この記事は2024年5月30日に「第一生命経済研究所」で公開された「出口戦略の必要性:ガソリン支援をどう止めるか?」を一部編集し、転載したものです。

関税交渉・コメ問題は政治的な試金石
日米関税交渉は、うまく行けば6月15~17日の日米首脳会談で合意を得られる見通しである。筆者は、目下、相互関税24%を暫定措置として10%にしている状況と同じく、基本税率10%で妥結するのではないかとみている。本稿は、そうした関税交渉の決着の先に、日本経済がどのようなシナリオを辿りそうなのかを考えようというものである。
日米関税交渉が妥結すると、その先にあるのは参議院選挙ということになる。ここで、石破政権はその信任を問うかたちになる。目下、コメ価格の高騰を抑えるために小泉農水大臣が起用されて、5kg2,000円への引き下げを目指している。これが物価対策の焦点になっている。石破政権が問われるのは、農水大臣を交代させた人事の妥当性と、日米関税交渉に赤澤大臣を起用したことが奏功したかという点だろう。「石破政権の政策評価=適切な人事」という図式になっている。
7月20日と目されている参院選では、与野党の議席獲得が注目される。仮に、与党が過半数を割って、さらに非改選議席を含めて野党が248議席の半数以上(125議席)を占めるといよいよ政権交代の可能性が高まる。参議院での与党過半数維持は、改選議席で50議席以上獲得(現有66議席)となるので、野党が相当に躍進しなくてはいけない。
すでに昨秋の衆院選で与党は過半数を割っている。野党が一体になれば、内閣不信任案が通って、石破内閣は衆院解散または総辞職をせざるを得なくなる。野党は、参議院で多数を取り、さらにその先にある次の衆議院選挙でも過半数を取れば、首班指名で自分たちが望んだ次期首相を選出できる。現時点での次の焦点は、7月中旬の参議院選挙となる。
中小企業の問題
筆者が本稿で論じたいのは、日本経済の不確実性をなるべくクリヤーにすることだ。これまでは不確実な要因が多くて、私たちは先読みができなくないとされてきた。そこで、筆者は各種イベント・リスクについて仮説を設定することで整理して、見通しやすくする。
そのためにまず、「関税交渉で相互関税などが10%で合意された」と仮説を立てよう。対米輸出の採算性が▲10%ほど悪化することは、日本企業にとって痛手になるのは事実だが、何とか乗り切れるとみている。内閣府「企業行動に関するアンケート調査」では、2025年1月時点の調査で輸出企業の採算レートは1ドル130.1円となっている。相互関税10%ならば、143円(=130円×1.10)以上の円安水準で、輸出企業は何とか対米輸出の採算性は確保できそうだ。
次に、「参院選で与党が非改選議席を併せて過半数を維持した」と仮説を設定すれば、石破政権は何とか存続できるとシナリオを描ける。さらにその次の焦点は、何になるだろうか。
その点、筆者は①中小企業の賃上げ、②米国におけるインフレ・リスク、の2つに絞られると考えている。この①は、6月13日に閣議決定される「骨太の方針」の鍵を握っている。以前から石破首相は、「実質賃金1%上昇」を目標として、「2029年度までの5年間で達成する」と期限を区切っている。トランプ大統領の任期は2029年1月までなので、おそらく相互関税はこの任期中は継続するだろう。石破政権がこの2029年度まで存続しているかどうかは不明であり、時間軸としては実質賃金1%はもっと手前の2026年度中くらいに目途が立たなくては意味がないとみられる。政府の好循環シナリオは、もっと手前の2025年後半でもある程度は、名目賃金上昇率が平均3%程度を維持して、実質賃金のマイナス幅を小幅に止めることが求められるだろう。
では、その先に中小企業の賃上げ率を2026年度にかけて十分に高めることは可能なのだろうか。条件は、輸出企業の収益環境がある程度の好調さを維持できることになる。トランプ関税があっても、日本の輸出企業が対米輸出で利益を稼ぎ、その恩恵を取引先の中小企業も享受できることが条件になる。
中堅・中小企業の課題は、大企業と違って、損益分岐点が高いことだ。財務分析をすると、大企業との間には大きな格差がみられる。つまり、人件費など固定費を負担する財務余力はそれほど高くないということだ。大企業のうち輸出企業が取引先に値下げ要請を一斉に始めれば、中堅・中小企業の損益分岐点は上昇して、賃上げの波及は頓挫しかねない。ここは、米国経済が今後、好調さを維持できるかどうかにかかっている。
米国経済の行方
筆者のみるところ、日本の輸出企業の関税負担は米国経済が成長すれば、和らぐと考えている。FRBの経済見通し(2025年3月)では、2025暦年の実質GDP成長率は1.7%(中央値)で、12月見通し(2.1%)から下方修正を余儀なくされている。2022暦年2.1%、2023暦年2.5%、2024暦年2.8%よりも低い数字である。トランプ関税の重石は大きく、目下のところ減税効果は十分に期待できない状況にある。おそらく、焦点はFRBが追加利下げを行って、現在の政策金利水準を4.25~4.50%から2025年末までに▲0.50%ポイント(2回分)の利下げが実行できるかどうかにかかっている。そのためには、トランプ関税がインフレ要因になって継続的な物価上昇を促すかどうかの見極めが必要になる。米国の消費者物価は、3月の前年比2.4%、4月2.3%とかなり落ち着いている。まだ駆け込み輸入分の在庫が消化されていて、4月以降のトランプ関税は物価上昇要因として顕在化していないとみられる。各国との関税交渉が7月上旬までに進むと考えて、8月くらいまでの米国物価がどうなるかをFRBは注視して、年内追加利下げの判断を固めると予想される。そこで、米国経済が浮上するきっかけが掴めれば、日本の輸出企業は数量拡大によりトランプ関税の痛みを乗り切ることができるだろう。
副作用としての国内物価上昇
ここまでの景気シナリオを一旦まとめてみたい。
論点1:選挙
→参院選での与党過半数維持で、リスク・シナリオを通過。論点2:中小企業の賃上げ
→賃上げの継続はできる。好循環シナリオの堅持。論点3:米国の物価
→トランプ関税が継続的な物価上昇要因にならないと確認されて、FRBがを利下げ実施。
この3つの関門を何とかクリヤーできれば、石破政権はどうにか2025年内は政権を維持できると筆者はみている。
しかし、政権維持シナリオには、もっと別に伏兵が潜んでいる可能性はある。トランプ関税のリスクを通過して、FRBが利下げに踏み切ると、日本の物価上昇はどうなりそうなのか。FRBの利下げは一般的にはドル安・円高要因とみられている。米国経済がそれでソフトランディングできればドル高要因になるだろう。そうすると、日本の輸入物価にも上昇圧力が働くことになる。原油価格WTIも、2025年3月までは1バレル70ドル前後だったところから、4月以降は58~64ドルで推移している。これも米国経済の持ち直しで70ドル以上に戻ってきて、物価上昇圧力を強めると考えられる。
石破政権は、物価上昇率を上回って実質賃金を1%以上に持ち上げようとしているが、米国経済のソフトランディングは副作用として物価上昇圧力を高めて、家計や中小企業の不満を高めることが警戒される。2025年1~4月の消費者物価・総合の前年比は、平均3.7%と2024年の平均2.7%をすでに+1.0%ポイントも上回っている。たとえ、トランプ関税のリスクをくぐり抜けたとしても、物価上昇の不満がくすぶり続けると、石破政権の内閣支持率はそれほど上向かず、与野党内から物価対策に財政資金をもっと支出せよという要求が継続すると考えられる。
財政リスク
トランプ関税のリスクの先にある問題点は、政権運営にとって、家計所得をさらに増やし、物価上昇への不満を押さえ込むことになるだろう。野党は、消費税減税に踏み切って、家計負担を少しでも軽減せよと迫るが、それでは物価上昇の原因自体に何らメスが入らない。物価上昇の原因は、円安によって輸入物価が上昇することにある。日銀の追加利上げをどこかで再開させて、為替レートを円高方向に持っていくことが、物価上昇の火種を消すために必要になってくる。物価対策は、「賃上げと利上げ」をセットで進めていくことにほかならない。どころが、トランプ関税の脅威が根強いときに、円高を促す日銀の利上げは選択できない。日銀の利上げは、その脅威が山を越えてから取り組むべき課題である。この点は、植田総裁も十分に承知していると思う。
日銀の利上げが先々で再開されると、日本政府の債務負担は増えていかざるを得ない。国債の利払費が増加していくからだ。野党が消費税減税で、税収の一部を家計に還元しようと考えているが、それは財政再建を遠のかせて、利払費の負担能力を低下させることになる。すでに、金利のある世界に戻っているのだから、デフレ時代の発想から頭を切り替えなくてはいけないが、政治の世界はまだ十分にそれが理解されていないようだ。
2025年度は、政府が国・地方を併せて、基礎的財政収支を黒字化する期限としていたタイミングである。この期限は、政治情勢の流動化によって守りにくくなっている。それでも、石破政権が黒字化に成功すれば、1991年度以来34年ぶりの快挙になる。国際的に日本の財政運営が信認を回復する一歩にもできる。逆に、こうした財政再建目標がなし崩しになれば、米国に続いて国債の格下げが起こる可能性もある。消費税減税は、格下げリスクを強く意識させるものだ。円安が進み、輸入物価を押し上げかねない。物価対策のために消費税減税をやっているつもりが、やぶ蛇になって物価上昇を煽ってしまう。こちらのリスク・シナリオの生起確率は必ずしも高くないとみるが、参院選の結果次第では高まることも警戒される。