巨額の赤字を計上していたエルピーダメモリの社長に就任し、業績を大きく改善させるも、「不本意な敗戦」を喫した坂本氏。最後まで責任を持つトップの姿勢を学んだ経験とは?

※本稿は月刊誌『THE21』2020年11月号より一部抜粋・編集したものです。

「最後まで見届けた」が今を支えている

トップの姿勢,坂本幸雄
(画像=THE21オンライン)

TI(テキサス・インスツルメンツ)に勤めているとき、2年間、米国で働いたことがあります。それまでほとんど海外に行ったことがなかった私にとって、米国での生活は戸惑いの連続でした。

理髪店で「短くしてほしい」と言ったら、日本ならちょうど良い具合に整えてくれるのに、坊主にされてしまったこともあります(笑)具体的に言葉で説明しないと、思ったように行動してくれないのだと思い知りました。

仕事の進め方も日本と大きく違っていました。日本では根回しをして合意形成をするのが普通ですが、米国では一人の反対意見でも尊重します。

例えば、これは私が日本に戻って来てからのことですが、TIのCEOが急死したとき、副社長を後継者にするということでプレス発表を行なう準備まで整えていたのに、たった一人の社外取締役の反対で中止になったことがあります。

その後、ホテルに1週間、缶詰めになって取締役会議が行なわれ、誰も予想していなかった、まだ40代前半のトーマス・エンジバス氏が選ばれたのです。彼は事業を大胆に絞り込む改革を行ない、大抜擢の期待に応えました。

大地震で工場の創業が停止。その時…

一人の意見がそれだけ尊重されるということは、自分の意見にもそれだけの責任を持たなければならないということです。私がそのことを実感したのは、1990年のバギオ大地震のときでした。

当時、42歳だった私は米国勤務中で、世界中に約7000人の部下がいました。地震が起こったフィリピンのバギオには、自動車メーカーに納品するマイクロコントローラの工場があり、操業が止まりました。

このままでは自動車メーカーの工場を止めてしまう危険があり、もし止まると多額のペナルティが課せられますから、バギオから生産拠点を移そうという方針がほぼ決まり、工場を潰す前に現地を見るため、私はバギオへ飛びました。

マニラからは、座席もない米軍のヘリで山を越え、恐かったですね。着いてみると、水も出ない状況です。しかし、工場長以下、従業員たちは「工場を潰さないでほしい」と訴えました。

滞在は2時間ほどでしたが、その姿を見た私は工場を再開させる決心をしました。結果として、1週間で操業を再開することができました。組織のトップである個人として責任を持ち、最後まで投げ出さず、物事を成し遂げた経験は、その後の財産になっています。

赤字続きだったエルピーダメモリの社長に2002年に就任し、最高で営業利益684億円(07年3月期)にまで回復させたものの、12年に会社更生法の適用を受けざるを得なくなったあと、社長に留まり続けたのも、責任を持って、最後まで投げ出さない覚悟ができていたからです。

13年にマイクロン・テクノロジに買収され、無事に再生するのを見届けてから、退任しました。経営の実態が悪くなっていたわけではないので、その後、世界的なモバイル用DRAMの需要の高まりに乗り、同社の業績は好調に推移しています。

坂本幸雄(IDT代表取締役社長CEO・ユニグループ(清華紫光集団)高級副総裁)
(『THE21オンライン』2020年11月10日 公開)

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