家族で行きたくなる!~珈琲店戦争にグルメ新勢力
今、首都圏で増えている人気急上昇中の高倉町珈琲。週末、かなりの混雑となる店内は、シックな色合いの落ち着いた雰囲気だ。
人気の秘密が、客を一瞬で虜にするという「特製クリームのリコッタパンケーキ」(1000円)。最大の特徴は、驚くほど柔らかい生地にある。
パンケーキに使っているのは、リコッタというさっぱりとした甘みのチーズを混ぜ込んだ生地。そこに加えるのが特製のメレンゲ。できる限り気泡をつぶさないよう、注文が入ってから丁寧に混ぜ合わせる。秘密兵器が特注の銅板グリル。熱伝導率の高さで、生地の中に均一な気泡を作るという。こうして独特の柔らかさが生まれるのだ。
他にも、絶妙な甘みのチキンライスとふわふわスフレを一緒にほおばる「スフレオムライス」(920円)や、昭和の味がする「昔なつかし昭和のナポリタン」(820円)など、他にないおいしさで客を掴んでいる。 もう1つ、高倉町珈琲で客を魅了しているのが特注のソファ。最高にこだわり抜いた居心地の良さと味わいが高倉町珈琲の魅力なのだ。
ここ数年、全国へ急拡大したコメダ珈琲を中心に、郊外型の珈琲店は激しい闘いを繰り広げてきた。そんな中で、高倉町珈琲は関東を中心に19店舗を展開。どの店も、賑わいを見せる、郊外型コーヒーチェーンの新勢力だ。
そんな高倉町珈琲には、他のチェーンではあり得ない強さの秘密がある。設立してまだ4年という東京・国立市の本部を訪ねると、年配の社員の姿が目立つ。仕入れ担当の宮坂哲郎(64)は「前職がレストランだったので、それを含めると40年になります」、管理担当の池田宣政(63)は「昭和52年からずっと外食です」と言う。実は高倉町珈琲を支えているのは、長年外食業界で活躍してきたベテランたちなのだ。
日々、次なる出店場所を探している店舗開発担当の久保田雅丈(59)。この日は、関東エリアで見つけたある候補地の下見に訪れた。早速始めたのは、店を建てた場合、何メートル先から看板が見えるかの確認。「急に看板が出ても、急にブレーキをかけるのは女性には難しい。なるべく遠くから視認性がある方がいいんです」と言う。
久保田はある点が気になっていた。それは目の前の道路に中央分離帯があることだった。
「逆車線から店に入れないのが難しい。片側1車線からしか入れないのは厳しいですね」
長年、大手外食に在籍し、膨大な土地を品定めしてきた久保田。高倉町珈琲に移ってきた理由を聞くと、「会長」だという。
一方、本部のテストキッチンでこの夏の商品開発を行っていたのは社長の佐藤光敏(65)。佐藤も長年、外食大手でメニュー作りを担ってきたベテラン中のベテランだ。この夏の目玉商品として売り出す予定のイチゴシロップにこだわったかき氷。そこに特製の練乳も添えるというので、理由を聞いてみると「会長はイチゴミルクが好きなので、両方食べられるように添えています」と言う。
「会長の声よりお客様の声の方が大事ですが、お客様と会長の言ってることは、同じことが多いんです」(佐藤)
伝説の外食産業パイオニアが語る「商売の基本」
高倉町珈琲会長、横川竟(80)が出席する会議が開かれていた。テーマは、久保田が探してきたいくつかの土地に店を出すべきかどうか。
物件の様々な情報に耳を傾ける横川は、ある物件について、「匂いとすると非常にいい土地。ただ、人通りがそれほど多くないので、いい商売をして口コミで広がり、皆さんに来てもらわないと繁盛しない。そういう意味で気をつけなければいけないけど、年商1億4000万円はいくと思う」。超ベテランたちを尻目に、店が稼ぐ年商まで口にした。
まるで、立地の分析を楽しんでいるかのようにてきぱきとさばいていく。
「生活しているレベル、持っている車、着ているもの、住宅の大きさ。それは現場では基礎の話で、本当はいい土地には匂いがあるんです。その匂いをキャッチできないと、売り上げ予測はできない。経験しかないんですよ」(横川)
ところが、その予想が当たるかどうかを聞くと、「当たらないです。当たるなら僕は大社長になっていますよ」と笑った。
横川は4年前、76歳にして高倉町珈琲を創業した。その存在は外食業界で知らぬ者はいないという。フランチャイズオーナーの青木龍夫は横川を、「レジェンドでしょう、この業界の。だから1つの指標になる。あの人を目指したい、と」と評している。
外食業界の常識をいくつも作り出してきた男でもある。
例えばどこにでもあるスティック型の砂糖もその1つ。昔は容器に入っているのが当たり前だったが、「塩と砂糖を容器に入れて置いておくと、いたずらで塩を入れられた経緯があって、これをやっていたら毒を入れられても分からない。安全のために袋にしよう、と」(横川)。横川がメーカーにかけ合い、砂糖をスティック型に変えたところ、「評判になっていっせいに広がり、今に至っています」。
さらに写真入りメニューも横川の発案だという
「分かりにくいカタカナの文字だけで書いてあった。写真を入れたらお客さんに分かりやすいだろう、と。それから日本のレストランは写真入りメニューになったんです」(横川)
横川は1970年、日本初のファミリーレストラン「すかいらーく」を創業した。 「『すかいらーく』がやったことをまねしないと、他社は店にならなかった。そういうことをいっぱいやっていくと、お客さんは『この店は楽しい』と言ってくれるんです」(横川)
その最大の武器は、50年かけて培った誰にも負けない徹底した客目線。例えば新商品の会議で新作のデザートを見るや否や、「量が多い。食べきれない。今のお客さんは『おいしいけど食べきれない』に罪悪感があるから、もっと少なくていい」とバッサリ。さらに、店舗の視察で棚に置かれた照明器具を見つけると、「お客さんが歩いていて落とした時に割れないようにしないと。割ったお客さんは気分が悪くなる」と注文をつけた。
「商売を知らない人がシステムをつくるから、一般的なことしかできていない。呼んでも返事をしない店の方が多いじゃないですか。店というのは入りやすく、座りやすく、注文しやすく、食べやすく、『また来たい』とならないといけない。商売の基本です」(横川)
外食レジェンドに密着!~絶品ラーメン店偵察の理由
横川が欠かさないのが、人気があると聞きつけた店への偵察だ。この日は神奈川県厚木市の国道沿いにできた、大阪で拡大中のラーメンチェーン「まこと屋」を訪れた。
「関東1号店だというのでマークしました。大阪の人がどう関東に進出するのか、見たかったです」(横川)
横川はメニューを見るなり、「基本メニューは3つで、それを広げた。これは生産性が上がるメニューです」と分析。少ないメニューから効率よく品数を増やしていると評価した。
ところが、おいしそうな餃子を食べようとラー油を手に取ると、「この容器は誰がやっても垂れちゃう。一番、女の人が嫌がる。垂れない容器に変える必要がありますね」と、手厳しい。そして最も重要なラーメンの味については「うまい」と、ひと言。
横川はこうした偵察をする理由を、「カフェとは関係ないですが、自分のやろうとしていることと同じ考え方で成功していると、同じことをやっていけばいいという裏付けになる。うちの欠点を見つけ出すんです」と、説明する。
横川の外食との格闘はすでに半世紀に及ぶ。1937年、横川は5人兄弟の3男として長野県で生まれる。15歳になると単身、大都会・東京へ。そして築地にあった食品卸「伊勢龍」で働き始める。
「伊勢龍」の鈴木栄一社長に叩き込まれたものこそ、徹底した客目線だった。 「お客さんをすごく大事にした。『こうしてほしい』ということに全部応えていました。そして必要以上に儲けるな、と。儲けたらそれはお客さんに返せと言っていました」(横川)
例えばある日、店で働いていた横川の前に最新のアメリカ車が停まった。目が釘付けになる横川に鈴木社長は、「今、羽振りのいい 食品メーカーの社長さんのだ」と切り出した。 そして今度は別の車を指差し、「あそこの古いライトバン。助手席に乗っているのも今、商品が売れまくっている会社の社長だ」と言う。
「自分の車より、客が喜ぶ商品のために金を使う。あれが本物なんだ」という、そのライトバンに乗っていた人物こそ、キユーピーの創始者・中島董一郎だった。横川は客に尽くすことこそ成功への近道だと確信した。
外食50年戦争~客を熱狂させた執念と挫折
その教えが33歳の時に花開く。兄弟4人で始めたレストラン「すかいらーく」だ。
客を喜ばせるために横川が執念を燃やした物を見せてくれた。それが当時は珍しかった調理マニュアル。イタリア料理店さえほとんどない時代に、横川は「伸びるチーズでおいしいチーズを作るためには熟成3ヵ月がいい。これを作りにデンマークに行ったんです」。こうしてできたピザは、「安くておいしい」と、1日80~100枚売れる人気メニューとなった。こうして横川は、客をわくわくさせる斬新なメニューを次々に生み出していく。
「『よしよし喜んでくれている。もう1つ考えよう』と。儲けることはほとんど頭になくて、お客さんに喜んでもらうために何をすればいいか。周りを見て、みんながやっていることはやらなかっただけです」(横川)
もちろん価格戦略も客目線。「『ホテルの味を半額で』をテーマにしました。ホテルと同じような素材のものを、仕組みを変えることで、半値で売ろう、と」と言う。
その低価格を実現するため造ったのが、日本初のセントラルキッチンだった。目指したのは客を喜ばせる効率化。横川は当時から「味がこれまでより良くならなければ工場の意味はない」と明言していた。
これを機に爆発的な成長が始まる。その後、横川は子会社で低迷していた「ジョナサン」の社長に就任。有機野菜のサラダバーなど、安心とおいしさをいち早く打ち出し、人気チェーンへと再生させた。
かつて横川の部下として働いていた金子順一さんは、そんな横川について「過去になかったものをやるのが好きな人。お客さんが『これ、見たことない』と言うものを提供する。そういうことがとても好きな人なんです」と語る。
しかし、3000店舗を超える規模に拡大した2000年代に入ると、徐々に客は離れ、経営が悪化していく。
「企業には、規模が大きくなるとお客さんに目を向け続けられなくなるという、人間の欠点のようなものがある。いつのまにか旦那さんが行かなくなり、奥さんと子供も困った時にしか行かなくなったような中身に変わったことで、ファミリーレストランという業態がダメになったんだと思います」(横川)
その中で横川は大胆な改革を進めるため、創業家で株を買い取り非上場にする荒技に打って出る。だが、横川改革に異を唱えた証券会社などの勢力によってトップを解任された。
「伊勢龍」で商売を学んで以来、客が喜ぶ店を作りたいという一心で外食業界を走ってきた横川。最後まで遂げられなかったその思いが、今、高倉町珈琲に込められている。
「今度は自分で全部やって、結果を見ようかな、と。失敗するかもしれないですが」(横川)
働く人をもっと幸せに!~外食レジェンドの挑戦は続く
高倉町珈琲の売りはおいしい料理だけではないという。それは心地良いスタッフの接客だ。高倉町珈琲では、パートで働く人たちのやる気を引き出すため、他にない制度を導入している。
その制度を作った時、パート従業員一人一人に横川からあるメッセージが送られてきた。そこには高倉町珈琲「株式割当」の文字。横川は会社の株の分配制度を作り、長期的に働くパート従業員が株を購入できるようにしたのだ。価格は100株で5000円。今年は業績好調のため、全員に3000円の配当が支払われた。
「会社はみんなのもの。みんなで株を持って豊かになろうというのがテーマです」(横川)
目指すのは、客だけでなく働く人も喜ぶ外食。店長にとっても嬉しい仕組みを作った。大手外食から転職してきた小平店店長の松尾秋彦は「自分自身、フランチャイズをやりたいという気持ちがあり、オーナーができると思い入社しました」と言う。
その仕組みとは、社内フランチャイズ。店長が店のオーナーとして独立できる制度だ。横川は、優秀な店長に外食で働くやりがいを感じてもらいたいと思い、この制度を作った。
「独立したいけど、お金がかかるからできない。商売ができる人はいっぱいいるのに、独立できないという現状があるんです」(横川)
今後は、今ある直営店をこの制度を使って優秀な店長に任せ、それを全国展開の力にしたいと考えている。
「ふるさとはとてもいいものなので、そこで商売ができればいいという『ふるさとFC』。地方でやりたい人に、僕らが立地を見つけて店を作り、独立できるようにする」(横川)
外食で半世紀を闘ってきた横川。今もまだその理想を追求し続けている。
~村上龍の編集後記~
高倉町珈琲ではビートルズが流れている。「お好きなんですか」と横川さんに聞くと、「そうではなく客層を考えて」という返事だった。
あとで、「聴く時間がなかったんだろうな」と気づいた。横川さんは、8歳から仕事一筋だった。「仕事の仕方がそのまま生き方になってしまった」らしい。幸福な人だと思う。
「今とこれからのお客様に本当に喜んでいただける店をつくりたい」 その思いは過酷な修業時代に育まれ、「すかいらーく」を経て、今もまったく揺るぐことがなく、「日本一おいしいパンケーキ」まで、一直線に続いている。
<出演者略歴>
横川竟(よこかわ・きわむ)1937年、長野県生まれ。1954年、築地「伊勢龍」で修業。1964年、兄弟4人で「ことぶき食品」開業。1970年、「すかいらーく」国立店開業。1980年、「ジョナサン」社長就任。2008年、「すかいらーく」社長解任。2013年、高倉町珈琲店開業。
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