猛威インフルエンザに、1回飲むだけの新薬登場
いよいよインフルエンザのシーズン到来。ついに全国的に警報レベルに突入した。街のクリニックの待合室は、すでにインフルエンザの患者であふれている。
神奈川県川崎市の廣津医院。ホテルのレストランで働いている山本知典さんは「背中が痛くて悪寒がし、普通ではないと思った。熱は今朝からで38度6分」という症状で来院した。診断してもらうとやはりインフルエンザ。山本さんには薬が処方された。
インフルエンザといえばよく名前を聞くのが経口薬の「タミフル」。他にも口から吸い込むタイプの「リレンザ」「イナビル」、点滴するタイプの「ラピアクタ」と、これまでは4種類の治療薬があった。しかし山本さんが処方されたのは「ゾフルーザ」。去年3月に登場した新しい治療薬だ。
「タミフル」なら5日間飲まなければいけないが、「ゾフルーザ」は1回飲めば治療は完結。山本さんはその場で飲んだ。山本さんは仕事を休み、そのまま帰宅。2日後、再び医者の元を訪れると、「その夜は熱が39度6分まで上がりましたが、寝て起きたら36度3分になっていました」と言う。薬が苦手な子供も1回の服用で済む。
「タミフル」は細胞内で増殖したインフルエンザウイルスが、細胞の外に出て広がるのを防ぐ。一方、「ゾフルーザ」は細胞の中に入り込み、ウイルスが増えるのを防ぐ。
臨床試験のデータでは、「タミフル」と比べ、熱などの症状が治まるまでの時間はほぼ同じ。しかし、ウイルスが消えるまでの時間は「ゾフルーザ」の方が早い。
「インフルエンザで一番重要なのは、流行を大きくしない、人にうつさない、うつらないこと。ウイルスが早くなくなるので、周囲への感染を少なくする可能性があるのが特徴だと言えると思います」(廣津医院・廣津伸夫院長)
臨床試験では、副作用は「タミフル」と同じ程度だったが、新薬なので今後も慎重に経過をみる必要があるという。
「ゾフルーザ」をつくったのが塩野義製薬。塩野義といえば長寿番組『ミュージックフェア』でおなじみだ。前回の東京オリンピックがあった1964年から一社提供で放送し続けている。代表的な薬は解熱鎮痛剤の「セデス」やビタミン剤の「ポポンS」など。しかし、こうした市販薬の売り上げは全体のわずか2%程度。ほとんどは医師から処方される薬で稼ぐメーカーだ。
その本拠地は大阪・道修町(どしょうまち)にある。ノーベル賞で脚光を浴びた「オプジーボ」の小野薬品など、道修町は大小の製薬メーカーが集まる昔からの薬の町。塩野義製薬も本社を構えている。従業員は5120人、売り上げは3447億円。これは国内10位とずば抜けた数字ではないが、製薬業界で独自のポジションを築いている。
戦い激化の製薬業界~塩野義の独自ポジションとは?
塩野義製薬社長の手代木功は、投資家たちから、その経営手腕を高く評価されている。
「今の製薬会社の中で『社長として経営能力があり信用できるのは誰か』と日本の投資家に聞いたら、たぶん9割は手代木さんだと言うと思います」(シティグループ証券アナリスト・山口秀丸さん)
海外の投資家からも「手代木さんが経営にあたり10年で塩野義製薬の価値は5倍になりました。こんな経営者は世界でも滅多にいません」(米国投資会社のトレバー・ポリシュックさん)と、評判は高い。
その手代木は自ら全国の開業医を回っていた。「最前線にいる先生たちから、細かいことでも、『飲みにくい』『使いにくい』など、ヒントをいただければ……」と、医者一人一人の声に耳を傾ける。一方、手代木と接した医師たちからは、「普通、大企業の社長さんだと距離があり、なかなかお話するのも難しいですが、初めてお会いしたときから気さくな方でした」(福島県郡山市の菊池医院・菊池信太郎院長)という声が上がる。
手代木はこの10年で塩野義を特別な会社に変えた。昨年度の売り上げは国内最大手、武田薬品工業の5分の1に過ぎないが、効率よく稼ぐ力、売上高営業利益率は33%と、断トツの数字を叩き出している。 「売り上げはそんなに急に伸びるものではない。それよりも効率、売上高営業利益率で1位になったら面白くないかと、従業員に言ったんです」(手代木)
製薬業界では買収などによる生き残りの戦いが激化。武田がアイルランドの大手、シャイアーを6兆円余りで買収し、話題を呼んだばかりだ。新薬の開発には莫大な費用と時間がかかるため、「相手の成果を丸ごと買う」再編が進むのだ。しかし塩野義は違う道を行く。
「手代木マジックと呼んでいて、手代木さんがやった一番大きなことは、研究開発を徹底的に変えたことです」(前出・山口さん)
手代木が目指したのは新しい薬作り、「創薬」に特化した会社。大手でも難しい新薬の開発をこの14年で7つも成し遂げた。自社開発率は、一般的な製薬会社が2~3割のところ、驚異の7割。自分で生み出すから、効率よく稼げるのだ。
「塩野義は製薬会社だと。製品を出して患者様にお届けしてお役に立つことが仕事であり、それが我々の存在している意義だということです」(手代木)
老舗製薬メーカーを変えた「手代木マジック」
塩野義製薬の創業は1878年。社名は創業者・塩野義三郎の名前からとった。その後、製薬会社の御三家の一つにも数えられたが、1990年代には「既存品の売り上げは伸びず、売り方は古臭い、海外にも行けない。時代に取り残された感がすごく強かった」(前出・山口さん)という状態に陥った。
研究といっても、論文を作るばかりで新薬は出せない。研究所は「塩野義大学」と揶揄された。当の研究者も「会社に入って、薬の研究をしていたら恥ずかしい。研究は論文を書くことで、薬の研究は能力のない人がするものと思っていたんです」(加藤晃)と、当時を振り返る。
「それはもう危機感そのものでした。ものをつくらないとこの会社は絶対に潰れると思っていたので、まず会社の形を『製薬会社』にしよう、と」(手代木)
1999年、39歳の若さで経営企画部長に抜擢された手代木は、当時の社長と二人三脚で改革に着手。マジックと呼ばれる手腕を発揮する。
まず手代木がやったのは、卸し業など医薬品以外の事業の売却だった。総売り上げが半減するほどの荒療治。その上で新薬の研究領域を絞り込み、30近くあった領域を感染症など、三つにしたのだ。
当時、製薬研究のトレンドとなっていた抗がん剤のチームも解体。当然、猛反発が起きたが、手代木が「我々の抗がん剤のチームは20人。世界の巨大製薬会社は1000人のチームで研究に当たっています。それでどうやって勝つのか、論理的に説明して下さい」と言うと、研究者達は押し黙るしかなかった。
「資源を競争力のあるところに振り分け、勝てる確率を増やそう、と。実際、『だったら』と言って会社をお辞めになる方もおられました」(手代木)
会社を去ることになった仲間から、手代木は直接こんな言葉を投げかけられた。
「わかった。でも俺は塩野義の株は売らないからな。俺らが去ることで、塩野義をもっといい会社にするんだろ?だったら株価、上がるよな」
去りゆく仲間の重みを感じながら、手代木は断固たる改革を進めた。すると、嘘のように新しい薬が続々と誕生する。
「薬というのは確率論から生まれるものだと思っていたのですが、そうではなくて、計画して戦略的につくるものだと分かった。そういう結果を見て、だんだん気持ちが変わったというか、薬をつくることがやりがいになったんです」(前出・加藤)
もうひとつの手代木マジックは、「特許切れ」の危機を回避したこと。2010年代前半、塩野義の売り上げを支えていたのが「クレストール」という高コレステロール血症治療薬だった。販売権などをイギリスのアストラゼネカに譲渡し、年間600億円という莫大な特許料、いわゆるロイヤルティー収入を得ていた。
ただし、薬の特許は基本20年。「クレストール」は最大市場のアメリカで2016年に特許が切れる。その時期が迫り、「利益が、特許が切れることでほぼゼロになってしまう。何かしないと会社が危ない、と」(手代木)。
そこで手代木はアストラゼネカに前代未聞の交渉を行う。ロイヤルティーを減額する代わりに受け取り期間を延長する契約を持ちかけ、実現させたのだ。結果、売り上げの落ち方もなだらかに。これで余裕が生まれ、「ゾフルーザ」の開発に繋がっていくのだ。
異例のスピードで世に出したインフルエンザ新薬
「ゾフルーザ」の開発でも手代木は手腕を発揮。異例のスピードで世に出してみせた。
新しい薬を作るには幾つもの工程が不可欠となる。まず決めなければ始まらないのが、薬の方向性。「ゾフルーザ」をどんな薬にするか、方向性の決定を託されたのが宍戸貴雄だった。その際、手代木に、厳しく釘を刺されたという。
「タミフルと同じでは意味がないと言われました。実際に患者さんがタミフルと新しい薬を飲んでみて、違いが分からなければ意味がない、と」(宍戸)
宍戸はインフルエンザのウイルスとHIVのウイルスの弱点が似ていることに着目。自社開発していたエイズの発症を抑える抗HIV薬をヒントにすることにした。
方向性が決まり、次は有効成分の研究に。ウイルスに直接作用する薬の根幹部分だ。HIVの薬をヒントにして新薬の構造を考え出したのは河井真。試行錯誤を繰り返し、結局、最終的な有効成分を作るのに、7年の歳月を費やした。
だが、実はまだ折り返し地点。ここから薬の形にし、臨床試験をクリアしなければならない。試験は短くても5年はかかるが、手代木はその半分の期間でクリアしろと命じた。
「やはり開発はお金がかかります。1年縮めれば開発費もすごく浮くので、妥当なコストで患者様に届けることも可能になります」(手代木)
その無茶とも思える命令を受けたのが、製剤研究センターの相川昇平だ。有効成分が最大の効果を発揮できるよう、薬の配合を考えるのが役割だった。
臨床試験は3段階に分かれている。通常は試験ごとに結果を受けて調整するが、相川は事前に何通りもの配合を準備して結果に対応。調整にかかる時間を短くすることで、5年を3年にして見せた。
かくして「ゾフルーザ」は驚きの早さで世に送り出されることになった。
「臨床試験で実際に服用したお子さんのお母さんから、『1日前まで泣き止まなかった子供が翌日ケロッとしていた』と聞いて、錠剤の開発は苦しくて長い道のりでしたが、達成できて良かったと本当にうれしかったです」(相川)
巨大ライバルも味方に~インフル新薬の世界戦略
インフルエンザを警戒するのは日本だけではない。アメリカでは昨シーズン、インフルエンザが猛威をふるい、90万人が入院し、8万人が死亡するなど大変な騒動となった。
不安が高まるアメリカに手代木の姿が。「ゾフルーザ」の世界展開の打ち合わせだという。
そこに現れたのは製薬会社の世界トップ、ロシュ社のCEO、セヴリン・シュヴァンさん。ロシュはスイスに本拠地を置き、売り上げはなんと6兆円という巨大企業だ。インフルエンザ治療薬「タミフル」を手がけた塩野義のライバルでもある。
だが、そんなライバルの口から出たのは「ロシュの研究者は、塩野義の『ゾフルーザ』について知った時、とても興奮したんだ。まったく新しいメカニズムの薬だ。最先端の研究で多くの可能性があるからね」(シュヴァンさん)という言葉だった。
一方、手代木も「ゾフルーザ」を世界で売るにあたり、提携先は「タミフル」で世界中に販路を持つロシュこそ最適と考えた。
両社の交渉が始まったのは2015年。しかし、承認に伴う販売開始時期の見通しで対立した。もともとアメリカでの臨床試験はロシュがやることになっており、承認されるのは2022年と見ていた。
そこで出たのが手代木マジック。手代木は「臨床試験は塩野義がやり、2018年までに承認を取る。それが成功したら、臨床試験にかかる数百億円の費用を1.5倍にして返してほしい」と交渉したのだ。
実は、ロシュにとって「タミフル」の特許切れも迫っていた。この時期に「タミフル」に代わる新薬が販売できるとなれば最高だと、話に乗ってきた。
結果は手代木の読み通り。塩野義の臨床試験の成果が評価され「ゾフルーザ」はアメリカでも異例のスピード承認となったのだ。
「イサオ(手代木)さんは最初から自信を持っていた。結局、彼が正しかったね。我々はとてもうまくいっている。結婚したカップルみたいだよ」(シュヴァンさん)
製薬業界、世界のトップをも感服させた手代木は、その交渉術の秘訣をこう語った。
「私はいつも、交渉というのは51対49で勝つのが理想だと言っているんです。100対0で勝っても、絶対どこかでやられる。双方にいいところでどう着地させるか、です」
~村上龍の編集後記~
生命科学の急速な進歩の影響も大きく、莫大なコストがかかる新薬の開発は、メガファーマが圧倒的に有利だ。
だが塩野義は、研究開発の優先順位、選択と集中の徹底、それに海外メガファーマとの提携を含む経営戦略で、特別な存在感を示す。
「患者さんが必要とする新薬を作り続ける」「製薬会社としての原点に回帰」。手代木さんはそう言う。
社長塾では、正解のない問題を巡り罵声が飛び、泣き出す社員もいるらしい。だがスタジオの手代木さんは、とても優しく、穏やかで謙虚な人だった。
情とロジックが見事に融合した人物だった。
<出演者略歴>
手代木功(てしろぎ・いさお)1959年、宮城県生まれ。1982年、東京大学薬学部卒業後、塩野義製薬入社。1987年、1994年と2度アメリカに赴任。2008年、社長就任。
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