使うと必ず欲しくなる~主婦殺到の「魔法のタオル」
名古屋駅ビルの「東急ハンズ」名古屋店で、大勢の人が足を止めて何やら見入っていた。視線の先にあるのはタオルの実演販売。そこには「魔法のタオル」という文字があった。
行っていたのは吸水性の実験。ケースに入った一般的なタオルに水をかけると、タオルが吸いきれない水が溜まってしまった。一方、「魔法のタオル」に同じ量の水をかけていくと、全部吸い込み、まったく溢れてこない。タオルに手を伸ばす人が続出。飛ぶように売れ始めた。
「エアーかおる」という名のこのタオル、一番人気の「エニータイム」(1944円)は長さがバスタオルと一緒で、幅は半分。吸水性がいいから、これで全身を拭ける。この「エアーかおる」シリーズは、月に10万枚と、大ヒット街道を爆進している。
家族で「エアーかおる」を愛用しているという岐阜県大垣市の木幡美幸さん一家は、30枚以上持っている。「子供の肌が弱く、押さえるだけで乾くので助かります」と言う。木幡さんが気に入っているもうひとつのポイントがサイズ。ハーフサイズだから、洗濯する時も干す時も場所をとらない。その上、「乾くのもすごく早い」と言うのだ
「エアーかおる」に惚れ込んだのは一般家庭だけではない。関東を中心に29店舗を展開している人気美容室「UNIX」キラリトギンザ店。シャンプーを終えたお客さんに対して取り出すのが「エアーかおる」だ。この美容室では1年前から使用を開始している。
魅力はやっぱり吸水力。数分、頭に巻いておくだけで髪はほとんど乾いてしまう。
「従来の半分ぐらいの時間で髪を乾かすことができます」(菅原卓哉マネージャー)
その結果、ドライヤーの時間が短くなり、髪へのダメージも減らすことができる。
魔法のタオルを作った浅野撚糸は岐阜県安八(あんぱち)町にある。見渡す限りの田んぼ。そののどかな風景に溶け込む建物が本社で、創業は1969年。社員はわずか18人という小さな企業だ。
異例の大ヒットタオル~秘密は「糸」にあり
実はこの会社の本業はタオル製造ではない。工場を覗いてみると、並んでいたのは糸の塊。とんでもない数の糸車が回っている。
「糸と糸を合わせて撚(よ)りを入れる撚糸を作る会社です。2本、3本の糸を使って撚りというねじり込みを入れて1本の糸にします」(製造担当・上村和也)
撚糸とは、種類の違う糸をねじり合わせて作った糸のこと。大ヒットタオルは特別な撚糸から生まれたのだ。
それは浅野撚糸が世界に誇る唯一無二の素材「スーパーゼロ」。同じ重さの綿の糸と比べるとボリューム感がまるで違う。そして最大の特徴が吸水力にある。
スーパーゼロは綿の糸と、お湯に溶ける特別な糸を強くねじり合わせて作っている。これを90度のお湯に浸すと水溶性の糸だけが溶け、その反動から綿の糸は膨張。繊維の間に隙間が出来る。これが驚異の吸水力を生み出す。浅野撚糸はこの特別な撚糸を開発し、魔法のようなタオルを生み出したのだ。
2007年に発売すると、ショップチャンネルから火がつき、異例の大ヒットに。年間5万枚売れればヒットと言われるタオル業界にあって、120万枚も売れている。
浅野撚糸は今や地元では有名企業。社長の浅野雅己に、この日は安八町の登龍中学校から講演のお呼びがかかった。
「なぜタオルを作ったのか? うちは撚糸で下請けです。親会社の言う通りにやる。最後に親会社に捨てられました」
中学生を相手に下請け企業の悲哀を熱弁する。実際、浅野撚糸はかつて倒産の危機に陥っていた。それを画期的なタオルの開発で立ち直らせたのが浅野だった。
「下請けで仕事をもらっていても、加工賃や納期で発言権があるかどうか。相手が大会社でも、同じ立場で仕事ができれば、僕は下請けじゃないと思う」(浅野)
下請けから脱却しようと独自技術を磨き、特許は10件を取得。技術的な強みを持っているから、今では加工賃や納期など、8割の仕事で決定権を持っているという。世の中になかった糸を開発し、業界の不条理と闘ってきた浅野は「『あいつがやるんだから、やってみよう』『あいつでもできるんだったらやろう』という立ち位置でいたいですね」と言う。
「魔法のタオル」が生まれるまで~倒産寸前からの復活劇
岐阜市内のとある建物が、大にぎわいになっていた。お目当ては「エアーかおる」だ。お客が我先に買おうとする理由はその安さ。あるバスタオルは50%オフ。2万円相当の商品が入った詰め合わせ袋は5000円だ。
これは浅野撚糸が年に数回行っているアウトレットセール。最新の商品ではないが、物の良さは知れ渡っているから飛ぶように売れていく。
「このセールをやるたびに、よくここまできたなと思います。地獄の底から救ってくれたタオルでしょうね。これがなかったら確実に潰れていましたから」(浅野)
浅野撚糸の歴史は1969年に幕をあける。創業者は浅野の父、博。浅野が後を継ぎ、2代目社長となったのは35歳のときだった。
最先端の機械を次々と導入し、大手商社やメーカーから大量受注を獲得。浅野は創業以来最高となる年商7億3000万円を叩き出し、得意絶頂となった。
「天下をとったな、と。まだ30代でセルシオを買い、ゴルフ会員権も買った。これがずっと続く、もっと儲かると思って」(浅野)
しかし、2000年代に入ると安い中国製品がなだれ込み、取引先の多くは生産拠点を海外に移転。その結果、全国に1万社以上あった撚糸会社は半分以下になった浅野撚糸も仕事が激減。7億円あった売り上げは2億円となり、倒産の危機に陥った。
先代の父は、「倒産する前に廃業しよう」と迫ったが、浅野は諦めなかった。オリジナルの撚糸を開発して生き残る道を模索する。
「この世にとって必要な開発であれば、きっとどこかで花開く。いけるところまでいきたい、と」(浅野)
浅野は世界にない撚糸を目指し、研究に明け暮れた。ゴムや紙、はたまた鉄や藁。時にはトイレットペーパーまで、撚れる素材はなんでも試した。まさに「狂気の開発」の始まりだった。
その鬼気迫る様子に、社員たちは「社長がおかしくなった」と囁いたという。
「夜、仕事終わってから電話で呼び出されて、『やるぞ』と。『社長、これは無理だよ』というのもあったけど、すべて自分の目で確認したいという人でした」(製造部長・竹森剛)
そんな中で浅野は、運命を変える糸と出会う。大手繊維メーカー、クラレが開発した特別な糸、「水溶性糸」だ。その名の通り、お湯に入れると溶けるのだが、その特性の活かし方が見出せず、「何か使い道はないか」と持ちかけられたのだ。
浅野は何の確証もなかったが、この糸に賭けてみる。いろいろな糸を、水溶性糸と撚りあわせてはお湯に溶かして変化を探る。そんな作業を何百回と繰り返したのだ。
そして2年後、浅野はついに普通の綿の糸の倍に膨らむ「スーパーゼロ」を開発。これならと思いメーカーに売り込んで回った。ところが、「ほとんどは門前払い。1000社以上回ったかもしれない」(浅野)。
廃業寸前の中小企業どうしがタッグを組んだ
浅野が突破口を探す中、銀行があるメーカーと引き合わせてくれた。それが三重県津市にある「おぼろタオル」だった。1908年創業のタオルの専門メーカーだが、こちらも経営状態は浅野撚糸と似たり寄ったり。売り上げはピーク時の3分の1まで落ち込み、倒産の危機に陥っていた。
2005年、「おぼろタオル」を訪ねた浅野。ここまで断られてばかりだったので期待していなかったのだが、加藤勘次社長の答えは「お受けします」というものだった。
「ただでさえジリ貧ですし、何か光を見出す可能性のあることをやっていかないといけないという思いは、当時からあったと思います」(加藤社長)
かくして倒産寸前の下請け企業同士によるタッグが実現した。しかし、開発がスタートするとすぐに高い壁が立ちはだかる。新しい撚糸は伸縮性が強く、少しでも緩めると、糸が縮み、絡まってしまう。結果、機械が止まってしまうのだ。
「なかなか難しかった。浅野さんに『何とかならないか』と何回も話しました」(タオル職人・紀平了さん)
「おぼろタオル」から浅野の元に、「織れない」と書かれたファックスが毎日のように届いた。「これ以上、迷惑はかけられない」と、「おぼろタオル」に出向き、加藤社長に「別のメーカーを探す」と告げたこともあった。すると、「続けましょう。我々は運命共同体だから」という言葉が返ってきた。
「うちでできなくて、他ではできたとなればプライドも許さない。自分のところで関りたい、ものにしたいという気持ちがありました」(加藤社長)
加藤社長の思いに応えなければならない。浅野は寝食を忘れ、撚糸の改良に挑んだ。取り組んだのは糸が絡まる原因である伸縮性の見直し。スチームをかけることで糸の縮み具合を減らそうとしたのだ。
温度、時間など、試行錯誤すること300回。そして、ついに緩めても絡まない糸、改良版「スーパーゼロ」を完成させた。その糸を受け取った「おぼろタオル」も開発に熱が入った。糸の張り具合を何度も調整し、最適の状態を探った。
数週間後、浅野は「おぼろタオル」から呼び出された。織り上がった生地は、パート従業員の手によってタオルに仕上げられた。
2007年、糸の開発から5年の時を経て、「エアーかおる」が完成。発売すると、評判が評判を呼び、累計600万枚という大ヒットとなったのだ。
これで浅野撚糸は危機から脱出。V字回復を遂げ、今や売り上げは10億円に迫る。「おぼろタオル」も息を吹き返す。売り上げはどん底時代の倍近く、6億7400万円まで回復した。
崖っぷちの町工場どうしが手を組んで大逆転。何があっても諦めずに開発を続け、奇跡のような成功を呼び込んだのだ。
タオルに続け~世界初?お驚きのジーンズ
浅野がまた世界を驚かす商品を生み出そうとしている。訪ねたのは広島県福山市に本社をおく「カイハラ」。ジーンズの生地の専門メーカーで、「エドウィン」や「リーバイス」など有名ブランドに生地を供給し、国内シェア50%を誇るトップ企業だ。浅野は生地メーカーと手を組み、これまでにないジーンズを作ろうとしているのだ。
この日は初めての試作品が出来たと聞き、飛んできた。使っているのは浅野が開発した特殊な撚糸。なんと和紙で作った究極のジーンズだった。和紙なのにストレッチ性が高く、一般的なジーンズと比べてはるかに伸びる。
「和紙でストレッチ性が高いものはあまりないと思います。想像を超えました」(「カイハラ」商品開発課・前原章浩さん)
和紙を使った糸自体は前からあるにはあったが、伸びない上に切れやすい。だから扱いづらく、ほとんど使われてこなかった。浅野は和紙の糸に、お湯に溶ける水溶性の糸とゴムを撚り合せることで、「和紙なのに伸びる撚糸」を開発し、持ち込んだのだ。
和紙の風合いを活かした新しいストレッチジーンズ。この糸で作るメリットは軽さにもある。同じ大きさの綿と比べると、和紙の糸で作った方は3割も軽い。
「今日、実際に初めて見て、タオルが初めてできたときと同じ感覚です。化けるんじゃないかな」(浅野)
~村上龍の編集後記~
「スーパーゼロ」という撚糸の写真を見て、何かに似てるなと思った。DNAだった。それぞれ生命と衣の源であり、象徴的だ。
繊維産業は戦後日本を牽引したが、安価な輸入品により衰退が続いている。浅野撚糸は、唯一無比の技術に挑み、生き残った。
資料を読み、スタジオでも質問したが、わかったのは「撚糸は複雑」。それだけだった。
「和紙とゴムを撚り合わせる」など、イメージできない。そして撚糸に限らず、技術には限界がないのかもしれないとも思った。
これが限界だとあきらめたら、あらゆることがそこで終わる。
<出演者略歴>
浅野雅己(あさの・まさみ)1960年、岐阜県生まれ。1982年、福島大学教育学部卒業後、小学校教諭を務める。1987年、浅野撚糸に入社。1995年、代表取締役社長就任。
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