行列のできる人気店も~プロを支えるヤマサ醤油
北海道・札幌でいま大人気の回転寿司店「なごやか亭」白石本通店。ピーク時は1時間待ちが当たり前だとか。魚王国の北海道だけあって、どのネタも新鮮でボリュームたっぷり。山盛りの「生ウニ」(583円)、1皿に甘エビが18匹も重なっている「こぼれ甘エビ」(454円)、そしてこの店で一番人気の「こぼれいくら」(616円)……。
この店ではネタの良さをさらに引き出すためにこだわっているものがあるという。それがヤマサ醤油だ。客が使う醤油はもちろん、下ごしらえにも全てヤマサ醤油を使っている。
「いろいろな醤油を食べ比べた中で、この醤油が脂の乗った北海道の寿司に合うんじゃないか」と、大角隆真店長は言う。
お寿司屋さんだけではない。東京・広尾にある、「分とく山」。ミシュランの2つ星を持つ日本料理の名店中の名店だ。コース料理(9品)は1万7820円。名物料理が「鮑磯焼き」。アワビの肝と醤油を合わせた特製のタレが芳醇な味を生み出している。内外の食通を虜にしている野崎洋光総料理長が40年以上愛用しているのもヤマサ醤油だ。
「淡い赤みが出て色が付きすぎない。濃くない。香りが立ちやすい。うまい醤油は香りがツンと立つんです。料理人にとって、一番、使い勝手が良い醤油だと思います」(野崎さん)
ヤマサ醤油は関東の和食店の半数以上、東京の寿司屋の7割近くが愛用する(「ぐるなび」調べ)、プロが認める醤油なのだ。
さらに食品メーカーもヤマサを頼りにしている。例えば焼肉チェーンの「叙々苑」が出している焼肉のタレに使われているのがヤマサ醤油なら、ご飯のお供として人気の丸美屋の「のりたま」のほんのり甘辛い味も、ヤマサ醤油でしか出せないとか。そして亀田製菓が醤油にこだわって作った煎餅「揚一番」にもヤマサ醤油が使われている。
ヤマサ醤油の本社がある千葉県銚子市。海風が適度な気温と湿り気をもたらすこの地では、古くから醤油づくりが行われてきた。ヤマサ醤油はなぜ他とは違うのか。
その作り方を見てみよう。まず原料の大豆と小麦と麹菌をよく混ぜ合わせて、麹をつくる。この中で味の決め手となるのが「麹菌ですね。これが醤油づくりで、醤油の味を決める重要な要素になっています。この違いによって醤油の味に違いが出ていますね」(庶務課・加藤祐也)。ヤマサが使っているのは、創業以来370年以上守ってきた「ヤマサ菌」という特別な菌だ。
さらに職人の技が加わる。麹に塩水を加えた「もろみ」を、6カ月の間、季節や天候を見ながら発酵させていく。「空気に触れるよう、かき回すことによって生き生きしてくる。表面がプチプチ、プチプチ音がする」(醸造課・宮内克)と言う。
ヤマサ菌が酵素を生み出してもろみを発酵させる。発酵の進み具合で、味も香りも大きく変わる。赤くて香り高いヤマサ醤油はこうして作られているのだ。
業界初を生み出した~新鮮醤油パック開発秘話
ヤマサ醤油の12代目当主、濱口道雄(74歳)は、ヤマサの長い伝統と向き合い、老舗企業のトップとしてその重責を担ってきた。
創業は江戸時代初期の1645年。和歌山の商人だった濱口の先祖が銚子で醤油作りを始めた。出来た醤油は利根川の水運を使って江戸に運び販売。後に江戸では寿司やそば、てんぷらなどの食文化が花開き、ヤマサの商売も拡大していったという。ちなみにヤマサのロゴマークの右肩にある「上」の文字は、江戸幕府から高い品質を認められた証だ。
そんな伝統を持つヤマサの歴史は革新に挑み続けてきた歴史でもある。
例えば明治初期にヤマサが出した特許願いにある「新味醤油」というのはソースのこと。1887年、日本初のソースを作ったのはヤマサだった。塩分が少なく劣化しやすいストレートの麺つゆ。1997年、これをペットボトルに入れて販売したのもヤマサが最初だ。
決して派手ではないが、日本の食文化に影響を与えてきたヤマサ。こうした革新に挑むスピリットは今日のヤマサにも受け継がれている。
「確かに守るべきものはあるが、消費者の嗜好も多様化している。昔からの味もあっていいが、そうでないものを提供するのも我々メーカーの役目です」(濱口)
12代目の濱口自身も革新に挑み、醤油の歴史を変える商品を生み出した。その商品が「鮮度の一滴」。ビンでもペットボトルでもない新たな容器で業界に革命を起こした商品だ。
現場で開発にあたったのが、マーケティング部長の藤村功だ。きっかけは26年前にさかのぼる。その日は娘のひな祭りのお祝い。テーブルには刺身や手巻き寿司の具材が並んでいた。取り皿に醤油を注いだ藤村は、色は黒ずみ、香りも失われていたのに気づいた。「この醤油、いつ買ったの?」と訊ねた藤村に、妻は「1カ月くらい前かな。醤油ってなかなか減らないのよね」と答えた。
「率直にもったいないな、残念だなと思いました。たぶん同じように黒い醤油で食べている家庭も多いんじゃないかな、と」(藤村)
出来たての醤油は赤いのに、家に置いておくと酸化して黒ずみ、香りも飛んでしまう。何とかしようと、藤村は醤油の製造方法や容器を変えて研究を続けた。
試行錯誤を繰り返すこと16年。ついに醤油の酸化を克服する方法を見つける。それがフィルムでできた容器。二重構造になっていて、内側に付いている注ぎ口に0.002ミリという極薄の素材を使っている。
「この弁が全てで、薄いフィルムでできていて、中の醤油は使い続けても空気に触れることがないのです」(藤村)
注ぐときには醤油の重みで弁が開く。注ぎ終わって容器を立てると、醤油が戻るのに合わせて薄い弁が注ぎ口の方から密着していく。だから中に空気が入らず、酸化しないのだ。
だが、酸化しないことを売りにした醤油を出すことは、従来の商品は酸化しやすいと宣言するようなもの。それでも濱口は「消費者のため」と、この新商品の販売を決断する。
こうしてヤマサは2009年。業界に先駆けて鮮度が保てる醤油を売り出した。醤油に鮮度という新しい価値を生み出した「鮮度の一滴」は、発売半年で100万本を売る異例のヒット商品となった。
ヤマサはさらに「鮮度の一滴」を進化させようとしている。今回、注ぎ口にさらなる改良を加えた。従来は傾けると醤油が出る仕組みだったが、指で押した時だけ出るようにしたのだ。これなら倒しても醤油はこぼれない。
「倒したら出ちゃう部分が大きく改善されているので、購買につながると思います」(「オリンピック」商品部の中村一実さん)
挑戦を続けるヤマサ。業績もほぼ右肩上がりで、売上げは555億円と過去最高を更新した。
波乱万丈!失敗が生んだ、挑戦する老舗の極意
江戸時代から続くヤマサ醤油には、特別な役割を担う営業マンがいる。営業本部の芦川和宏もその一人だ。この日、芦川が向かったのは、江戸時代から続く鰻の名店「野田岩」。「野田岩」の鰻重(「鰻重・萩」4180円)といえば、上品な味付けとふわふわの食感で多くの客を虜にしてきた逸品だ。
店の命ともいえるのが、創業以来継ぎ足してきた秘伝のタレ。そのタレに鰻をくぐらせて、焦がさないように繰り返し焼くのが野田岩流。こうして伝統の味を守ってきた。このタレに使われている醤油こそヤマサなのだ。
「タレにヤマサ醤油を使うことが、百何年もお客様が『野田岩』に来ていただける元になっている」(「野田岩」5代目・金本兼次郎さん)
芦川はこうした老舗を専門に回る特別な営業マンだ。「最近、客の嗜好というのは変わっています?」と訊ねると、「タレは確かに20年、30年前と比べて甘みが強くなっています」と、金本さん。老舗が今日まで生き残る所以は、伝統を守りながらも、客の嗜好の変化に敏感に対応するから。それを聞き出し、自分たちの商品開発に生かすという。
「長く続いていらっしゃるお店で、ヤマサにとってはこの上ない財産だと思います」(芦川)
一方、12代目の当主・濱口の自宅には、江戸初期から続く老舗にふさわしいお宝が眠っているという。今回、特別に蔵の中を見せてもらった。箱の中に入っていたのは巻物だ。これは濱口家の7代目に送られた手紙。送り主はあの勝海舟だ。他にも福沢諭吉や外務大臣を務めた陸奥宗光など、歴史上の人物との交流が深かった。
そんな伝統ある超老舗だが、盤石の商いを続けてきたと思ったら、大間違い。初代の鉱山経営をはじめ、漁具の販売や金融業など、歴代当主は醤油以外の事業に手を出しては、ことごとく失敗してきた。
中でも波乱万丈だったのが、濱口の祖父にあたる10代目の儀兵衛だ。後に「醤油王」と呼ばれる人物だが、若い頃は食材の取引に乗り出して大失敗。一時経営を、親戚に肩代わりしてもらうほどの借金を抱えたという。
「それぞれの代においていろいろありまして、苦労してきました」(濱口)
失敗を恐れず挑戦するヤマサのDNAを12代目の濱口も受け継ぐ。
高度成長の象徴ともいえる大阪万博で始まった1970年代。ファミリーレストランやファストフードなどの外食チェーンが次々とオープン。子供たちはもの心ついた時からケチャップやマヨネーズが当たり前となり、食生活の洋風化がどんどん加速していった。そんな時代の流れの中で、濱口は底知れぬ危機感を覚えたという。
「醤油は伸びていたけれども、いつまでも伸びるわけではない。やっぱりいつかはこの成長は止まる、と」(濱口)
1983年、社長に就任した濱口は、その危機感を背景に、醤油以外の新商品の開発に動き出す。濱口と共に商品開発を担ったのが、「鮮度の一滴」を生んだ藤村だ。「振り返ると苦戦した商品が多いかなと思います」と苦笑いをする。
1984年に開発した「ミート・ザ・ミート」。「西洋風の焼肉のタレ」をイメージして作ったソースだったが、全く売れず、販売中止に。85年に発売した、濱口一押しの栄養ドリンク「キダチアロエ」もほとんど売れず販売中止に。新商品を出しても出しても、なかなかヒットが出なかった。
しかし苦節14年、ついに挑戦が実を結ぶ。それが1997年発売の「昆布つゆ」。「つゆ」といえば鰹節ベースが主流だった時代に出した、まろやかな昆布ベースの「つゆ」だ。「麺つゆ」だけでなく、様々な料理に使える調味料として大ヒット。いまや年間100億円を売上げるロングセラー商品となった。
このヒットを機に、ヤマサは調味料メーカーとして幅を広げる。中でも伸びているのが、コンビニの弁当や総菜などに付いている小袋入りの調味料だ。全てメーカーの希望を受けて調合したオリジナルの調味料。こうした醤油以外の調味料のニーズは広がり、いまや売上げ全体の6割に成長。ヤマサの屋台骨を支えている。
さらに醤油の醸造で培ったバイオ技術を発展させ、医薬品事業も手掛けている。中には世界初となる「バセドウ病の診断キット」のようなものも。失敗を恐れずに挑戦することでオンリーワンを生み出す。それがヤマサの伝統なのだ。
地域と共に生きる~住民の命を救った感動秘話
和歌山県広川町。ヤマサ当主・濱口家のふるさとだ。町役場の前の広場に一体の銅像が置かれている。ヤマサ7代目当主・濱口梧陵(ごりょう)だ。偉大なご先祖様の地元での評判を聞いてみると、「知らない人は広川町にいない」「命の恩人」「教科書にも載っている」と、口々に言う。
梧陵を恩人にした出来事は、幕末の1854年11月5日に起こる。その日の夕方、この地を大きな地震が襲う。「安政の南海地震」だ。
激しい揺れが収まった直後、梧陵は津波が襲ってくると直感した。早くみんなに知らせないと、多くの犠牲者が出る。梧陵は高台にあった自分の田んぼに向かい、収穫したばかりの稲の束に火をつける。そして、その火を目指して山に逃げるよう、村人に呼びかけた。梧陵の機転によって多くの命が救われたのだ。
さらに梧陵は、津波で田んぼや仕事を失った村人の、救済にも乗りだす。それがいまも残る全長600メートルの広村堤防だ。私財を投げ打ち、村人と作り上げた堤防は、その後の津波でも被害を最小限に食い止めたのだ。
毎年10月、この町で開かれる「稲むらの火祭り」。人々がたいまつを手に、梧陵の功績をいまもたたえ続けている。「企業は地域と共にある」。それがヤマサの責任と誇りなのだ。
「企業人たるもの会社だけでいいというのではなく、何らかの形で会社以外のところでも、地域のため、社会のために貢献したい」(濱口)
銚子名物、月に1度の「銚子観音門前軽トラ市」。自慢の海産物など地元の名産品が堪能できるとあって、都内からも人がやってくる。その中でひときわ人気の店があった。お目当ては焼きそば。実はこの焼きそばの仕掛け人がヤマサだった。
銚子工場の一角では焼きそばを焼いている。メインの具は銚子名物の「ぬれ煎餅」。そこにヤマサが開発した焼ソバ用の醤油。「ぬれ煎餅焼きそば」(350円)は銚子づくしのB級グルメだ。さらに隣の売店では「醤油ミルクプリン」(410円)や、千葉の名産・ピーナッツの「ドライこがし醤油ピーナッツ」(350円)など、醤油テイストの商品がズラリ。
これはヤマサが地元企業とタッグを組んで銚子の新名物を作るというプロジェクト。ヤマサの地域貢献だ。特販事業部の冨成浩静は、「銚子を盛り上げたいって方々がたくさんいて、一緒に同じ方向を向いて、銚子が元気になっていくような取り組みになればいいと思っています」と言う。
~村上龍の編集後記~
「創業100年超の老舗」。きっと堅実な経営を続けてきたのだろうと、多くの人が思う。だが実際には、守るべき理念と変化への対応力を併せ持つ企業ばかりだ。
しかし、「ヤマサ醤油」には心底驚いた。変化への対応という、心地いい便利な言葉を超えて、まさに、波瀾万丈の連続だった。
十代目がその象徴だ。金融など多角化に失敗し、一時蟄居まで余儀なくされるが、経営を立て直し、最終的には「醤油王」と呼ばれ、三男の濱口陽三は世界的な版画家になった。
まるで、超高速ボートで嵐の海を走りきり、今に至る、そんな企業である。
<出演者略歴> 濱口道雄(はまぐち・みちお)1943年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、1968年、ヤマサ醤油入社。1983年、代表取締役社長就任。2017年、会長就任。
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