GWのおすすめスポット~小田原のかまぼこテーマパーク
神奈川県・小田原駅から箱根登山電車でわずか2つ目の風祭駅。小さな駅だが、驚くほどの人が降りてくる。向かうのは駅からわずか30メートルの「鈴なり市場」だ。
店内は大盛況。女性客が次々とカゴに入れているのは「海山のおーどぶる」(各680円)。ワインに合う色とりどりのお洒落なおつまみで、魚のすり身で作られている。
子供たちが釘付けになっているのはミニカーのトミカに「かまぼこ」の文字。これはミニカー型のかまぼこ「かまぼこトミカ」(756円)。お弁当に入れれば、子供が喜ぶこと請け合いだ。
「鈴なり市場」を運営するのはかまぼこで有名な鈴廣。ここにあるのは全て、かまぼこをはじめとした魚のすり身商品だ。例えば「シーセージ」(各432円)は、独自の食感が楽しめるすり身のソーセージだ。一方、店内の一角では、女の子がメッセージを描いていた。これはわずか20分でかまぼこにプリントしてくれる「プリかま」(焼き印代540円)。
さらに隣の建物、「鈴廣かまぼこ博物館」でもすり身商品の魅力を味わえる。大勢の人が集まっていたのは「練り物の手作り体験」(1620円)のコーナー。竹の棒にすり身をつけ、それをこんがり焼くと、チクワの出来上がり。
風祭のこの一角には、道路の向こう側にも何軒もの鈴廣の直営店が並んでいる。まるでかまぼこのテーマパークのような「かまぼこの里」。
古民家を移築したこだわりのそば店「美蔵」にも大人気のかまぼこ商品がある。ぷりぷり食感のかまぼこのかき揚げだ。その隣にある「えれんなごっそ」は、かまぼこのバイキングレストラン。鈴廣が作る様々なすり身商品からサラダやスープ、さらにデザートまで取り放題だ(平日 大人2052円~、子供1026円~)。
ここの目的はかまぼこのおいしさを知ってもらうこと。だからかまぼこのための地ビールもある。鈴廣がかまぼこに合うようにと独自に開発した「箱根ビール」(572円)は、さっぱり味の地ビールだ。
そんな客を魅了する様々なかまぼこ戦略で、かまぼこの里には年間100万人もの客が訪れる。
鈴廣の創業は1865年。小田原にあった小さなかまぼこ店だった。戦後、全国区へと急成長を遂げたその躍進は、かまぼこ業界では奇跡とさえ呼ばれている。ここ数十年、減少するかまぼこの生産量。そんな中、鈴廣は、この40年で売り上げを5倍にまで増やしたのだ。
鈴廣蒲鉾本店10代目社長の鈴木博晶は、常識にとらわれない様々な挑戦で客を掴んできた。「買った後にすぐ食べられないか」という声を聞けば、どこででも食べられる「切れてる板わさセット」(950円)を開発。最初から切り込みを入れたアイデアでヒットを生んだ。洋食風にアレンジできる「かまぼこドレッシング」(518円)も人気商品だ。
「洋風の食卓の方が多いと思うんです。そういう時でもかまぼこが食卓に上がるように、と。売れない、売れないと言っても何も始まらないから、いろいろチャレンジする」(鈴木)
伝統の職人芸×最新技術~小田原名産、極上かまぼこ
鈴廣の強さを支える本当の秘密は、鈴廣のかまぼこでも最高ランクの「古今」にある。1本3888円とかなり高価だが、味の違いは「かまぼこバー」で体験が可能。「お試しセット」(500円)で他の商品と「古今」の食べ比べができる。
「古今」は他のかまぼことは全く違う独自の製法で作られている。それは大量生産からはほど遠い、伝統のかまぼこ作りだ。
相模湾で揚がる、その昔からおいしいかまぼこに欠かせないというオキギス。今や漁獲が少なくなり、貴重な魚だという。早朝の鈴廣では、そのオキギスが届けられるや、「古今」の製造が始まった。滑らかな身のオキギスを包丁で丁寧にかきとっていく。「古今」の原料にもう1つ必要な魚が、全く違う肉質のグチだ。
製造チームの神兼智は「グチは力強い弾力がある。オキギスはきめ細かくて口当たりがすごくいい。その力強さときめ細かさを合わせて『古今』が作られます」と言う。
このグチとオキギスの配合がポイントになる。まずグチをミンチ状にし、かまぼこ作りに適した硬度の高い小田原の地下水にさらす。これは「水さらし」という工程。どの程度さらすかは、不純物として浮き上がってきた脂の状態を見ながら、熟練の職人が見極める。
しっかり不純物を取り除いた身は布の袋に移してしぼる。ここで厳密な量の水分を絞ることが、最も難しい職人技のひとつ。「担当する人間は0.1%単位の水分値をコントロールします。固く絞ると、後で水を加えてもしなやかさが戻ってこないんです」(神)と言う。絶妙な水分量に調整され、旨味だけとなったグチの白身が出来上がる。
これを大きな石臼に入れ、そこにオキギスを入れて、しっかり混ぜ合わせながら挽いていく。全ての工程を支えるのは職人の経験。それによって弾力が生みだされる。
だが職人技の本領はここから。まずは、かまぼこ板にミルフィーユ状に何層にも白身を重ねて食感をよくする「引き起こし」という工程。出来上がると、次の職人の手に渡り、「中掛け」という作業に。これでかまぼこに高さを出していく。最後が「上掛け」という工程。つやが出るよう卵白を混ぜた仕上げ用の白身に。一瞬の無駄もない職人の連携が、美しい小田原かまぼこを作り上げていく。
「古今」は古来から受け継がれた職人技で作られる唯一のかまぼこ。工業化されたかまぼこ作りの時代に、鈴廣が職人技を守り続けるのには理由がある。
「魚肉たんぱく研究所」は、鈴廣自慢のかまぼこ専門の研究所。「かまぼこの製造技術の研究など、基礎研究をやっています」(鈴木)と言う。
ここでは、守ってきた職人技を最新の機器で科学的に分析することで、おいしいかまぼこ作りのノウハウを蓄積している。例えば電子顕微鏡で見ていたのは、ある条件で作ったかまぼこの表面。蒸し時間を微妙に調整することで、繊維が太くなり、弾力が増す。データ化した職人技で食感を自在にコントロール。職人譲りの細かい時間や温度の管理で、おいしくてお値打ちなかまぼこの大量生産が可能になったのだ。
「伝統的な技術に科学的な裏付けをしていきます。最もおいしいと思ってもらえるのはどういうものか。それを安定的に作るには何がポイントか」(鈴木)
そんな鈴廣の財産とも言えるのが、水産練り製品製造1級技能士という国家資格を持つ職人の名前を記したプレート。それは練り物作りのあらゆる工程をマスターしなければならない、取得に最低10年はかかるという資格だ。
「これだけ資格を持っている社員がいるのは、全国にあまりないかもしれません」(鈴木)
伝統技と最新技術、それが鈴廣の強さの秘密だ。
震災、空襲、消費離れ…~苦境に立つ小田原かまぼこの復活劇
浅草の細い路地にあるロシア料理店「ラルース」。この店では最近、珍しいメニューを始めたという。それが「蒲鉾とサーモンのタルタル セルクル仕立て」だ。
このメニューを仕掛けたのが鈴廣の営業マン、安居院正。浅草の様々なジャンルの名店を回り、合同でかまぼこフェアをやらないかと口説いている。「100店舗を回って、20店舗ぐらいに参加していただきます」と言う。各店が工夫して作ってくれた様々なかまぼこメニューで、新たな需要を掘り起こそうというのが狙いだ。
「ラルース」の髙間厚さんも、鈴廣からの依頼を受けて、かまぼこを使ったロシア風料理に挑戦した。「最初はすごく悩みました。うちの店でかまぼこをどうやって出せるか」と言う。
鈴廣の大胆な取り組みの裏には、ある危機感があった。それは年々減り続けるかまぼこの消費量。「外食に行っても出てくることはほとんどない。食べに行った時にしっかりかまぼこ料理が出てくれれば、と思います」と、安居院も言う。 小田原の海のほど近くにある「かまぼこ通り」も、今や閑散としている。廃業する店も少なくないという。
江戸時代、小田原はかまぼこのおかげで栄えた。第15代将軍・徳川慶喜は、わざわざ江戸から買いに行かせたほどだ。しかし1923年、小田原を震源とする関東大震災で壊滅的被害を受ける。立ち直ったかと思うと、今度は第二次世界大戦の空襲でまた小田原は焼け野原になった。
その危機を救うために走り回ったのが、鈴木の祖父で、かまぼこ職人だった7代目・鈴木廣吉だ。「祖父はいかにおいしいものを作るか、それだけ。かまぼこ作りに没頭してたんじゃないでしょうか」(鈴木)と言う。廣吉は戦後の原料不足の中、全国を回って魚を集めるなど、必死で頑張るが、経営は苦しかった。
ところがそんな鈴廣を、驚異的な成功に導く後継者が現れる。廣吉の長女・智恵子と婿養子の昭三だ。当時では珍しい、共に大卒の夫婦だった。
「老舗にあって老舗にあらず」~夫婦二人三脚の大改革
改革の発端は、昭三が初めて見るかまぼこ作りの現場に驚いたことだった。手作業で行われる重労働の水さらし。魚の脂が混ざって水は悪臭を放っていた。現在88歳になる鈴廣蒲鉾本店会長の智恵子も、家業のかまぼこ作りが嫌でしょうがなかったという。
「バケツで水をたるに何杯も入れる。びしょびしょだからみんな水虫。油煙が出るじゃないですか。それが方々に散っちゃって、近所にもかまぼこにも」(智恵子)
そこで活躍したのが、横浜国大で応用工学を専攻した昭三だ。昭三と智恵子は、かまぼこ作りの現場を変えるため機械化に着手する。
まず、水さらしは桶に支柱をつけ、簡単に水を流せる器具を昭三が考案する。そして重労働だった水分を絞るローラーもローラー式脱水機で自動化。さらに職人技だったミルフィーユ状の成形も、内部を何層にも区切った筒から押し出す方式を考案してみせた。
当時の昭三を知るかまぼこ職人の佐賀勝男は「業界を知らないだけに第三者的な発想、別の角度から意見をいただきました。我々が『どうしてそういうことができるかな』と思うことでも『やってみよう』と」と言う。
ところが、そんな娘夫婦の改革に、職人肌の廣吉は「手で作らなきゃ、うまいかまぼこなんかできるわけない」と、否定的だった。智恵子は当時の廣吉について「自分はそういう育ちだったから、近代化するのは好まなかったのでは」と、振り返る。
しかし、昭三と智恵子はひるまず、さらに大胆な行動に打って出る。それは手狭になったかまぼこ通りにあった本社移転。衛生的で大規模な工場にドライブインを併設するという壮大な計画だった。移転先となったのが、小田原市の郊外にある、現在、鈴廣が本拠地を構える風祭だった。当時そこは、国道が1本通るだけの一面の田んぼだった。
廣吉はこの計画にも、「小田原の地下水が出ない場所でうまいかまぼこが作れると思っているのか」と言って反対した。問題としたのは、硬度が高く、水さらしの工程にもってこいの小田原特有の地下水だった。
しかし、昭三と智恵子は、もし水質が同じなら廣吉も納得するだろうと考えた。そして風祭でボーリング調査を実施。湧き出したのは、以前の場所と全く同じ水質の水だった。
1962年、ついに風祭に巨大な鈴廣のドライブインがオープン。昭三と智恵子の狙いは当たり、モータリゼーションの流れとともにバスが押し寄せた。
その後 鈴廣は機械化で生み出せるようになった大量の商品で、デパートなどへも販路を広げ、爆発的に業績を伸ばしていった。
大胆な挑戦でかまぼこ通りの老舗を進化させた智恵子は、父・廣吉が亡くなった時、その思いを知って驚いたという。
「父が亡くなって引き出しを開けたら、『老舗にあって老舗にあらず』と書いたメモがあったんです。新しいこともやらなきゃいけないし、古いことも守らなきゃいけない。これはすごいことだと思いました」
老舗にあって老舗にあらず。廣吉が残したその言葉は、今も鈴廣の中で生き続けている。
小田原かまぼこを後世に~職人の技を若手に継承
桜が咲き誇る3月下旬。小田原城のもとでちょっと変わった祭りが開かれた。
客を集めていたのは、かまぼこ板を積みあげて高さを競うイベント。さらに始まったのは、選りすぐりの職人が腕を競い合うかまぼこ細工。鈴廣の職人、前出の神兼智が披露していたのは、かまぼこの断面に模様を描く細工かまぼこ。出来上がったのは見事なまでの鶴の模様。
この日開かれていたのは「小田原かまぼこ桜まつり」。小田原に伝わる恒例の祭りだ。祭りを運営するのは小田原にある12軒のかまぼこ屋。ライバル同士が垣根を越え、小田原かまぼこを盛り上げるために開催している。
「淡々とコツコツやっているだけでは将来はないとみんな感じている。みんなで一緒にやろうぜ、と」(鈴木)
鈴木廣吉の時代から、小田原のかまぼこ店は手を取り合って生きてきた。廣吉は鈴廣の職人たちに、よく「鈴廣じゃなく、小田原のかまぼこを作れ」と言っていたという。自分だけのためではない、皆で生き残るためのかまぼこ作りだ。
「小田原蒲鉾会館」に小田原かまぼこの若手が集まっていた。同業の若手から信頼を集めている鈴廣の神が、「鈴廣の持っているノウハウは、見せられるものはオープンにしていきたい。何でも吸収してください」と、切り出した。
この日開かれたのは、腕自慢の職人が若手に技を教える技術研修会。店の垣根を越えて小田原かまぼこの競争力を高めるためだ。
職人たちに生き続けるかまぼこ屋の心意気が、今も小田原かまぼこを支えている。
~村上龍の編集後記~
蒲鉾はおそらく日本最古の加工食品だろう。非常になじみ深いが、今、多くの人がおせちの一品だと思っている。だが、製法は精緻で、奥深い。
「鈴廣」は、消費量が減り続ける中、売り上げを伸ばしてきた。代々、食感を追求し、蒲鉾の美味しさを伝えるために、できることはすべてやってきた結果だ。
ていねいに作られた蒲鉾の味わいはデリケートで、他に比べるものがない。私見だが、日本酒のつまみとしては刺身より上だ。奥ゆかしくて美しい、日本女性のようだと思う。
確固たる自立があるが、余計な自己主張がない。
<出演者略歴>
鈴木博晶(すずき・ひろあき)1954年、神奈川県生まれ。1977年、東京工業大学卒業後、北洋水産入社。1996年、鈴廣蒲鉾社長就任。
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