にスイス産の高級チーズをのせて焼き上げるパン。重さの20%はチーズというぜいたくな逸品だ。
思わずトレーに取りたくなる仕掛けも。バゲットが残り少なくなると、職人がすぐに追加分を焼く。しかし、窯は半分以上ガラガラで焼いたのは15本だけ。30分位で売り切れる量を小まめに焼いているので、売り場にはいつも「焼きたて」の札が並んでいる。
メゾンカイザーはデパ地下でもおなじみ。大丸や伊勢丹、髙島屋など名だたる百貨店にもあり、東京中心に28店舗。年商は40億円に上る。
深夜1時のコレド日本橋店。奥ではこんな時間から職人がパンを焼いていた。レストランやホテルに納品するパンを焼いているのだ。
メゾンカイザーは自分の店で売るだけでなく、様々な相手にパンを卸している。その卸先は、高級ホテルの「フォーシーズンズ」「シャングリ・ラ」など一流どころばかり。200のホテルやレストランが御用達だ。「信頼されているからこそ妥協せずに、ご希望の焼き色、形、大きさをそろえて毎日提供することを心がけています」と言う。
卸先の一つが東京・新宿区にあるフレンチの「オテル・ドゥ・ミクニ」。日本を代表するフレンチの料理人、三國清三シェフの店だ。
ある日のランチコースには「フランス産ホロホロ鳥の焼き物」など食材にこだわった料理が並ぶ。そこで一緒に出しているのがメゾンカイザーのフランスパン。 「100%カイザー。カイザー以外は使わない。おいしいからです。全然違います。フランスパンの命は表面がパリッとしていること。三つ星クラスです」(三國氏)
「オテル・ドゥ・ミクニ」ではメゾンカイザーにクロワッサンの生地を棒状にしたオリジナルパンも依頼している。5年前、フランスのオランド大統領(当時)が来日した時のランチミーティングで、三國シェフは腕をふるった。その席でこのオリジナルパンを出したところ大反響を呼んだという。
「『日本なのにパリにいる』と、大統領もびっくりしていました。他のは食べられないですよ」(三國氏)と、一流シェフが信頼を寄せる。
伝統的なフランスパンを日本で~そのおいしさの秘密
メゾンカイザーのコレド日本橋店で、職人たちにグーパンチで挨拶をして回る男がいた。焼き立てのパンを切って客に試食を勧めたり、子供にアイスをサービスしたりしている。
「とっつきにくいパンですから、どんどん召し上がっていただく。買い物にいらした方へのお駄賃みたいなものです」と言うのは、ブーランジェリーエリックカイザージャポン社長・木村周一郎だ。
フランスパンの店で成功した木村だが、そのルーツは誰もが知る東京・銀座の「木村屋」。木村はあんパンで有名な「木村屋」の長男で、普通に行けば7代目になるはずだった。メゾンカイザーは「木村屋」とは関係なく、資金の援助も受けていない。
メゾンカイザーの本店はフランスのパリにある。客が毎朝押し寄せる、パリっ子にとってなくてはならないパン屋だ。バゲットは1日なんと7000本が売れる。パリのメゾンカイザー本店は観光ツアーの立ち寄り先になるほどの人気ぶりだ。
そんなパンを作り上げたのが木村の師匠、エリック・カイザー。伝統的なフランスパンのおいしさを現代に蘇らせ、50年に一人の天才と言われている。
「私は常に自然な製法でパンを作ってきました。伝統的な作り方を守っているんです」(カイザー)
パリの店と同じやり方を守る木村。そこには他の店にはない味の秘密がある。それが液体の天然酵母「ルヴァンリキッド」だ。
パンは生地を発酵させる菌で味が変わる。一般的に使われているのはイースト菌という1種類の菌だが、「ルヴァン」の中には3000種類もの菌が入っている。だからイースト菌に比べて複雑な味わいが生まれるのだ。
「1種類の菌で作ったパンをピアノのソナタだとすると、ルヴァンは3000種類の楽器で作った巨大オーケストラだと思っていただけると分かりやすい」(木村)
ただし、「ルヴァン」には扱いづらい特徴もある。同じ小麦の生地で比べてみると、イースト菌を使った方は2時間程で発酵し、急速に膨らむ。だが「ルヴァン」は発酵に20時間もかかるのだ。
だからメゾンカイザーのパン作りは超非効率。何しろ生地を発酵させるだけで1日がかり。温度管理など注意することは多く、成形する際も繊細な扱いが必要になるという。
「普通のパン屋さんは潰すように作業するのですが、赤ちゃんをマッサージするように優しく。伸ばすのも2回も3回もやらず、1回で終わらせる」(木村)
パリっ子や一流シェフに認められるパンは一朝一夕には作れない。
「手間暇はかけないと、いいものは絶対にできないと思います」(木村)
あんパン「木村屋」の長男がフランスパンに挑戦した理由
「木村屋」は木村安兵衛が1869年に創業。固いパンしかなかった時代に日本初のあんパンを考案。そのパンは明治天皇に献上され、やがて庶民の食べ物として定着した。
木村周一郎は1969年、「木村屋」の6代目・周正の元に誕生。小さな時から暖簾を守ることが宿命だった。「会う大人、会う大人が『あなたの将来はパン屋さんよ』と。自分もそう思っていました」と言う。
社会勉強のために1991年、生命保険会社に就職。営業畑でもまれ、同期でトップの成績を挙げたこともある。そして6年後、「父から『そろそろパンの業界に入らないか』と言われました」(木村)。木村は生命保険会社を退社した。
しかし木村屋に入社直前、思いもよらない事態が。経営権をめぐる争いが起き、父・周正は会社を辞めてしまうのだ。跡継ぎとして生きてきた木村は突然、進むべき道を失った。
「生まれて初めて目標がなくなった。喪失感しかないです」(木村)
木村は30歳でフランスに渡る。新たなパンの世界で生きていこうと決断したのだ。そこで門を叩いたのが、伝統的なパン作りで絶大な評価を得ていたエリック・カイザーだった。
「香りの重厚さが全然違う。すごかったです、エリック・カイザーのパンは」(木村)
そこは、フランスのパン業界でも厳しいと有名な店だった。そんなパン工房で木村は無給で武者修行。修行と言っても朝の6時から夜までほとんど休憩なしの労働だ。終わる頃には毎日、まつげの先まで真っ白になっていたと言う。
そんな暮らしが1年続いたある日、カイザーは木村を呼び、「俺の店を日本で出さないか?」と言った。当時カイザーは、まだ海外に出店していなかった。
「周一郎がここに来た時、とてもエネルギーを感じた。常に動いて、何かを創造するタイプの人間だと思ったんだ。きっとおじいさんやお父さんから受け継いだ資質じゃないかな」(カイザー)
木村の働きぶりを見て、人間性に惚れ込んだカイザーは、海外初出店を持ちかけたのだ。
しかし、当時の日本はメロンパンブームの真っただ中。柔らかい菓子パンが主流で、フランスパンは売れ筋から外れていた。「フランスパンの専門店は潰れる」というのが業界の常識だった。
フランスパンは売れない~常識を覆したクリスマスの奇跡
木村は2001年、メゾンカイザー1号店、高輪本店を出した。
「『フランスパンの専門店は絶対売れないから失敗するぞ』『それをやるのが木村屋のバカ息子だ』と。いいものを作って『売れる』というよりは『売ってやろう』という気持ちの方が強かったですね」(木村)
だが、実際にオープンしてみると、フランスパンは見向きもされず、看板商品のバゲットは1日14本しか売れなかった。木村は焼きたてにこだわり、およそ100本を焼いていたから、毎日80本以上を廃棄することになった。
そんな状況をなんとかしようと木村が始めたことがある。近くの交差点で焼きたてのバゲットを切り、道行く人に無料で配ったのだ。すると食べた人達は喜んでくれた。だが、買いには来てくれない。半年間、配り続けたが、売り上げは変わらなかった。
ところが12月24日、クリスマスイブに奇跡が起きる。閑古鳥の鳴いていた店に、突然客が。試食した人達が、特別な日は特別な物が食べたいとやってきたのだ。この日だけでバゲットが550本売れた。
「半年間、『おいしいですよ』と言って配っていた味を覚えていて、『じゃあ行ってみよう』と集まってきてくださった。鳥肌が立ちましたね」(木村)
これを境に店が軌道に乗ると木村は大勝負に出る。1億5000万円の借金をして2004年、「コレド日本橋」のオープンに合わせて出店したのだ。
「年商3億の会社が1億5000万円の借金をして作ったのだから、冒険どころじゃない。狂気の沙汰ですよね」(木村)
結局、この大勝負に木村は勝った。「コレド日本橋」への出店で知名度は上がり、売り上げは右肩あがりに。業界では無理だと言われたフランスパンで年商40億円を叩き出した。
2007年、木村が実家を訪れた時の映像が残っている。待っていたのは、今は亡き父親の周正。『木村屋』を出て成功を掴んだ息子を、父親はどう見ていたのか。
「もし『木村屋』に入ってカイザーを開いていたら、ああいうパン屋はできていなかった。彼自身で開拓したのが素晴らしい。親として褒めたいと思っています」
小さな頃から暖簾の重みを感じ続けた後継息子は今、こう思う。
「カイザーの暖簾を守ることは、木村の暖簾を守るのと同じ意味合いがある。『木村屋』ではないかもしれないけど、木村の暖簾を守っている。日本のパンの宗家としての暖簾は守っているのではないかと思います」(木村)
昔懐かしいパンで勝負~今までにない「あんパン」も
木村がこの秋、新たな挑戦を始めた。9月13日、東京・渋谷に生まれた新名所「渋谷ストリーム」。ここに木村が新しい店「ベイキングシュウ」を出したのだ。
お客の目の前で焼いていたのは焼きそば。しかもラム肉を使ったジンギスカン味。これで作るのが「ジンギスカン焼きそばパン」(345円)。パンにはひまわりの種を練りこんでいる。他には松阪牛を使った「コロッケサンド」や「厚切りハムカツサンド」なども。ここは凝りに凝った、昔ながらの総菜パンの店だ。
「変化を嫌っていたら歴史は続かないと思うんです。ずっとフランスパンだったから、ここで1回、昭和ノスタルジーなパン屋さんがあってもいいのかな、と」(木村)
この店では、決して手を出さなかったあんパンまで売り出した。木村が作ろうとしていたのは今までにないあんパン。生地にはフランスパンの技術を使い新たな食感を目指す。
「パンのくせにパンでないような、おまんじゅうの皮っぽい生地を目指しています」(木村)
そこにくるむのは日本橋の老舗和菓子店「榮太樓」のあんこ。メゾンカイザーと同じように20時間、じっくり寝かせてから窯へ。焼き上げではスチームを噴射した。
「フランスパンではよくやる技術ですが、あんパンでやることはまずないです」木村)
生地にスチームをかけて焼くことで、モチモチ感が強まるのだと言う。木村はフランスパンの技術を駆使し、これまでとは違う食感のあんパンを作り上げた。
ずっと手を出してこなかった「あんパン」を、なぜ今回、作る気になったのか。
「コンビニやスーパーで売られて大量生産になっていき、『あんパンはこんなものか』と思われるのも面白くない。新しいスタイルのあんパンがあってもいいと思います」(木村)
お客は「木村屋の息子のあんパン」とは知らないが、これも初日から大人気となった。こしあんの入ったあんパンと粒あんの入った抹茶あんパンの2個が入った「極上あんぱんセット」648円。1日限定50セットが飛ぶように売れ、2時間で完売した。
もう木村にあんパンの呪縛はない。今後はカテゴリーを超えてパンの持つ可能性を広げていく。
「うれしいですね。これがきっかけでもう1回、あんパンブームがきたら面白いだろうなと思います」(木村)
~村上龍の編集後記~
トリュフとジビエの季節になるとよく「ミクニ」に行くが、パンが「メゾンカイザー」だと知らなかった。パンは、添え物や引き立て役でもなく、拮抗するものでもなく、三國シェフの繊細にして大胆な料理と「均衡」し、調和がとれていた。
妥協なく、ていねいに作られた木村氏のパンは、存在感がありながら自己主張がない。おいしい空気や水のように、私達は自然に接し、食感や香りや味を楽しみ、幸福感に充たされる。
だがその幸福感は、作り手の厳密な技術に加え、常識への疑いと破壊によってもたらされるものだ。
<出演者略歴>
木村周一郎(きむら・しゅういちろう)1969年、東京生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、千代田生命保険相互会社入社。1997年、退社し、米国立製パン研究所入学。1999年、フランスのメゾンカイザーで修業。2000年、ブーランジェリーエリックカイザージャポン設立。
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