この記事は2023年12月24日に「テレ東BIZ」で公開された「テレ東経済WEEK第2弾~1円でも稼ぐ! 地獄を見たANAの新戦略:読んで分かる「カンブリア宮殿」」を一部編集し、転載したものです。
目次
ボーナスなし、年収3割カット~「生き延びるんだ」苦渋の決断
▽10月1日に行われたANAの内定式
10月1日に行われたANAの内定式。来年4月に入社予定の内定者は624人。そのうち約420人が4年ぶりに採用された客室乗務員だ。
コロナ禍の就職活動を振り返るVTRが流れると、涙が込み上げてくる。「私が就職活動を始める頃には採用活動が再開されているのか、不安がありました」「ずっと客室乗務員になるんだと思いながら、ここまで過ごしてまいりました」と、彼女たちはその気持ちを語った。
▽コロナ禍の就職活動を振り返るVTRが流れると涙が込み上げてくる
ANAに新型コロナウイルスの悪夢が襲ったのは2020年。他府県をまたぐ移動や海外渡航が制限され、フライトはストップ。空港から人が消え、旅客数は激減した。2018年度にグループ全体で約2兆円あった売り上げは、2020年度は約7,300億円まで急落。ボーナスはなくなり、社員の年収は3割削減。グループ全社員がどん底を味わった。
だが、ようやく今年、空港に活気が戻ってきた。国内線はコロナ前の9割ほど、国際線も7割程度まで回復している(2023年11月現在)。
羽田空港の第2ターミナルに滑走路を眺めるひとりの男がいた。
▽「本当に空港としての活気が戻ってきたと肌で感じる」と語る芝田浩二さん
「動きがありますよね。飛行機が動いていますし、地上の係員の動きもしっかり見ることができます。本当に空港としての活気が戻ってきたと肌で感じる」と言うのはANAホールディングス社長・芝田浩二(66)だ。グループ全体で4万人以上いる社員たち。コロナ禍が始まった頃、常務取締役だった芝田は社員の雇用を守るために奔走した。
「雇用は守るんだ、そのためにはいろんな手段を取るんだと。そのうちのひとつが出向だったんです。外部からしっかり資金・収入を得てほしいと」(芝田)
苦渋の決断で推し進めたのが、社員たちに出稼ぎに行ってもらうことだった。320もの企業や自治体に協力を依頼、累計2,300人が出向した。
「航空事業は社会のインフラですから、なくなることはない。ただ、いつまで我慢するのか読めない、そういう時期でした。出口が見えない苦しさがありました」(芝田)
芝田が社長に就任したのはコロナ禍の真っ只中の2022年4月。飛行機が飛べない中、少しでも収入を増やそうと、さまざまな手を打ってきた。
「生き延びるんだと、最終的にあらゆる手段を尽くして1円でも稼ぐ。それが明日の糧になる」(芝田)
大ヒット9種類の機内食~売れるものはなんでも売る!
いったい何をして稼いだか。
(1)機内食
東京・渋谷区のスーパー「明治屋 恵比寿ストアー」。10月5日、あるコーナーに客が集まっていた。お目当てはパッケージに「ANA」の文字が入った冷凍食品だ。国際線のエコノミークラスで提供される機内食。この日は「パエリア」(864円、取材時の店頭価格)の試食が用意されていた。他にも「ハンバーグドリアデミグラスソース」や「鶏もも肉のハーブ風味赤ワインソース」など人気の機内食9種類をラインアップ。この冷凍食品、スーパーなどで販売したところ大ヒット、累計200万食以上が売れたものだ。
▽「明治屋 恵比寿ストアー」人気の機内食9種類をラインアップ
コロナ禍でフライトがなくなると、機内食の工場も大打撃を受けた。そこで工場サイドが提案したのが冷凍食品としての販売だった。
「コロナで飛行機が飛ばない。なんとかしないといけないということで機内食を売ったらどうかと。非常に売れましてびっくりしています」(ANA総料理長・清水誠)
(2)備品販売
羽田空港内の格納庫。定期的にクリーニングするシートカバーは、以前はキズが見つかると廃棄していた。しかし、今はルームシューズ(1足6,930円)に生まれ変わっている。提案したのはマイルポイント関連の業務をしているBPOサービス事業部・照沼有紀子だ。
▽シートカバーが生まれ変わった「ルームシューズ」
また、整備士たちの作業着でバッグを作ることを提案したのは、飛行機の整備部門である機体技術部作業基準チーム・高橋秀弥だ。
「社員のコミュニティーがあってコロナ禍で何かできることがないかと。1円でも多く稼いでいこうと。『実はこういったものが廃棄されていてもったいない』という言葉から始まりました」(照沼)
▽整備士たちの作業着で作る「バッグ」
これも予想外の人気商品になった。ネットで売り出すたびすぐ完売になる。少しでも稼ごうと、さまざまな部門が協力し、アイデアを出し合っていたのだ。
機内の備品まで販売した。客室乗務員が機内食を配る時のカートは客室乗務員が機内食を配る時のカートはANAのショッピングサイトで11万5,500円で販売。
▽「機内食を配る時のカート」ANAのショッピングサイトで11万5500円で販売
さらにオークションで売ったものもある。飛行機の窓は約46万円、ファーストクラスの座席は約380万円で落札された。
「機内カートは非常に反響をいただきまして合計1,000台以上購入いただいています。(現在は)ありがたいことに運行が戻っており、なかなか販売する機会がありません」(全日空商事A-style事業部・池田杏那)
(3)見学ツアー
羽田空港の近くにある施設「ANA Blue Base」にやってきたのは30人ほどの小学生。校外学習だ。飛行機のことや航空会社の仕事を身近に感じてもらおうと始めた見学ツアー(大人1,000円、中高生800円、小学生500円)。客室乗務員の訓練や、機体の点検や修理を行う整備士の訓練なども見学できる。このツアーが始まったのは2021年12月。2022年は約1万人が参加するなど、なかなか予約が取れない人気となった。
▽「ANA Blue Base」航空会社の仕事を身近に感じてもらおうと始めた見学ツアー
芝田が社長に就任して1年半。ANAホールディングスは2023年上半期、過去最高の営業利益を達成した。乗客が戻ってきただけでなく、全社員が一丸となって始めた新ビジネスがあったのだ。
「将来的に違う波が来た時も航空以外の分野でサポートしていこうじゃないかと。2025年度までに(非航空事業の売り上げを)最低4,000億円には持っていきたい」(芝田)
グループの年間売り上げは約2兆円。その5分の1の規模にまで、航空以外のビジネスを拡大するという。
今は貧しくても将来は有望~全日空とともに歩んだ人生
ANA本社の社長室。芝田があるものを見せたいと案内してくれた。壁に「現在窮乏、将来有望」の書が掛けられている。創業メンバーが口癖のように唱え、代々受け継がれてきた言葉だ。
▽壁に「現在窮乏、将来有望」の書が掛けられている
「これが我々の創業以来掲げてきたチェレンジ精神。創業期というのは窮乏だったんです。本当にいつ潰れるかわからない会社だった」(芝田)
ANAは1952年、日本初の純民間航空会社「日本ヘリコプター輸送」として誕生。当時は資材の輸送や農薬の散布を行う小さな会社で、従業員は約30人、ヘリコプターを2機持つだけだった。
▽ANAは1952年、日本初の純民間航空会社「日本ヘリコプター輸送」として誕生
1958年に「極東航空」と合併し、全日本空輸が誕生。しかし当時は、国際線を飛べるのは日本航空だけで、全日空は国内線のみだった。
ちょうどその頃、鹿児島県の離島、加計呂麻島(かけろまじま)という小さな島で、芝田は生まれた。小学5年生の時、教師をしていた父親の転勤で奄美大島へ移り住む。そこで初めて飛行機を目にする。
「YS-11が飛んでいた。全日空です。奄美大島には全日空が飛んできていた」(芝田)
全日空の飛行機が芝田の心に強く残った。
その後、東京外国語大学中国語学科に進学。学業と空手に打ち込んでいた3年の時、大学の掲示板で、北京の日本大使館職員を募集するポスターに目が留まった。芝田は大学を休学し、2年間、北京で働くことにした。
ある日、北京の空港で全日空の飛行機を目にする。国際線がないはずの全日空。当時、まだ定期便は飛んでいなかったが、チャーター便の運行が始まっていたのだ。
「私が鹿児島から東京に受験などで乗って行った飛行機はやはり全日空なんです。鹿児島県民にとっては全日空が全てなんです」(芝田)
運命的なものを感じた芝田。やがて「国際線の就航に自分も役に立ちたい」と思うようになる。帰国した芝田は、1982年、大学を卒業すると全日空に入社。国際部に配属となり、国際線の就航に奔走した。
1986年には初の国際定期便 東京―グアム路線が就航。同じ年、ロサンゼルスやワシントンへも相次いで就航した。
▽ロサンゼルスやワシントンへも相次いで就航した
「将来有望の糧は国際線だと思ってやってきました。アメリカの3路線開設は我々にとって本当に大きな喜びでした」(芝田)
その後も、中国路線を拡大するなど、コロナ前には世界21の国と地域、65路線に伸ばし、日本航空を抜いて国内最大の航空会社となったのだ。
ロボット&空飛ぶタクシー~航空会社がいったいなぜ?
大分・別府市立東山小学校の6年生が、教室にいながら社会科見学をしていた。見ていた画面では、種子島にあるJAXA「宇宙科学技術館」をガイドが案内していた。
▽大分・別府市立東山小学校の6年生が教室にいながら社会科見学
この様子を映しているのはモニターがついたロボット「newme」。ガイドが動くと、「newme」もついていく。操作しているのは教室の子ども。パソコンの十字キーで前後左右、首の向きも動かせる。
「newme」はANAグループから生まれた初めてのスタートアップ「アバターイン」が開発したもの。コロナ禍で自宅にいながら旅の気分を味わってもらおうと、観光施設などに設置され、人気となった。
▽自宅にいながら旅の気分を味わえる「newme」
「ANAが最初ヘリコプター2機から始まって日本最大のエアラインになりましたので、次はどういった手段でお客様を目的地までお運びするかと考えた時に、こういった乗り物であれば世界中に行ける。身体の移動ではなく、意識、存在感、技能を移動させるサービスに進化したと思っていただければ」(「アバターイン」CEO・深堀昂さん)
「newme」はいま、さまざまな企業でも使われている。
ある住宅設備メーカーの展示場では「newme」が接客係になり、スタッフを客に見立ててテスト運用が始まっていた。実際に運用できれば、各地にあるショールームに多くのスタッフを配置しなくて済むというメリットがあるという。
▽「newme」が接客係になりスタッフを客に見立ててテスト運用が始まっていた
一方で10月、東京ビッグサイトでは国内外の自動車メーカーが、最新の車を展示するイベント「ジャパンモビリティショー2023」が開かれていた。
芝田が足を止めた先にあったのは、手軽に空を移動することができる、いわゆる「空飛ぶクルマ」。今、世界中で開発が加速しており、ANAはアメリカのメーカーと組んだ。
ビルの屋上で乗り降りして、街から街へ乗客を運ぶ「空飛ぶタクシー」としての運航を目指している。
▽街から街へ乗客を運ぶ「空飛ぶタクシー」としての運航を目指している
コロナ禍で仕事が激減~客室乗務員の新たな挑戦
コロナ禍を経て、新たな挑戦を始めた客室乗務員がいる。入社6年目の金井塚千秋だ。
「コロナ前は月に20日程度フライトがありました。それがコロナ禍で月に2、3回しかフライトがない。これからどうなるんだろうという不安がありまして……」(金井塚)
羽田空港をベースとして主に国際線のフライトを担当する金井塚だが、この日、向かったのは鳥取県庁。そこでデスクに座ると、パソコンを開いた。
▽金井塚さんは2021年12月から客室乗務員との兼業で県庁でも働いている
実は金井塚は2021年12月から、客室乗務員との兼業で県庁でも働いている。「とっとりへ ウェルカニ コーディネーター」という肩書だ。
「人口減少社会対策課という課です。移住してみて感じた鳥取の魅力を発信して、鳥取に移住者や来ていただけるファンを増やす業務です」(金井塚)
埼玉から鳥取に移住した金井塚は、SNSを活用して鳥取の魅力をPRしている。
ANAではコロナ禍の2021年、社員の雇用を守るため、兼業や地方への移住を認める制度を開始。コロナが落ち着いてきた今でも、25人がこの制度を活用している。
金井塚が訪れたのは「藤川農園」の畑。ここでは鳥取県だけで生産されている長芋の新品種「ねばりっこ」が栽培されている。小ぶりで折れにくく、粘り強い食感が人気だ。金井塚の収穫の様子は県庁の同僚が撮影。すぐさまインスタグラムにアップした。
▽「藤川農園」金井塚さんはSNSを活用して鳥取の魅力をPRしている
「客室乗務員はきれいなお仕事のイメージがあったので、砂まみれになって鳥取をPRしてくれるのはすごくうれしいです」(「藤川農園」藤川優一さん)
さらに金井塚は客室乗務員の経験を活かし、観光施設や飲食店に向けたおもてなし研修会の講師も担当している。
「客室乗務員をしている時は、自分に他の仕事ができるなんて思っていなかったのですが、実際にやってみると、意外とこういうこともできるんだと、気づきとか自信につながっています」(金井塚)
鳥取県庁はこれまでANAの社員2人を受け入れてきた。
「即戦力になる方ばかりですので大変ありがたい。外の方が入っていただくことによって新しい考えが生まれ、活力が湧いていると思います」(人口減少社会対策課・横山千紘さん)
金井塚はフライトの日、鳥取から羽田空港に出社して、国際線の業務にあたる。
「ANAグループも私もピンチの中でしたけど、いろいろな経験を経てもっと強くなった。もっと深いサービスができるような客室乗務員になりたいと思います」(金井塚)
~村上龍の編集後記~
芝田さんは、加計呂麻島(かけろまじま)で生まれた。鹿児島県と沖縄県の間に位置する奄美群島に属し、青色の海と白い砂浜に囲まれた島には、小さな商店があるだけの素朴な風景が。
「島から東京外大に行く人は?」「いません」という返事だった。小学生のとき、奄美大島でプロペラ機・YS-11を見た。
1982年全日空に入社すると、アジア戦略部長などを歴任し「アジア・中国の芝田」の名が。出向した職員も同僚だと大事にしている。約4万人がいる「家族」なのだ。そのトップに加計呂麻島の出身者が。素敵なことだと思う。