第4章 合理的だという自意識過剰。「行動ファイナンス」で損失は減らせるか

<第3話>お得感に潜む罠。「アンカリング効果」とは?

「君はいつも背広を着ていますが、趣味は悪くないですね」
「いや、そんなことないですよ。僕にとっては、作業着ですから。安物ですよ」
 先生にしては珍しいお世辞に、隆一は謙遜しつつ、嫌な予感がした。

どちらを買う?最初から2万円、4万円から半額

「ところで質問ですが、A店では君の気に入った背広が2万円で売っていた。B店では、セールと称して、定価4万円の似た作りの背広が2万円で売っていた。君は、どちらを買いますか」

 先生は「趣味は悪くない」と言いながら、どうせ隆一の背広は2万円程度だろうと思っているわけである。しかし、まずまず当たっているので、隆一はそこには触れず先生の質問に答えた。

「そりゃ、定価4万円の背広が2万円で買えるんですからB店で買いますね」
「どちらの店も2万円で買えるんですよ」
「そうですけど、B店で買った方がお買い得ですから」

 先生は、我が意と得たとばかりに、うなずいて続けた。
「つまり君は、『定価4万円の背広がセールで2万円』という情報から、『本来4万円の価値がある背広が2万円で手に入る』と思ったのでしょうね。さらに言えば、どんな生地を使って、どんな縫製で、どんなデザインか、着心地はどうか、というような<性能>よりも、セールで半額で買える、という<値段>の方に注目したともいえます。AとBは似た作りの商品、つまり性能は近い、という情報は無視したのでしょうね」

 隆一は、<ずいぶん嫌みな言い方だな、予感的中だ>と思ったが、これまた先生の言うとおりだったので、黙っていた。

投資小説,トウシル
(画像=トウシル)

「値引き」で狂う価値基準。本当の価値は?

「これはね、『アンカリング』といって、小売店が値札で客の目を引くためによく使う手法です。人は、何かを判断する時、小売店での『正価』と書いてある値札など、最初に提示された数値や情報が印象に残り、それを、基準点(アンカー)として判断してしまう心理的傾向があります。『少しでも安く買いたい』『得をしたい』という気持ちが、みんなありますからね。ですから、『どちらも2万円で、品質も、デザインも、それほど変わらない』といった論理的な思考が妨げられ、実際には不合理な選択をしてしまいがちなんです」

 なるほど、そう言われてみれば、隆一は確かに自分は「大幅値引き」「セール」「本日限り」といったフレーズに弱いなと思った。

「肝心なのは、投資でもこういった不合理な選択をしてしまうことがあるということです。相場の格言に『高値覚え(たかねおぼえ)』『安値覚え(やすねおぼえ)』というものがあります。今日は、この格言をしっかり頭に入れておきましょう」

高値覚えと安値覚え。「アンカリング」の罠

「高値覚え、安値覚え、ですか」

「そう、過去の株価水準がアンカー(錨)のように頭に残り、その株価水準にとらわれてしまい、合理的な投資判断ができなくなることを戒める相場の格言です。たとえば、

〇投資しようと狙っていた株は過去に4,000円まで値上がりしたことがある。それが、今は、2,000円まで値下がりしている。4,000円の株価が2,000円まで安くなったのだから割安ではないかと考えてしまうことが『高値覚え』です。

さっきの、君と同じですね」
「僕のように、ですか…」

 隆一の不快そうな反応に、余計なことを言ってしまったか、と先生は話をそらすようにすぐに続けた。
「いや、つまり、その株が過去から見て半値くらいまで値を下げたとしても、2,000円という水準が、その時の企業価値から判断して割安な水準であるとは限らないということです。投資判断は、過去の株価ではなく、その時点の投資対象の将来価値の予測から考えるのが基本です」

「確かに、5年前に4,000円だったTシャツが今、2,000円だからと言って、安いか高いかはわかりませんね」

「悪くない例えですね。いまその時点で、改めて本当の価値を考えることが大切です。先ほどの株の話をすれば、大きく下げた株価が2,000円で下げ止まるとは限りません。『4,000円まで上げた株だから』と2,000円で買ったとしても、勢いでさらに値を下げてしまうことは、よくあることです。ところが、『高値覚え』をした投資家は、

〇4,000円の高値を付けたのだから、いつかは4,000円を超えるかもしれない、いや、3,000円くらいまでなら戻るんじゃないか、などと4,000円という株価をアンカー(錨)のように基準点と考えてしまう

ということです」
「ああ、僕もそう思いがちです。都合いい話ですよね」

 先生は、隆一の素直な反応に安堵したのかコーヒーに口を付けてから話を続けた。

「『安値覚え』の方は、逆に、株価が大幅に下落した後に反転し始めて、後から振り返れば、その辺の株価が底値で、絶好の買い場だったとしても、投資家の頭には下落後の最安値がアンカー(錨)のように印象に残ってしまうことです。

〇安値が頭に残っているので、『ここで買っても、さらに下がるのではないか』と、さらなる下落を恐れて買いのタイミングを逃してしまう

〇あるいは、勇気を出してせっかく底値近くで買っても、株価が小幅に上昇すると『結構、上がったから、また下がるのでは…』と、我慢しきれず利益確定売りを出して、大きな利益を逃してしまう

ことです」
「ああ、そこはやっぱり怖くなってしまうかも」

 隆一は、自分がまさにアンカリングにとらわれやすいタイプなのだと思った。同時にみんなそうだろうな、とも思っていた。

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中桐 啓貴(なかぎり ひろき)
FP法人GAIA代表 ファイナンシャルプランナー
1973年、兵庫県生まれ。大学卒業後、山一證券、メリルリンチ日本証券で資産運用コンサルティング業務を行う。留学してMBA(経営学修士)を取得後、IFAガイアを設立。社員26名、資産相談の顧問契約者約645名、仲介預かり資産は260億円超。

(提供=トウシル

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